第18話 幌馬車の中で 前編

 私はまた、幌馬車に身体を揺さぶられていた。


 夜の帳もすでに下りきった。深更しんこう特有の夜気はその濃さを増して、夜露の凄艶さを空中にとろかしながら、夜のしじまはぐるりと幌馬車を覆っている。そして静かに息を潜める夜霧の気配が、噎せ返るのほどの青草を交じり合って、肺の空気を重くしている。しっとりとした香を呑み込むと、暗澹あんたんとした気分が体の内へと浸透するようであった。


 押しなべて覆い隠す暗闇に、私も溶け込むようにしてその身を縮こませる。


 幌馬車の風が抜けるその先を、ひそかに私は眺めていた。


 月の光は地上へ零れ落ちる。瞬く間に過ぎてゆく夜の景色が、風にふっと吹き飛ばされる。際限のない木々の立ち並ぶ森を、幌馬車は突っ切る。道ではあるが舗装はされていない、ぬかるみだらけの荒涼こうりょうとした悪路あくろを進む。そんな景色を取り留めもなく眺めていると、妙な焦燥感が頭をもたげ始めた。それは夜の空気がいやに寂寞せきばくとしている所為か、それとも耳にこびり付いて離れない木々の嘶きか、収まることの知らない薄闇の恐怖からか。


 そう、それはあの日の憂鬱。


 訳も分からずにその身を幌馬車にゆだねていた時と酷似している。


 しかし、その時と違う点があるのだ。

 

 横目にちらりと目線を向けた。


「おい、幌馬車ってこんなに狭かったか?」


「グラフィさんの肩幅が大きいだけじゃないんすか?」


 私を挟むようにして、グラフィとダンテもまた、狭い空間に収まるように、必死にその大きな体をすぼめて座っていた。その二人の熱が伝わってくる距離で、私は呆然とその圧迫に身をゆだねていた。


「さっきお前、なんつった?俺の肩幅が大きいっていったのか?その言葉は俺に喧嘩を売っているって解釈でいいのか、あぁ!?」


「そんなぁ、違うっすよ。冗談に決まってるじゃないっすか!グラフィさんはこれでも女性なんですから、思っても言えな、……あっ。」


 彼は失言したと手で口を塞ぐ。


「てめぇ、この野郎!」

 

 私の気も知らないでこの身をめちゃくちゃに圧し潰す彼ら。


 現在進行形で私の華奢な体は二人(特にグラフィ)に、目的地に到着する頃には、もうその原型すら留めていないんじゃないかという所まで、めためたに押しつぶされていた。


「うっ、やめ、ううう…。」


 私の体は絞られた雑巾のよう。「やめてください」と言おうにも、小さな体のせいか、すぐに頭まで埋もれてしまう。だからか、私の悲痛な嘆きは彼らには届かない。


 それほどまでにもみくちゃにされているせいか、開放的で冷気の入り込む隙間しかない幌馬車の中でも、さほどの寒さは感じなかった。ダンテが身に纏うコートは実にふわふわ心地よい。しかし、その白魚のような指先が私の肌に触れた時、異常なまでの冷たさに私は驚いた。


 グラフィはその逞しい筋肉が発熱しているかのように、体に熱気を帯びている。さすがに病気かと思い、彼女の健康を案じその容体を尋ねたが、それが平常らしい。ダンテもそこで聞いていたからまず間違いではないだろう。


 彼らの体温の違いにより、人寂しいといった感情が湧くことはなかった。


「うっ…。」


 幌馬車は小石に車輪を乗り上げるごとに、ガクンとその身を揺らす。それに揺られる二人によって徐々に体は潰されて、私はすでに虫の息だった。


「オスカーの野郎。大層な馬車があるってのに貸そうとしねぇからな。」


「…それはグラフィさんのせいでもあるんすけどね。」


「……。」


 痛そうに頭を注意深く擦っているダンテがまたも琴線に触るようなことを言ったが、意外にも彼女は何も言わなかった。


 

 私たちが出発する前の時である。


 馬の多くは例の爆発で逃げてしまい、そもそも3台ほど幌馬車は欠けていた。だから、村の中には小さな幌馬車とレイニーの馬しか残っていなかった。しかし、出発の準備中にかなりの幌馬車と馬を見かけた。


 オスカーと兵士がこの村に来るまでの移動手段として用いたのだろう。そこで私たちはその馬車を借りようと計画した。


 いつの間にか服を新調していたグラフィはいやいやオスカーに駆け寄って、馬と幌馬車の要求をした。…しかし彼女の不遜な態度がいけなかったのだろう。「俺にくれてやるって気概を見せてくれてもいいんだぜ」と、明らかに上から目線の物言いでオスカーに頼み、こうして今に至るというわけだ。



「おいアザミ、寝たのか?」


「………っ!?」

 

 眠るように意識を手放そうとしていた時、彼女のその声にハッと我に返った。


「…起きたのか?…なんだか悪いことをしたな。」


 首に手を回して決まりが悪そうな顔を見せた。


 そんな彼女を目の端でぼんやり見ていると、気を失いかけていたなどとは言えなかった。言おうとしたけど、途中でやめた。


「眠たいなら僕の肩を貸しましょうか?」


 私にしか聞き取れない声で彼はそう言った。


 それに呼応するように、サンドイッチのように埋まっていた体を無理やりに抜け出した。そして「大丈夫です」と一つ背伸びをして、グラフィにもたれかかった。


「嫌われているみたいだな。」


 意地の悪そうな笑みを浮かべる彼女。


 別にそんな意図はない。右足が欠けてバランスが取れないから、重心のしっかりとしたグラフィにその身を預けているのだ。決してダンテが気に入らないというわけではない。そう、決して。


「もしかして睨んでます?」


 そんな彼の言葉を無視してまぶたを閉じた。眠たくはあった。しかし、どうしてか眠る気になかった。いいや、私がなぜ眠る気にないのかは分かっている。


 二人の呟き声が聞こえる。仕事はどうだとか、セシリアは何をしてるのかとか、グラフィに恋人はいるのとか。あっ、鈍い音が聞こえた。


 そんなたわいのない無駄話を聞いていると、口元に微笑が滲んできた。

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