大雨シャンプー

 ゆっくりコーヒーを楽しんでいると、徐々に雨の音が変わってきた。


「雨、強くなってきたね」

「ねえ。雨が強くなったらひとつやってみたいことがあったんだけど、ちょっといいかな?」

「何をやるのかは……そうね。じゃあまずは道具を見てもらおうかな」


 お姉さんはそう言うと椅子から立ち上がった。


「ああ、荷物? うふふ、今日はちょっと張り切り過ぎちゃった」


「さすがにこれを担いでは歩けないわ。ここには車で来てるの。近くの駐車場に止めて、そこからはえっちらおっちら」


「大変は大変ね。でも、だからこそこのコーヒーが美味しくなるんだよ」


「んー? 別にキミが来なくてもこうしていたからいいよ。元々時々やっていたことでもあるし。まあ椅子をふたつ運んだ意味はなくなっちゃうけど」

「まあまあ。こうしてキミはいるわけだから、そんなに深く考えなくてもいいんじゃないかしら」

「私もなんとなくキミと会える気がして持ってきただけだから」


 それからお姉さんはまた片隅によせた荷物から何かとってきて、それをテーブルに並べる。


「じゃーん。もう分かったかしら。私がやりたいのは、シャンプー」

「大雨で洗い流すシャンプーを、一回やってみたかったの」

「女性ひとりで河川敷大自然シャンプーはさすがの私でも人目が気になってできなかったのだけど、キミがいれば、ようやく出来そう」


「だから、ねえ、いいかな? シャンプー」


 子どもがお菓子をねだるみたいにお姉さんが言った。

 しかし二つ返事で了承はしがたかった。


「もちろん、ここでするのよ」


「キミは……そうね、見張りをしてくれるだけでもありがたいし、私にシャンプーをしてくれるなら、それも楽しそうかな」


「服? 大丈夫よ。濡れちゃうつもりで、着替えも持ってきているもの」


「完璧でしょ」


「あれ? 何か問題があるかしら?」


「ええ、ひとまずこの服は濡れることになるわね」

「ええ、ここで着替えることになるかしら」


「大丈夫よ。テントもあるし、後はキミがじろじろ見ないでいてくれれば」


「くすくす……大丈夫よ。ちょっと盗み見るくらいなら、気づかないから」


 お姉さんはどこまで本気か分からないようなことを言う。

 もしかして全部本気なのかもしれない。

 このままペースに乗せられてはダメだと提案をしてみる。


「へえ……私がキミを?」

「それだと、キミが濡れてしまうけれど……」


「ふふ、そんなに私が濡れると困るのね」


 強めに主張すると、お姉さんはようやく納得してくれたようだった。


「……分かった。いいよ、私はそれでも」

「うん、持ってきた着替えも、キミも着れなくはなさそうだしね」


 自分でするのと他人にするのでは随分と変わる。

 お姉さんがそれでいいのかは正直不安だった。

 しかしお姉さんは寧ろ不思議と楽しそうに見えた。


「ふふふ」


「うん? ううん、可愛いなーと思って」


「くすくす……そうね、それじゃあまずは髪を濡らしてもらいたいかな」


「うん、雨で」


「服はどうする? 着たままにする?」

「濡れても着替えはあるけど、脱いでおけばそもそも着替える必要はなくなるよ」


「ふふ、脱ぐのは恥ずかしい? じゃあそのままで。終わったら着替え出すね」

「じゃあ……さっそく雨に打たれてきてもらえる?」


 生まれてはじめてのお願いをされて、テントから外にでる。

 お姉さんはテントに残った。道具の準備があるそうだ。

 頭がしっかりと濡れるまで、強い雨に身体を晒し続けた。


「お帰りなさい……うわ! びちょびちょ。ちょっと待って。顔とか身体とか拭きたいよね」


 帰還は驚きとともに迎え入れられ、慌てて近寄ってきたお姉さんがタオルで顔周りを拭いてくれる。

「ごめんなさい。服までぐっしょりだね」


 服もすっかり濡れていたので、上だけ脱いでテントの隅で絞る。

 それからお姉さんがくれたタオルで身体を拭く。

 どうせまた濡れる必要があるため、再び同じ服を着た。


「下は大丈夫?」


 お姉さんが心配そうに聞いた。


「そう? 下着はないけれど、ズボンなら貸せるから遠慮なく言ってね」


 しっかりと断ることでお姉さんはようやく心配を引っ込めてくれた。


「それじゃあ、こっちの椅子に座ってもらえる?」


 骨組みの音がする立派なキャンプ椅子にまた腰を下ろす。

 お姉さんが後ろに立った。


「さて。それじゃあ洗っていくね」

「あ。シャンプーは外で使っても大丈夫なやつだから、安心して」


 お姉さんがわしゃわしゃと髪を洗い始める。


「ふふ。人の髪を洗うのなんていつ以来だろう」


「……あれ? 人の髪を洗ったことなんて、今までの人生でないかしら?」


 ぎこちない指遣いと、気になるセリフをはきながらお姉さんは洗髪を続ける。


「正解が……いまいち……」


「美容師さんってどうやってたかな……」


「まあ綺麗になるかというと……仕上げが雨という点でもう怪しいわけだし……頭皮マッサージだと思ってもらえばいっか……」


 お姉さんは徐々に慣れてきて、やがて軽やかに指を動かし始めた。


「ふふ。結構楽しいかも」


「あ、そういえば痒いところとかある? あったら言ってね」


「うん、鼻の頭と耳ね。ちょっと待ってね」


 言って、お姉さんが鼻の先端と耳の周囲を指先で掻いてくれる。


「はい。これでどうかしら」


「耳がまだ気になる? ……濡れてるからかな」


 そういうとお姉さんが離れる気配がした。

 戻ってくると、柔らかい感触が耳に触れた。


「タオルで拭きとっちゃうね」


 耳の周り、外側、内側と丁寧に拭いてくれる。


「あ、ごめん。くすぐったい?」


「気持ちいい? なら良かった」


「耳って触られてるだけで気持ちいいよね」

「私も昔は、お母さんにしてもらう耳掃除が好きだったなあ」


 そう言って耳の内側を優しくなぞった。

 昔を懐かしむような間延びした声で言った。


「でも耳掃除だから、そんなに長くはやってもらえなくって」

「『あんまりやると耳、痛くなっちゃうよ』って言われて……『もうちょっとだけ』っておねだりして」


「分かってくれる? ふふ、ありがとう。じゃあ後でもうちょっとやってあげようかな」

「まず髪を洗ってから。先にそっちを流さないとね」


 そして髪を少し触り、お姉さんが言った。


「まあ、もう髪は流しちゃおうか」


「よし、じゃあ立ってもらえる? はい、私の手を握って」


 目を瞑っている僕の支えとなるようにお姉さんが導いてくれる。

 自然といつもよりも寄った距離でお姉さんが言った。


「じゃあ、私に離れないでついてきて」


 言われた通りにすると、すぐにテントを抜け、雨が身体を濡らし始める。

 少し雨脚は弱まっていた。

 シャンプーを洗い流そうとするとお姉さんが制止した。


「待って待って。そこもやらせてほしいの。やっぱり最後に雨で流すところが醍醐味じゃない?」


 ちょっと待ってて、と言い残しお姉さんの足音がテントに戻っていく。

 すぐにがしゃがしゃという音とともに戻ってきた。


「はい、椅子。持ってきたから、また座ってもらっていい?」

「立ってると、ちょっと洗いにくいから」


「あはは。私も濡れちゃうけど、もういいかなって」

「私だけ濡れないのもなんか不公平な感じするし。というか、何か我慢できなくなっちゃった」

「大丈夫。あったかいから。後でちゃんと身体拭けば多分風邪引かないよ」


「ほらほら、はやく座って。全部流れちゃう」


 椅子に座ると、お姉さんが後ろにまわって髪に触れる。


「流していくからねー」


 お姉さんの指が髪を梳く。

 はじめはシャンプーの感覚が強かった。

 しばらくたつとピチャピチャ髪を触る音がしてきた。


「うーん……」


 お姉さんは少し不満気な声を時々漏らした。


「んー……」


 流し終えているのか分からなかったから、お姉さんが指を離すまでじっと待っていた。


 すると


「ちょっと待ってね」


 と言って、テントに戻っていく。すぐに帰ってきた。


「頭、もうちょっと突き出してもらっていい? 頭突きするみたいな感じで」

「残り、ペットボトルの水で流しちゃうから」


 合っているか不安になりながら首を前に突き出した。

 すると水の塊がぴしゃっと頭に当たり、それからとくとくと水を注ぐ音が頭上から聞こえてきた。

 同時にお姉さんの指がまた髪を撫でる。


「よし、これでいいかな」


 呟いて色々な角度から髪を見ている。

 時々触り、うんうんとひとりで頷いていた。


「うん、まあいいわね」


「よし、これでおしまい!」


 お姉さんが元気よく言ったので目を開けた。

 目の前にお姉さんがいて、首をわずかに傾げて質問をしてきた。

 

「……どう? 大自然は感じられた?」


「そうね、私は感じたわ」

「思ったよりも流れなかったけど、そういうところも含めてだよね」

「解放感や融通の利かなさ……これぞ自然、だね」


「うん! 満喫した。キミのおかげね。ありがとう」


 お姉さんは満足そうに言った後、大きく伸びをした。

 そして一区切りと言った様子で切り出した。


「じゃあ、こっち。テント、入って」


「そうしたら、身体拭いて、これに着替えてもらえる?」


 お姉さんが用意していた着替えを渡してくれる。

 サイズは問題ない、デザインも男女を限定しない無地のシャツだった。


「うん、大きさは問題なかったわね。よかった」


「下はいいの? しみ込んでたりしない?」


 もらった着替えは上下あったが、上しか着替えなかったため、聞かれた。


「下着なくても履いてもらって、大丈夫よ?」


 頑なな僕の態度を見て、お姉さんは少し困っているようだった。


「大丈夫? そう? まあキミがそういうのならいいけれど……」


 ただお姉さんの信条なのだろう。拒むとそれ以上は勧めなかった。


「……まあでも、今日はこれで解散にした方がいいのかな」

「もちろん私にキミがどうするか決める権利はないけれど」


 やはり選択肢のひとつといった態度でお姉さんが提案した。

 お姉さんを困らせてしまうかもしれないと思いながら、ひとつお願いをする。


「え? ああ、耳? そうだった、忘れてたわ」


 お姉さんはうっかりしていたと笑った。

 それから少し考えて僕の全身をざっと見た。

 目の奥に葛藤を湛えて息継ぎをするみたいにまばたきをしたあと、お姉さんはやっぱり微笑んだ。


「ふふ、じゃあまたそこの椅子に座ってもらえる?」


 椅子がぎしりと鳴って、弱まった雨音が満ちて、調子を戻したお姉さんの声が聞こえてくる。


「うん。……それじゃあ」


 そして、耳をタオルで優しくなぞってくれる。


「……気持ちいい? ……そう」


 反応を見ながら、丁寧にゆっくりとお姉さんの手が動く。

 右と左と。奥と手前と。擦り、たたいて、くすぐった。


「……さてと、こんなものかしら」

「うん? ふふ、もうちょっと? しょうがないなあ」


 終わろうとした瞬間自然と出たアンコールにお姉さんは懐かしそうに喜んだ。

 そしてもう一度同じように触れてくれた。


「はい、じゃあこれで本当におしまい」


 最後にお姉さんはそう言って指を離した。

 いつものお姉さんと少し違う雰囲気がした。

 もしかしたら母親を無意識に真似しているのかもしれない。


「いいよー。これくらい。私ばっかりお願いを叶えてもらうわけにもいかないわ」


 お礼を言うとお姉さんは軽く言った。


「あら、またシャンプーしてもいいの? ありがとう」

「でもそうね……今度はあなたにシャンプーしてもらおうかしら」


 そしてお姉さんはまたいつもみたいにからかうように笑った。

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