西の空

塩木 らんまい

第1話


 西側の窓に掛かったカーテンがポッポッと赤く明滅した。

 少し遅れて爆発音。


 テーブルの時計を裏返すと十九時三十五分を指している。

 戦闘はまだ隣の町で留まっているようだ。


 部屋を見回した私は一瞬、気がふれたような錯覚を起こしかけたが、小さな声が現実に引き戻してくれた。


 「ねぇパパ、お外がいつもと違うね」


 少女は空き箱をつなげて作ったベッドに座り、カーテンを見つめていた。

 ベージュ色の薄い生地は数ヵ所に裂け目があり、テープで補修がしてある。


 少女の名前はマータ。六歳にようやく届きそうな年ごろ。


 「きっと今夜は街でパレードがあるんだよ」


  背後から彼女を囲うように、私もベッドに腰を下ろした。


 「パレード?本当に?」


 振り向こうとした彼女の首はとても細く、頸骨が透けて見えるようだった。


 「ああ、本当だとも。」


 首筋を軽く撫でたあと、彼女の髪を指先でとかしはじめる。


 「お外、ちょっとだけのぞいちゃだめ?」


 いつもと違う日常に少し興奮しているようだ。


 「そいつはオリバーさんへの裏切りになるからなぁ」


 オリバーさんは私が作った架空のアパート管理人である。

 我々を住ませてくれる代わりに、部屋からは出ない約束になっている。

 オリバーさんのためにカーテンは開けないのが決まりだった。


 髪をとかしながら、指先に神経を集中させる。

 指先が引っかかると彼女は痛がるのだ。

 産毛のように柔らかい髪は、油断するとすぐに絡まってしまう。


 遠くでサイレンの音に混じって、銃声が鳴り響いた。

 自動小銃の連射音と、単発式ライフルの音が空気を切り裂いていく。

 久しく聞いてなかった” 騒音 ”に思わず吐き気を催す。


 二人きりの部屋には粗末なテーブルと流し台のほか、家具は一つもなかった。

 鏡や照明のたぐいもなかった。

 持ち物は二着分程度の衣服だけである。


 一度も風を通したことのない部屋は空気は淀み、壁や天井には幾重にも染みが広がっている。

 部屋の匂いはとうに感じなくなっていたが、擦り切れた絨毯の上を素足で歩く、我々の足の裏はカビくさい匂いがした。

 浴室に設置されたシャワーは使わず、水を含ませたタオルで体を拭いた。

 小さな声で会話をし、窓際にはなるべく近づかなかった。

 静寂こそが最良である。


 両隣の部屋からも物音はせず、誰か暮らしているのかは知る由もない。

 かすかに聞こえてくる話し声や足音、排水音、呼び鈴の音が何処から来るのかは見当もつかなかった。


 窓は一度も開けたことはないが、さまざまな音を通して外の世界を感じることができた。

 行き交う自動車のクラクション、固い靴底でアスファルトを歩く音、若者たちの笑い声、老人の怒った声など、生活からあふれ出る騒音は、安心感を与えてくれた。

 今夜の騒音は正反対で恐怖しか運んでこない。


 部屋には仲間がいた。

 奥側の壁の中にハツカネズミが一匹と、流し台の床にゴキブリが数匹。

 夜の間に余ったパン切れを置いておくこともあったが、たいていは缶に満たした水しか置けなかった。


 「アディー、最近出てこないね」


 心配そうに彼女がつぶやく。

 アディーはハツカネズミの愛称で、我々がこの部屋に来る前からの先客である。

 私はネズミに愛着などなかったが、彼女が気に入っているので目をつぶってきた。


 「あたしの食べ物をもっとあげられたらいいんだけど」


 もちろん彼女は本気で言っているが、いざ食事にありつくと、わずかすらも残してやれなかった。


 「今度の配給を少しとっておこうか?」


 彼女を安心させたくて言ってみたが、現実には配給などとうに破綻しており、不定期に食料が手に入るだけだった。


 「そしたら元気になって出てきてくれるかな?」


 「そうだと思うよ」


 空腹をかわすことは生きる上で必要なことだが、仲間の存在は人間性を保つのに必要だ。この部屋に長く暮らす上でこの二つは同等の重さがある。


 「いつか一緒にベッドで寝られますように」


 両手を顎の下に組み、目を閉じた彼女が言った。


 「一緒にって、アディーとかい?」


 「うん」


 「パパは気が進まないなー」


 「それならパパとアディーの間でマータが眠るよ」


 さすがにゴキブリに名前はつけていなかったが、退治しようという気にはなれなかった。害虫であってもいてくれたほうがいい。


 私とマータは少ない食べ物を分け合い、互いを頼って生きのびてきた。

 まるで生きていないかのように息を殺し、思いを殺して生活してきた。

 いつかこの部屋から開放されることを夢想していたが、口に出したことは一度もなかった。


 ひゅる ひゅる ひゅる ドン!

 落下音の後に爆発音。

 銃声!、拡声器を通した怒声!、銃声!、サイレン、銃声!

 わずか二十分足らずで、戦闘は町に忍び込んできた。


 「おそら、燃えてるみたいだね」


 窓とのカーテンの隙間から差し込む光は、部屋に朱色の陰影をつくった。

 人が駆ける足音、叫び声、銃声、建物が崩れる音。重なり合った喧騒がものすごい勢いで迫ってくる。

 ――― もう時間の問題でしかない。


 二十時

 「そろそろ時間だよ、マータ」


 彼女の両脇に手を差し入れ、ベッドの上まで引き上げながら、就寝時間が来たことに安堵する。

 彼女のへこんだお腹と、飛び出たあばら骨を薄い毛布で覆いながら、情けない気持ちでいっぱいになった。


 「もう寝なきゃだめ?」


 毛布から顔だけ出したマータが聞いた。


 「そうだねえ。その方がいいね」


 「今日はドキドキして寝られないかも」


 いつもとは違っていることを、彼女なりに感じているようだ。

 私は絶望した気持ちを悟られないように、隅の流し台まで行くと彼女に背を向けた。

 引き出しから古釘を取り出してじっと見つめる。

 ――― 何もかもムダだった。


 流しの正面は石膏壁になっており、一日の終わりに「傷」を一本つけるのが日課である。


 「どうして今日は眠くならないんだい?」


 平静な声を装いながら、古釘で壁に一傷つけた。


 「だってパレードが近づいてきてるんだもの」


 傷はあと三本で二百本になる。

 彼女の声からは、窓を開けてパレードが見たい、という思いが滲んでいた。

 

 すがるように何かに祈ろうとしたが、祈るべき対象が何も思い浮かばない。

 祈りなど無意味であることに今更ながら気づいた。


 腰を屈め、戸棚下の扉を開く。

 ゴキブリがカサカサと逃げ去るのが視界の隅に見えた。

 奥にあるブリキ缶を取り出し、蓋を開ける。

 中から油紙で覆われた包みを取り出すと、急いでポケットに突っ込んだ。

 ふりかえるとマータが私の顔を凝視しているように感じて、胃袋を握りつぶされたような気分になる。


 水の入ったコップを持ち、マータを見ないようにベッドまで歩いた。

 首の後ろに浮かんだ汗をさりげなく左手で拭う。

 コップを置いて彼女の横に寝ころんだ。


 カーテンはオレンジ色から緋色へと変わりつつあった。

 部屋の中は夜とは思えないほどに明滅している。

 人々の悲痛な声と、街が燃えている音が聞こえた。


 ――― もういいだろう。

 意を決して上半身をベッドの上に起こす。

 彼女の瞳を覗き込みながら、ささやくような声で言った。


 「マータ、あした遊園地に行こうか?」


 一瞬、意味を理解できずにいた彼女だったが、やがて瞳が大きく見開かれた。


 「本当に?」


 小さなひたいに重ねた私の手をふり払うと、彼女も起き上がった。


 「でも ・・・ おそとに出ちゃいけないんでしょう?」


 「明日はとくべついいんだよ。オリバーさんに頼んだから。ねぇ行きたい?」


 「・・・・・」


 何も答えない代わりに、私の胸に顔から飛び込んできた。

 枯れ枝のような彼女の体を、壊れるくらいの力で抱きしめた。

 胸と腕に挟まれた顔を苦しそうに私に向けると彼女が言った。


 「ねぇ、ママも来てくれるかな?」


 私は少しためらったが、彼女の瞳に過去の残酷な記憶が残っていないことを確認してから言った。


 「来るにきまってるじゃないか」


 ママの話からすぐに離れたかった私は、急いで続けた。


 「そのかわり、お薬を一つ飲んでくれる?」


 「お薬? あたし病気なの?」


 「ちがうよ。久しぶりに外にでると風邪を引くからね。先に飲んでおくんだよ」


 震える手を太ももに押し付けながら、油紙の包みをひらいて薬を見せた。


 「この中から一つだけ選んで飲んでくれる?」


 三つのカプセルはどれも同じだったが、彼女は迷ったあげく一つを選んだ。


 小さくて青いカプセルは、彼女の細い喉には大きかった。

 私のささえたコップから三度目の水でようやく飲み下すと、「はぁー」とため息をついた。

 残った二錠を私は一口で飲み干した。


 これ以上、彼女の顔を見ていられそうもない。


 「さあ、もう寝ようか」


 「うん」


 彼女は勢いよく横になった。


 ふたたび彼女の体に毛布を掛けると、その上から抱きよせた。


 「パパ! うれしくて夢みたい。早く明日がこないかな」


 「すぐだよ。明日は遊園地で何に乗るか決めたかい?」


 「うぅん。あしたママと相談して決めるよ」


 言い終わると同時にマータは目を閉じた。


 カーテンは緋色に覆いつくされた。

 喧騒は外で起きている事態が見えるくらい明瞭になっていた。


 この建物の廊下にも人々の悲痛な声が轟いた。

 銃声が響く度に声は一旦、途切れたが、またすぐに増幅した。

 部屋の前を右往左往と走る足音。

 ドンドンと壁を叩く音。


 それらすべてがぼんやりと遠ざかっていく。


 マータはかすかにほほ笑んでいるかのように眠りについた。

 頭の中はきっと幸せで満たされている。

 このまま眠りにつくのが最善なのだと、自分の中で何度も反すうした。

 恐怖の中で眠りについたのではあまりに不憫だ。


 私は長い期間、不眠症を患っていたが、今夜だけはだいじょうぶだ。

 マータのぬくもりを腕に感じながら、わずかな反応にも意識を集中した。

 彼女がこの瞬間に幸せを感じていることを想像すると、このうえなく満たされた気持ちになれた。


 西の夜空は緋色一色に染まっている。

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西の空 塩木 らんまい @imabob

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