36,兄よ



 例えば。


 長い人生生きていてビックリすることっていうのは沢山あると思う。

 近所の商店街で学生以来の友人にバッタリ会ったとか、転職先に前の職場と接点があった取引先が来たとか。

 残念ながら私には学生時代の友人もいないし、前職もない。両方とも経験はないけれど、多分経験者はとても驚いたことだろう。

 十分に存在する出来事の一つだ。


 それらは長い人生において、結局小さなスパイスにしか過ぎない。


 そう、だから私と実際血の繋がった兄弟が、違う所属とはいえ職場にいてもあり得ることだと思う。





「アッ、アッ、アイリスぅー‼」

「いぎゃーッ‼ 来ないでよッ‼」


 汚い。主に顔が。


 盾になってくれている団長を通り越して、圧が飛んでくる。

 思わず逞しい背中を押してしまった。すいません。


「怪我は⁉ 可愛い顔に傷なんか作っていないだろうね⁉」

「大丈夫大丈夫、なんともないから‼ 外で話しかけないでっていっつも言ってるじゃん‼」

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろう⁉ 俺がどれだけ心配したと思っているんだ、もう心配を通り越して鼻から心臓が飛び出てくるかと思ったんだよ‼」

「きも……じゃなくて、心配かけてごめんなさい、だからお引き取りを‼」

「お前も一緒に帰るんだ‼ ちょっと目を離したらこんな詐欺紛いな結婚をッ……‼ だからお兄ちゃんは空軍に来るように言ったんだ‼」




「オブライエン副団長……あの、彼女とホーリングスワーグ団長は……?」

「知らない知らない、え、なに? お兄ちゃん……?」


 嫌な会話が聞こえる。


「ホラッ、まだ弁解なら間に合うからサッサと帰って!」

「間に合うってなに? 弁解って何⁉ 俺はアイリスを迎えに来たんだよ早く帰ろうアイリスの大好きなパート・ドゥ・フリュイを用意してあるんだホワイトティーにオレンジ花水のシロップも勿論あるよそうだアプリコットジャムは鉄板だよねいつものお店から取り寄せようね昔から大好きだったもんねお兄ちゃんはちゃあんと覚えているよお茶会が終わったらお兄ちゃんがよしよししてあげるからお昼寝しましょうねぇえぇぇぇ」

「おっも……」

「拗らせていますね。アイリスが怯えているのでそこ退いて貰ってもいいですか」

「そうか、アイリスが帰るのにお前が邪魔だね」


 あかん、標的が私から団長に移った。


 今度は自分が盾になろうとしたが、岩のように立ちはだかる団長を押してもびくともしない。なんという体幹。すげぇ。


「はい」

「なんですか、この紙は」

「見てわかんない? お前達の離婚届だよ」

「はあ⁉ ちょっとお兄ちゃん‼」


 何を勝手に‼

 やっとの思いで団長の背中から顔を出し、その手の中にある紙を見る。

 おお、離婚届だ。しかも私の欄はしっかり記入済み。


「なに勝手に人の離婚届を用意してるの⁉」

「勝手にって、どうせ結婚もアドウェルが勝手に進めたんでしょ?」

「ちがっ……くはない……?」

「アイリス、そこで語気を弱めないでくれ」


 ハッ、素直な私が出てしまった。


「ほら、サッサと名前を書いてよ」

「できません」

「はあ? 何言ってんの、警察に突き出すよ」

「俺の妻はアイリス一人だけです」

「ヒョ、」


 急に体が温かい物に包まれた。

 この世の終わりを体現したような兄の顔が視界に入り、自分がどうなっているのか把握する。


 団長に抱きしめられているのだ。


「最初こそは多少強引だったかもしれません。

 ですがアイリス自ら〝ここから生きて出たらずっと一緒にいる〟〝私の旦那様は貴方だけ〟と、つい先ほど言葉にしてくれましたよ」

「なにそれ、妄想じゃん。ねえアイリス?」

「…………言った、よ」

「いっ……えっ⁉ 言ったの⁉」


 また素直な私が顔を出した。

 羞恥で顔が赤いのは承知の上。抱き寄せる団長を睨み上げた。


「バーミンガム団長! そのお話はそこまでにしてください、第三者に話すようなことではありません!」

「そうだな、この続きは二人でゆっくり語らうとしよう」

「え……ええっ……えー…………?」


 この場からなんとか切り抜けたい。その一心だった私は気付かなかった。

 私達を取り巻く空気が、まるで大事件を乗り越えた後で絆が深まった夫婦そのものだということに。

 そして団長から飛び出してきた、私が結婚を肯定する言葉。


 兄が崩れ落ちた。


「嘘……嘘だ……嘘だと言ってくれぇ……ッ‼」

「だから重いんだって……」

「そうですよ、そんなんだからアイリスから避けられて廊下ですれ違っても声をかけるなと言われるんです」

「なんでバーミンガム団長がそのことを知っているんですか」


 というか、なんで私と兄の関係をこの人が知っているんだ。


「ア、アドウェル?」


 おいおいと地面に泣き伏せる兄をどうやって慰めたらよいかと悩んでいると、遠慮勝ちにオブライエン副団長が声をかけてきた。


「あのさ、僕達の聞き間違いじゃないと思うんだけどね?

 話の流れから行くとアイリスとホーリングスワーグ団長が兄妹? みたいに取れたんだけど」

「ああ……。


 そうだ。二人は血の繋がった兄妹。

 最も、兄の方は幼少期に養子に出ているがな」


 オブライエン副団長が顔を覆った。

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