夜明け前
錆びついた柵を乗り越え、ひび割れたコンクリート製の階段を登る。プールサイドはタイルを押し上げるほどに生命力に溢れた雑草が伸び放題、そしてすぐにプールに異変が起きていることに気がついた。
「これは一体」
康司は目の前の光景が信じられず、唖然としている。真由実はあまりに悍ましい光景に目を細める。友紀も胸が焼けるような鉄の匂いにハンカチで鼻を塞いだ。
二十五メートルプールに並々と注がれた液体が月明かりを受けて黒く輝き始める。プールを満たすのは血だ。血がうねり、表面が波打つ。
あの時、踊り場の階段にあった血の鏡がここに再現されたのだ。
康司はプールサイドに一歩踏み出す。黒いうねりの中に怪物が暴れているような錯覚に恐怖を感じる。この先に陽介が旅立った異界があるのだろうか。
「康司くん、この先に行ったら戻って来られないのよ」
足を踏み出そうとした康司を真由実が必死で止める。
「行かせてくれ、俺は罪悪感を背負って生きるのは嫌なんだ」
康司は乱暴に真由実の腕を振り払う。
「陽介くんが飛び込んだ状況も時間も違うわ、この先に陽介くんがいるとも限らないのよ」
真由実の言い分はもっともだ。あれから二十五年が経っている。今更ここに飛び込んでも意味がない。康司は唇を噛む。
「あなたは惨めな現実から逃げたいだけなのよ。飛び込めばここではないどこかへ行ける、それでもあなたという人間は変わらないわ」
友紀がうねる黒い水面を見つめながら呟く。
「お前の言うとおりだ、友紀」
康司は情け無い顔で振り向く。目の前の恐ろしい光景に麻痺していた感覚が呼び戻され、涙が流れ落ちる。
「でも、俺は変わりたい。あの時、友達を助けられず、逃げ出した」
康司は泣きながら笑っている。
「こんなところに飛び込んでも何も変わらない」
真由実は叫ぶ。しかし、康司は飛び込み台を蹴り、ジャンプした。
「いやあああっ」
赤黒い飛沫がプールサイドに飛び散った。康司の身体はみるみるうちに血の海に飲み込まれていく。
真由実は頭を抱えて絶叫する。助けようにも康司の姿は瞬く間に見えなくなった。
「嘘でしょ、どうして」
真由実はプールサイドにへたり込む。不意に背中を強く押された。
真由実はバランスを崩し、血で満たされたプールに転落する。
「嫌あああっ、助けてっ友紀」
生暖かい血が身体中に絡みつく。真由実は必死で手足をバタつかせる。
「あなた、康司くんのこと好きだったでしょ。追いかけなさいよ」
友紀はプールサイドで腰を両手に当てて笑っている。
「友紀、お願いっ」
真由実は血に塗れた手を伸ばす。
「真由実ちゃん、私のこといつも下に見てたよね。子分みたいに扱って、可愛いヘアゴムも、ブローチも要らないからあげたんだって」
友紀は苦しそうにもがく真由実を見つめ、唇を歪める。
「さよなら、真由実ちゃん」
友紀は踵を返す。
「友紀、私あんたのこと嫌いだったのよ」
真由実は血に溺れながら必死に叫ぶ。友紀は足を止めた。
「頭が良くて、泣き虫で、いつも康司や陽介に構われてた。あんたなんて大嫌いよ」
「やっと正直に言えたね、真由実ちゃん」
友紀はプールサイドにしゃがみ込み、見苦しく暴れる血塗れの真由実を生温い目で見つめる。
口から鼻から血が流れ込んできた。激しく咳き込んで真由実は血のプールに沈んでいく。
***
目を開けると、白み始める薄曇りの空が見えた。鬱蒼と繁る雑草が露下した肌に触れる掻痒感と水溜りにたゆたう藻の匂いに康司は顔を顰める。
身体を起こし、周囲を見回すと剥げかけたプールの壁が見える。地面だと思っていたのはプールの底で、ボロボロのタイルが散らばっていた。
ここは一体どこなのだろう。あれだけあった血はすっかり引いてしまったのか、跡形もない。
康司は立ち上がり、周囲を見渡す。プールの壁近くに倒れている真由実を見つけた。
「真由実」
康司は慌てて真由実に駆け寄り、肩を揺さぶる。真由実は小さく呻いた。良かった、生きてる。康司は安堵する。
「一体どうなってるの」
真由実は鈍痛が響く頭を押さえながら立ち上がる。友紀の姿はない。血のプールに落ちた二人だけが今ここにいるのだ。
康司と真由実はプールから這い上がり、階段を降りていく。朝日が当たり始めた校舎を懐かしい気持ちで眺めている。
運動場を歩いて誰かこちらへ近付いてくる。逆光で顔が見えない。警備員だろうか、廃校に忍び込んだことを咎めにやってきたのかもしれない。
目の前に立ち止まった男を見て、康司と真由実は立ち尽くしたまま、顔を見合わせる。
男の顔は初めて見る。しかし、その顔には面影があった。
「あの、突然すみません。ぼくは武田と言います。どこかで会ったことが」
「俺は三井康司」
「私は森尾真由実よ」
武田と名乗る男は信じられないという顔をしている。きっと、康司と真由実も同じだったに違いない。
「陽介!マジかよ」
康司と陽介は肩を抱き合う。真由実は感極まって泣き出した。目の前にいるのは同年代に成長した武田陽介だ。血の鏡に呑まれてから、同じ年月を経過しているように思えた。
「今までどこに行ってたのよ」
真由実は涙も拭かず、陽介に泣きつく。
「君たちこそ、どこに行っていたんだ」
陽介も涙を拭いながら困った顔をしている。
二十五年前のあの日、異界に行きたいと願って陽介は血の鏡に飛び込んだ。しかし、飛び出した場所は元の何もない旧校舎の踊り場だった。
異界と思っていた場所は、本来いた世界だったのだ。
「七不思議を体験するうちに、異界に引き込まれていたのか」
康司と真由実は顔を見合わせる。鏡に飛び込むことで元の世界に戻れたのは陽介一人だったのだ。
陽介も三人を七不思議の探索に巻き込んだこと、元の世界に戻せなかったことを悔やんで生きていた。
友達を必ず連れ戻そうと、父親との軋轢を乗り越えて勉強して大学に入った。科学からオカルトまであらゆる研究に取り組んだが、手がかりは掴めぬまま苦悩していた。
今日はあの日から二十五年目だということを思い出し、ここへやって来たという。
「元の世界か、きっと陽介がいるってこと以外何も変わらないんだろうな」
康司は鼻を啜りながら自嘲する。
「異界というのは別の時間軸なのかもしれない。今まで君たちのいない世界だったが、これからは君たちのいる世界になる」
陽介の言うことはよくわからない。
「友紀ちゃんは?」
陽介に言われて、真由実は口を噤んで俯く。友紀は真由実を突き飛ばした。それで真由実は元の世界に戻ることができた。彼女の心を歪めたのは自分だった、そのことが一生心に残る棘になるだろう。
「友紀」
康司が叫んで手を振る。プールの階段を白いワンピース姿の友紀が降りてくる。
「私、まだあんたに言いたいことがたくさんあるのよね」
友紀は真由実に挑戦的な笑みを向ける。
「いいわよ、いくらでも聞いてあげる」
真由実も勝気な表情を浮かべる。二人はどちらからとも無く抱き合った。
それから三ヶ月、夕方のファミレスで幼馴染四人は顔を合わせたいた。
「俺、高校に通い直すよ、定時制だけど。ちゃんと勉強して建築系の大学を目指す」
康司はタバコもやめ、貯金を頑張っているという。
「私も諦めていた看護師を目指すわ。もう血は怖くないもの」
真由実は血のプールで溺れたことが荒療治になったようだ。
「私も幸福の船は抜けたわ。まだしつこく勧誘されるけどね。本当の友達ができたから」
友紀はステーキに齧り付く。今まで教義のため菜食主義を通していたらしいが、やめたらしい。血色が良く、頬も艶々だ。
「ぼくはライフワークで七不思議の研究をしているよ。君たちも一緒に」
「行かない!」
陽介の言葉は真顔の三人に遮られた。
了
第七の怪ー学校七不思議の真相ー 神崎あきら @akatuki_kz
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