吉浦の体験

 あの事件から数日が経過したとある昼下がり。重傷により病院に搬送されていた吉浦も退院し、一人暮らしをするアパートの一室にいた。

 事件が起きた直後は本当に大変だった。診察や検査、手術も行われそれだけでも大変なのに、親きょうだいに泣かれ怒られ、話を聞いた同級生や先輩後輩から連絡もくる。更に当然のように見知らぬ記者も病院にきて、非常に慌ただしい数日間だった。

 それも漸く少し落ち着き退院したのが一昨日だった。それでもすぐ日常に元通りという訳にもいかず、大学やバイト先への連絡や事情説明、遅れた授業を取り戻すためにあれこれ奔走している最中ではあるのだが。

 吉浦は、また1つ連絡を終えてふぅ、と溜息をついた。殴られ痛む頭や折れてギプスを巻いた腕を擦りながら床に寝転がり、天井を眺める。そして何となくスマートフォンを手に取り、自分たちが襲われた事件について書かれた記事を開いた。

 A県N市で起きた暴行事件について淡々と記す記事もあれば、自分たち3人を批判する記事もある。自然とグループに混ざっていた山田容疑者のことを誰も疑問に思わなかったのはおかしいだとか、全員誰かの友達だと思っていたなんて馬鹿じゃないのかとか、色々書いている記事もある。

 けれど、あまりにも自然に紛れ込んでいたら、誰かの友達だろうと思って言い出しづらいのもよく分かる、なんてことが書いてある記事もあり、まぁ、批判と擁護の割合は半々といったところか。

 それよりも何よりも、実名が出てなくて良かったと、吉浦はほっと胸を撫で下ろした。殺人事件じゃないからだろうか? これなら知り合い以外は基本知る由もないだろう。特定なんてするやつも今のところいないらしいし、馬鹿な男子大学生3人組で終わっている。それはそれで良かったと、安堵する気持ちだ。

 スマホの画面をニュース記事からゲームアプリに切り替え、適当に遊んでいると、メッセージの通知が来た。高瀬だった。

『退院おめでとう。野田と一緒に、見舞いみたいな感じで、お前ん家行っていい?』

『いいよ』

『じゃあ今から行くわ』

 短いメッセージに了解のスタンプを返して、吉浦はとりあえず冷房の温度を下げた。


 およそ20分程経ってから、部屋にチャイムの音が響く。インターホンで確認すれば予想通り高瀬と野田だったので、いらっしゃいと招き入れた。

 日に焼けておりやや派手な格好をした高瀬と、すらっと背が高く真面目な雰囲気の野田。彼等を部屋に通し、用意しておいた麦茶を出す。茶を出す時に2人に手伝わせてしまったので申し訳なく思ったが、片腕折れてんだから気にするなと言ってくれた。

 ローテーブルにコップを置いて、地べたに座り、高瀬が徐に口を開く。


「とりあえず、吉浦。退院おめでとう。元気そうでよかった」

「ありがとう。まだ頭とか痛いし、腕も痛いけどね。何とかなりそうで良かったよ」

「汗かくと、そのーギブス? ギプス? の中痒そうだな」

「ギプスな。ほんと、めっちゃ痒いよ。……でも、その、高瀬と野田も、殴られてたじゃん。大丈夫?」


 こちらを気遣う2人に礼を述べてからそんなことを聞くと、彼等は大丈夫だ、平気だと安心させるように言った。


「まぁ痛かったけど、お前に比べたら何ともないよ」

「うん。というか、痛さよりも、その……知らない奴が混ざってたことの方が怖かったし」

「あー……」


 野田の言葉に、皆が押し黙る。そう、あの時、あの3人での飲み会にいた山田という男のことを、自分たちは誰も知らなかった。全員が全員、『この2人のどちらかの友達だろう』と思っていたのだ。

 この奇妙な状況に改めて向き合おうと、吉浦は確かめるようにゆっくり声を上げる。


「今更だけど、本当に、誰も、あいつのこと知らなかったんだよな?」

「もちろん。山田……ソラ? なんてやつ、知らなかった。あまりにも自然に紛れ込んでたから、野田か吉浦の知り合いだろうと思ってた」

「俺も同じく。なんか、気づいたら、そこにいた」

「あれか? 久しぶりに飲もうっていって話になって、お前らが各自買い物してから夜7時前くらいに合流して、その後オレのアパートに来ただろ? その時にはもうあいついたじゃん。……だから、多分、合流して喋ってた頃には……その、紛れ込んでたんだろうな」


 高瀬は、顔を顰めながら順に説明するように話す。それに応じて吉浦も当時のことを思い出す。

 大学での用事を終えてから、飲みたい酒や食べたいツマミを買って、待ち合わせ場所に向かった。自分は少し遅れていたから急いでおり、待ち合わせ場所に到着した。その時、野田と高瀬と、もう1人知らない人がいたのだ。この人は誰なのか聞こうとしたが、向こうは確実にこちらのことを知っている様子で、野田と高瀬とも楽しげに話していたものだから、なかなか聞くに聞けなくて、そのまま合流したのだ。

 そうして、そんなことを話すと、高瀬と野田が驚いた顔をみせる。何かおかしいところがあったか? いや、知らんやつがいるのに聞かなかった自分がおかしいのだが……そう思っていると、野田が「そこじゃない」と前置きしてこんなことを言う。


「いやいや、吉浦は遅刻してないだろ?」

「えっ? 遅刻したよ? といっても5分くらいだけど……」

「遅刻したのは俺だろ? 俺が到着した時には、高瀬と吉浦がその山田? とかいうやつと喋ってたんじゃないか」

「…………はぁ?」


 そんな馬鹿な。吉浦は狼狽を隠せぬまま、大仰な声を上げ、自分のスマートフォンのやり取りを確認した。当日のグループチャットのやり取りでは、夜7時前に自分が『ごめん少し遅れる』とメッセージを送り、それに対し2人が『OK』『分かった』などとスタンプを返している。吉浦は、証拠と言わんばかりにその文面を2人に見せた。すると2人とも信じられないとばかりに顔を歪めて、おかしいと零した野田がゆっくりとスマートフォンの画面を差し出した。

 そこには、野田が『ごめん少し遅れる』とメッセージを送り、高瀬と吉浦が了承した旨を伝えるスタンプを返している。

 明らかに、おかしい。


「なんだこれ……」

「……おかしいだろ」


 そう零した2人は、やがて高瀬にも目線を向ける。高瀬のメッセージ画面はどうなっているのか確かめたいという気持ちの現れだった。高瀬もそれを汲んだのだろう。青白い顔をして差し出したその画面は――吉浦とも、野田とも、大きく異なっていた。

 というのも、野田と吉浦が買い物後に合流し『今から高瀬の家に向かうから』ということを伝えるものであった。つまり、野田も吉浦も遅刻していないし、当然高瀬も遅刻していない。高瀬は、家で2人を迎え入れるために準備をして待っていたそうなのだから。

 形容しがたい、恐ろしく冷たい恐怖が3人を襲う。


「聞いてて話が変だなって思ったんだよ。お前ら2人とも遅刻してないだろ? ほら、野田と吉浦がそれぞれバイト後とか用事が終わってからとかに合流して、オレのアパートに向かったじゃねぇか。それ、吉浦と野田の2人だけのやり取りが載ってるやつと間違えてねぇか……?」

「いや、そんなことはない。ほら、1番上に俺ら3人のグループ名が書いてあるだろ」

「本当だ……全員同じチャットルーム開いてる……。じゃあ、なんで、こんな内容が全く違うわけ?」

「知るかよ! お前定期的に変な体験してるし、そのせいだったりしねぇよな!?」

「僕のせいってのかよ! そんな、僕のせいでこんなこと起こるわけないだろ!」

「わかんねぇだろ!? あの謎の飲み会とか海に行ったって話とかみたいに! なんか変なことが起きてるのかもしれないだろ!」

「ま、まぁ、落ち着けよ、吉浦にそんな変なこと出来るわけないだろ、バグだよバグ……もしくは、あの山田とかいうやつのせいだろ、そう思おうぜ……」


 野田の苦し紛れの言葉に、今にも掴みかかりそうになっていた両者の言い争いが静まっていく。悪い、いや、大丈夫なんてそれぞれ言ったが、恐怖感は拭えず、暫くなにも言葉を発せずにいた。嫌な空気感と、冷房の音や窓越しに聞こえる蝉のやかましい音に支配される中、野田が、ぽつりと呟いた。


「……なぁ、もしかして、高瀬があの時怖い話しようって言ったのって、あの山田って奴がいたから?」


 その疑問に、うん、と高瀬は頷き、胡座をかき呆然と俯きながら言葉を続けた。


「といっても、山田ってやつが変だって気づいてたとかじゃないんだけどな。会話してても、なんかずっと違和感があって怖かったから、それを拭えたらなーって思って言い出したんだよ。……まさかあんなことになるとは思わなかったけど」

「そっか……。吉浦があれこれエピソードを話したのは?」

「あ、あれはちょうどいい機会だなって思っただけ」

「あ、そうなんだ……」


 それから、お互い当日どう思っていたのか、どういう認識で高瀬の家に集まったのか、山田とやらをどう思っていたのかを冷静に確認しあい、ひとつの結論に辿り着いた。

 それは、結局3人で話していても話が噛み合わないのだから、これ以上深堀しない方がいいのではないかと言うことだった。

 そもそも、全員山田そらなんて知らなかった。3人とも出身県が異なるのに、高校時代からの友人だと言い張り、最終的には小学校からの友達だと言い始めている。部活だって、念の為確認したところ全員野球部にもサッカー部にも所属していた経験はなかった。

 そう思うと、あの山田と言う男はただの異常者で、何故か自分達の友達だと認識しており、友達のように絡んできたおかしな奴であり……怪奇現象を引き起こす何か……だったのかもしれない。

 いや、怪奇現象まで山田のせいにするのは如何なものかと思うが、そうでもしないと高瀬も吉浦も野田も、気持ちの落とし所がなかったのだ。

 今回は、見知らぬ男に襲われそれぞれ重傷軽傷と怪我を負ったが命に別状はなく、男も逮捕された。事情聴取には時間もかかったし、ある程度主張していることが同じなことや、吉浦がスマートフォンにて録音していたやり取りも証拠となり、面識がないということへの裏付けにもなった。

 しかし、それを思い返すと疑問点もある。途中、3人は警察にスマートフォンでのやり取りを確認された。その時は当然ならがみんな同じやり取りになっていたし、自分たちが説明した経緯も大体同じだった。それなのに、3人で画面を付き合わせると内容が異なってしまうし、記憶もズレが起きている。

 そのような理解し難い奇妙な現象は起こっているが、それ以降山田そらなる者には当然遭遇していない。

 これで、きっと元の日常に戻っていくだろう。不運にも事件に巻き込まれたが、吉浦の怪我も治れば、あの事件のことは完全に過去のことなっていくだろう。

 それからの3人は、友人として変わらぬ付き合いをしている。もちろん、あの時のことは3人の中で話題にすることは避けたし、他者から聞かれても特に答えないようにしていた。警察等から、今必要事項の連絡があるときに思い出す程度で充分である。

 あれは、あの奇妙な出来事は、おかしな奴のせいで発生した説明しづらいひと夏の体験ということでよいのだと、そう思い込むことにしたのである。


 それなのに、また、吉浦の身に奇妙なことが起こった。

 事件からおよそ2ヶ月経ったある秋の日の夕方のこと。通院している病院から慌てて帰宅した吉浦は、震える手でドアの鍵を閉めた。乱れる呼吸を整えて、玄関前に大きな荷物を置きバリケード代わりにした。

 今、吉浦は非常に焦っていた。骨折した腕の処置や経過観察のため通っている病院からの帰り道。吉浦は、ふと、とある人物が道端でこちらを凝視していることに気づいたのである。最初は、中肉中背の20代位の男がただ突っ立っているだけかと思ったのだが、よく見ると、その相手は、2ヶ月前に自分達を襲った山田そらに酷似していた。最初は他人の空似かと思ったが、顔つきや雰囲気が非常に良くにており、かつ、こちらをじっと見つめてくるものだから恐怖を煽られつい走り出してしまった。無関係な人間ならこれで逃げられるはず……そう思った吉浦だったが、なんとその男は物凄い形相で追いかけてきたのである。まさかの行動に驚き転びそうになった吉浦だったが、なんとか調子を取り戻し、慌てて自らが住む1K程のアパートに戻ってきたのだ。

 そうして、先述のように鍵を閉め一時的なバリケードをつくった吉浦は、次に部屋中の窓の鍵が閉まっていることを確認し、カーテンを閉めた。そして、玄関と部屋の間のドアも閉め、薄暗い部屋の中縮こまるように壁際に座り込んでから、己の気持ちを落ち着かせるためという理由も合わせて、高瀬と野田とのグループチャットへメッセージを投げかけた。

『どうしよう』『助けてくれ』『僕、変なやつに追われてる』 ――そうメッセージを送った数分後、驚愕するようなメッセージや、心配するようなメッセージがテンポよく返ってきた。


『変なやつって何?』

『大丈夫? ストーカー? 男か女かどっちよ』

『俺らじゃなくてとりあえず警察に連絡しな。連絡したならいいけど』

『まぁ今暇してるからやり取りできるよ。なんだったらそっち行ける。高瀬は?』

『オレも行ける。準備するわ』

『おけーじゃあ俺もそっち行くわ』


 2人からの頼もしい文章に妙な安心感を覚え、やや気持ちが落ち着いていくのを感じる。連絡してみてよかったと安堵しながら、吉浦は震えた手でゆっくりと文章を返す。


『ありがとう。鍵閉めてるから、来たらちゃんとチャイム鳴らして名前言って』

『変なやつは男。なんか見た目が山田そらみたいだった。もし本人だったら怖いどうしよう』

『とりあえず警察連絡してみる』


 そうメッセージを送って、チャットアプリを閉じ、警察に電話をしようとした直前だった。高瀬からの通知がスマートフォンの上部に映し出される。それを目にした吉浦は動揺し手を止めた。その文章が、にわかに信じられないものだったからである。


『は?』

『山田そらって誰?』

「――えっ」


 連続して届いた文章に、吉浦の頭は瞬時に真っ白になった。理解が及ばず、反射的にチャット欄に戻って続けざまに文章を送った。嘘だろ、流石に山田そらは分かるだろう。2ヶ月前の事件の加害者だぞ、と。しかし、返ってくるのはなんだそれは、そんな事件知らないけど、という、まるでこちらがおかしなことを言っているかのような文章だった。

 やがて野田からもメッセージがくる。それは、『混乱しているのかもしれないが落ち着け。とりあえず警察に電話しろ』というもので、山田の件には全く触れない。それはそれで別にいいのだが、どうしても不安になった吉浦は、バクバクと早鐘のように打つ心臓を押さえつけるように自分の胸元をギュッと掴んでから、複数種類の恐怖に震えながら文を打ち込んだ。


『けいさつにはでんわする』

『のだ、これだけ、おしえて』

『やまだそらのじけんって、のだは、おぼえてるよな』

『ぼくがうでおられたやつだよ』


 頼む、知ってると覚えていると返してくれ――そう祈るような気持ちで文を送った吉浦に返ってきた言葉は、その祈りを粉々に打ち壊すものだった。


『ごめん、わからん』

『お前が腕折ったのって、階段から落ちたからじゃなかった?』

「うそだろ……」

――意味がわからない、なんで、この2人は、覚えてないんだ?

 理解できない現実に、呻き声を上げながら頭を抱えて床にうずくまった。床に落ちたスマートフォンの画面が通知音と共に点灯し、高瀬や野田からの文章が送られているが、それを確認する勇気がなかった。


「うそだろ、うそだろ……なんだよ、またぼくがおかしいのかよ……! 夢だろ、なぁ、またあの謎の旅行みたいな夢だろ、なんなら覚めろよ……! さめろよ、さめろよ、勘弁してくれよ……!」


 部屋の中で恐怖を押し返すように力の限り叫んだ吉浦の声は、虚しく部屋に響くだけであった――筈だった。

 ふと、遠くから声がすることに気づいて吉浦は体を起こす。高瀬か野田か? それとも、声がうるさいと文句を言う近隣住民か? そう考えて、恐らく、なんとなくではあるが、どちらでもないのだろうと直感的に判断した。

 何故なら、玄関の方からしている声が、やたらくぐもっているような掠れた声のような、奇妙な声だったからだ。

 高瀬や野田の声ではないし、近隣住民だとしてもチャイムを押すなりドアを叩くなりするだろうに、どちらもすることなく、玄関扉越しに『何か』がこちらに話しかけてくる。

 最初は悲鳴のようで何を言っているのか分からなかったが、やがて、吉浦の名前を呼んでいることを理解していく。


「よぉーーーーしうらーーーーーーーよぉーーーしぃーーーうらぁーーーー……」


 吉浦は、直感的にそれに返事をしてはいけないと判断し声を出さないよう必死に耐えた。部屋のドアがきちんと閉まっているか再度確認し、額に汗を浮かべ喉の乾きを感じ体を震わせながら、帰れ、帰れよと胸の内で叫びながら、ただ縮こまっていた。手に握っているスマートフォンに多く来ている通知を見る余裕はなかった。

 扉の外から聞こえる『何か』が吉浦を『蓮』と呼ぶようになるが、もちろん反応はしない。


「れんーーーれぇーーーんーーーーーー……」


 高瀬と野田が早く来るよう願いながら、ここで漸くスマートフォンの画面を見る。2人からの通知がいくつも来ており、急いで向かってるから頑張れというメッセージや、声を出せなくてもとにかく警察に電話しろというメッセージがあり、吉浦は漸く改めて警察に電話をしようと電話のアプリを立ち上げた。その時だった。

 謎の声が話している内容が、大きく変わったのである。


「れーーんーーーどーーーしてーどぉーーーしてぇーーーおーーーれーーーをーーーしらーーーないってぇーーーーいーーーったーーーーのーーーー?」

――『どうして俺を知らないって言ったの?』……か……そんなこと言われても……。というか、これで、ドアの外にいるのが『山田そら』だって確定した……?

 動揺しながらも吉浦は警察に電話をかける。数度コール音が微かに聞こえた後、オペレーターの男性の声が聞こえた。スピーカーには出来ないし、まともに返事をすることもできないが、とにかく緊急事態だと伝えたくてスマートフォンを叩く。これで伝わってくれと願ったが、途中で切れてしまった。再度かけてみるかと考えたが、玄関の方から聞こえた歪な破壊音に、ついスマートフォンを取りこぼす。

 慌てて拾い上げた吉浦は、玄関の方をじっと見つめる。『何か』が玄関扉をこじ開けようとしているのかガタガタと揺れており、もうなりふり構っていられないと再度警察に通報した。

 耳に押し当てたスマートフォンからコール音が鳴り響く数秒の間にも玄関扉は今にも破られそうに震え、妙な声が警報のように聞こえてくる。


「なぁーーーーーんでぇーーーおれぇをーーーーしらーーーなーーーいってぇーーーーーーいったぁああーーーーーのぉーーーーーー」

「しっ、知らないやつに知らないって言って何が悪いんだよ! 僕は山田そらなんて知らねぇんだよぉ!」


 恐怖に駆られそう叫んだその時、スマートフォンの向こうからオペレーターの声が聞こえてきた。その声が一気に吉浦を現実に引き戻す。


『はい、A県N警察署です。事件ですか? 事故ですか?』

「っ、あ、じ、事件、です、今玄関先に変な人がいて、ドアを、あけ、開けようと、してて」

『落ち着いてください。事件ですね。それはいつですか』

「今です! 5分か、10分か、それくらい前から、ずっと、おかしくて」

『場所はどちらですか?』

「場所、は、えっとN市――」


 なんとかやり取りをし、自分のアパートの住所を言いかけた頃だった。ドォンと一際大きな音がした。部屋のドアがあるためハッキリとは確認できないが、なにか良くないものが部屋に侵入してきたのだろうと瞬時に理解してしまった。吉浦は体を縮みあがらせ短い悲鳴を上げたあと、半狂乱になって叫んだ。


「なっ、なにしてんだてめぇこっち来んじゃねぇよ! ぼくは、ぼくは山田宙なんか知らねぇって言ってんだろ、お前のことなんか僕も高瀬も野田も知らねぇんだよォ入ってくんな! 入ってくんじゃねぇ! 来んな! 来んなぁ!」

『落ち着いてください! 大丈夫ですか、落ち着いてください!』

「うるせぇはやくこいよなんで来ねぇんだよぉ! GPSとかで分かるんじゃねぇのかよ!」

『では、こちらで確認致します。今向かっておりますので、もう少し――』


 オペレーターが言ったその言葉の続き……恐らく励ましの言葉か状況を問いかける言葉を、吉浦は聞き取ることが出来なかった。何故なら、遂に玄関扉はこじ開けられバリケードも破壊され、かつ、部屋のドアも勢いよく吹き飛ばされてしまい、化け物のようなどす黒い『何か』が、吉浦の目の前にいたからである。

 己の身の丈など優に超える、人型のようで人型ではない何かは、本来は天井に収まりきらない大きさなのだろう。体と首を折り曲げねじ曲げ、顔の部分には複数分の福笑いの目や口、鼻のパーツを適当に並べたのかと思えるような顔をしており、手指も腕も足もその指も何本も生えていた。そんな、奇妙な化け物が、じっと吉浦を見つめて、こう問いかけてくる。


「なぁーーーーんでえぇえええーーーしーーーーらないってぇーーーーいったのぉーーーーー?」


 くぐもったような低い声は部屋中に響き、頭が割れそうな吐きそうな気分になっていた。もう目の前の化け物以外の声や音は聞こえなくなっており、近づいてくる『何か』に、ただ掠れた声で『ごめんなさい』ということしか出来なかった。逃げるなんて出来なかった。

 しかし、その返答を相手は気に入らなかったのだろう。大きく口らしき箇所を開けた『何か』は、呆然と座り込む吉浦にがぶりとかじりついた。



 それから、吉浦の部屋に辿り着いた警察官や高瀬、野田が目にしたのは、荒れに荒れた部屋と、白目を剥き、全身の複数箇所を何かに齧り取られたように損傷し血溜まりの中で絶命している吉浦蓮の姿だった。

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「俺」の奇妙な体験談 不知火白夜 @bykyks25

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