第10話A・G・Aの死

A・G・Aの死                     エミリー・ブロンテ作

                                額田河合訳


あれは羊飼いなのか? 朝から晩まで

褐色の斜面に座り込んでいたあの二人は?

だが、杖もなければ、犬もいない

引き連れる羊の群れも見あたらなかった


租末な服を身にまとい

髪は暗くそして長かった

それぞれの腰には山賊のナイブのような

恐ろしい武器が下がっていた


一人は女、背が高く美しかった

あるいは王女とも思えるほど

堂々たる姿、たぐいまれなる顔だちは

威厳をあたりにただよわせていた


だが、おお、女は険しく眉をしかめていた

唇に浮かべる冷酷なあざけり

甘い涙が彼女の両頬をとかすことは絶対に

なかったろう 生まれてからただの一度たりとも!


幸いだった 彼女が王位になく

権力をふるう国を持たなかったことは

恐怖は人々をひれ伏させたとしても

ひとかけらの愛もありはしなかったろう


しかし、「愛」は、今、彼女の足もとに

まさに炎のように燃えあがっていた

邪な者たちにも、良き者たちへと同様

親しげにあいさつをする「愛」が


男も高貴な生まれであった

女のかたわらにつつましく身をかがめ

目には涙さえたたえて、男は

女の氷のような自尊心に訴えていた


「アンジュリカ、この世に生を受けてから

私は戦いの中に育てられ

この荒れはてた大地の上に

さすらいながら生きてきた、生涯のすべてを


獲物を目の前にした虎でさえ

私ほどに血に飢えてはいなかったはず

人間たちと法の裁きが私を拷問したのだ

もはやとても耐えられぬほどにまで


私の手にしみついた罪なきものの血は

私を天国から閉め出すことだろう

この国にも、遠い見知らめ土地にも

私が安らかに眠れる場所はどこにもない


ありとある場所、ありとある時間

どんなに果てしなく探そうとも

罪の中にさまよう私の魂を救える希望は

あなたのほかにはありえないのです


信じてください、天にいるという聖人たちも

私ほどに真実な忠誠を誓うことなどない

聖らな空から天使たちが舞い降りたとしても

私ほどに純粋な愛を捧げることはできないはず


あなたのために長く果てしない年月

私は尽きない苦しみを味わってきた

ひとつだけ――せめて私の涙を私に返してくれ

私の捧げた愛を私に返してくれはしまいか」


何度も何度も振り向かれることさえなくこうして

この向こう見ずな男は懇願してきた

だが、今日は、言葉に答えるかのように

彼の愛する女のひたいに赤みがさした

目は炎のように燃え ふり向いて話し出すと

その炎が照りはえたかのように頬が紅く染まった


「私は百通りもの愛を見てきた

どれもみな最後は愛されたものを嘆かせただけだった

だとしたら、ほかの愛より真実だというあなたの愛が

どれほど本物なのか証拠を見せてもらえるわね?


いい? 私はかつてひとつの燃える心を知っていた

私の心はその心のものだった

いいえ、恋じゃないの、驚かないで―

 私たちの愛は天上の愛だった

少なくとも、天上の愛なるものが生まれるものなら

こどもだったころの夜明けのすきとおった光の中

毒素を含んだ空気が、この世の不幸の泥沼から

たちのぼり出すよりずっと以前に


あの心はあたかも熱帯の大陽

光のふれるすべてを燃えあがらせた

マギ教の信者でさえ

私の半分も心からの崇拝を捧げはしなかったろう

嵐の空にかかるまばゆい虹でさえ

あれほどの歓喜を持って迎えられはしなかったろう

私の魂は昼も夜もかの心とともにあった

それは私のすべてにふりそそぐ光

幼い日の友であり、少女の日の道しるべであり

ただひとつの祈り、そしてただひとつの誇りだった


だが、呪われるがいい。この大地

あの悪魔をもこの世に生み出したこの大地よ!

あの女は自らの手で弓をひいて

私の最上の愛を大地に葬った

そうして私の悲しみを笑い私の祈りをあざけり

私の青春の花を涙に沈めたのだ

おどそうとなじろうと、何の役にも立たなかった――

あの女が他人の痛みのことなど気にもとめようか?

あの女は私以上に大切なもう一人の私をも

その毒牙にかけずにはおかなかった

栄誉の声から彼の目を背けさせ

まず自分の愛を彼の生きるすべてにさせておきながら

裏切りの果実をかすめとったのよ

ダグラス、彼ははげしく懇願したわ

ちょうどあなたが私にしたようにね

一生の鎖でも、水達の墓でも

追放の運命以外なら何でもいいと

私たちはともにあざけられ、ともに厳しく追い立てられ

異国の空の下に隠れ家を見いだすしかなかった

そのわびしい日々をいっそう暗くしたのは

現れては消える凶暴な罪の夢だった

今はもうあの日々を思い出すまい

あの洞穴のような広間での誓いと

その成就、それはあなたも知っているはず――

私たちは一緒に刀をふりおろした

でも――あなたには決してわかるはずがない

闇をさまよう私の心がどれほどの痛みに耐えてきたのか

あの時、罪なき血に大きく引き裂かれたなら

人はもう二度と愛することなどできないのだと感じた時から

もう消えて 気を狂わせる思い出よ!――墓は深い

そこに私のアメデウスは眠っている

泣くことなど、もうとうに忘れたわ


さあ聞いて―この荒れ果てた場所に

私は今日、私の敵を見つけたの

武器もなく、子どものように無防備に

陽ざしをあびて草の上にまどろんでいた

連れが二人――護衛はそれきりだった

しかもその二人ときたら斜面をうろつきながら

あぶない道を逃げ回る野生のやぎを

追いかけては無邪気にはしゃぎ回っていた

私は手を振りあげた――手の中でナイフが光った

忍び足で私はそっと近づいた

でも野の鳥が隠れた巣からばっと飛び立って

ふいに歌い出してあの女の目を覚まさせた

だが、あの女は身動きひとつせず、ただまぶたを上げて

まばゆい太陽を見つめただけだった

そしてため息をもらした、そのあまりの悲痛さに

私は一瞬考えたほどだった 生きることがこれほどつらく

みじめなものなら、いっそこの女を死なせぬ方がましかと

さあ、ダグラス、私たちの獲物のため――

未来の歓びと 過去の嘆きにかけて

あなたの心と手を貸しておくれ

私の一生の敵を地獄に送るのよ

連れの方を先に片付けましょう その方があの女に

いっそうはげしい痛みのより深い盃を飲ませられる

向こうであいつらは、こだまする洞窟の中で

くだけちる波を立って見つめている

その眺めがあいつらの海と大地の見おさめよ

おいで、ググラス、立って私と来るのよ!


・・・・・・・・・・・・・・


ひばりは高らかに天に舞い

みつばちは甘い羽音を立てていた

そしてやわらかく、二人の死のしとねに

風は海からふいた


美しいサリーがそのまぶたをあげれば

あの水の輝くさまが見えたろう

山の上の空に傾いていく

あの夏の太陽をもう一度見ただろう


だがしかし、色褪せていく頬のうえに

生気を失ったまぶたは開こうとしなかった

ようやく手に入れた安らぎをあたりの輝きが

こわしてしまうのに疲れ果てたかのように


彼女は足早に地上を去ろうとしていた――

記憶の声でさえおぼろになった

かつての人生の波乱に満ちた日々は

もう夢のなかへと消え去った


喜びの思いも悲しみの思いも

ほとんど何一つ戻ってこなかった

霧がすべてを覆い隠した

二度とはれることのない霧が


むなしい、むなしい、見つめて何になる

そんな姿を、今となっては!

沈みゆく頭を抱きかかえたとて何になろう

脈のない額に口づけたとて


悲しみに息をつまらせるな

レズリー卿、悲しみを解き放て

いかに厳格な眼も、こうした死を前にすれば

同情に満ちあふれることだろう


女の胸に広がる豊かな髪が

かすかな風に揺れた

「この子の心臓は動いている」レズリーは言った

「まだ本当に行ってしまったわけじゃない」


そうしてその体をやさしく抱きしめたまま

なおも男の眼は夢を追うのだった

自らの若々しい胸から真っ赤な生命の流れが

あふれ出ているさまには気づきもせず


ついに陽の光は地上をはなれた

蜜をかかえたみつばちは巣へと飛び去った

深く低い海はいっそう悲しげな声で

波を泡立たせた


死体は男の胸にいっそう重くなり

星をちりばめた空も遠くかすんでいった

こんなにもあたたかくおだやかな夏の夜が

男には冬のように寒く感じられた


とまどいの影が男の眼にあらわれ

そしてそのまま消えなかった

荒野と空とが泳ぐように目の前を過ぎた

何もかもが混濁し、奇妙で、荒涼としていた


男はかすかに祈った「おお、死よ、待ってくれ

その冷酷なとどめの矢をいま少し待ってくれ

わが女王が告げる声を聞ける時まで

「裏切りものたちの首は落ちた」と


神よ、あの方の生命をお守りください、私などより

あの方の生命こそこの世にかけがえのないものなのです

神よ、あの方の腕に勝利の祝福をお与えください

それができぬのなら、私に天国の祝福などいりはしません」


つづいて苦悶の叫びが聞こえた

それが遠のいていく痛みの最後の発作だった

そうして男は海を渡っていった

誰一人もどることの許されぬ海を


・・・・・・・・・・・・・・


ダグラスは泉の上に身を乗り出した

ヘザの土手が彼の回りをつつんでいた

明るく、暖かく、陽の光は降り注いだ

甘いやすらぎのその場所に


そこには青い空が弧をえがき

やわらかな風が歌い過ぎ

すきとおった流れは絶えず

美しく歌いかわしていた


泉の影になった側によりかかると

彼は水のたわむれるのを見つめた

あたりの音と光は美しくとけあって

この世に憂鬱などありはしないかのようだった


耳もとで声がした「あの女が来るわ

ね、ダグラス、私が愛するのは

あなたよ、たとえとうに死んだあのひとが

私を奪おうとして生き返ったとしてもね


さあ、あなたの腕の神経を

殺すことだけに集中させるのよ、私と同じようにね

そうすればゴンダルの王家の血をひくものたちに

エルモアの丘の今日は忘られぬ屈辱の日となるはず」


二人は長くは待たない、さわさわというヒースの音が

王家の血を引く彼らの敵を裏切る

急ぎ足で、息をきらせながら

ほとんど死のように白い頬をして

オーガスタがその谷間に飛び出してきた――


ダグラスのひそむ場所にも気づかず

女はただ泉だけを見た―

苔むした岩のなかの

小さな泉、舞い踊る水しぶきを


「ああ、いまいましい、このままでおくものか」と女は叫んだ

「生命をくれ 今生きる力が欲しい!」

水のそばにひざまずくと

女は水晶のような流れを飲んだ


水を飲みほすと、女のたぐいまれな眼の中に

ぎらぎらという輝きが戻った

そして、荒野の道を見わたすと

女はいらだたしげに首をふった


ひとの形も影もなく――ただ山羊の群れが

草の谷間に静かに草を食んでいる

音もなく ただ遠くの岩々に

山羊たちの鈴がこだまするばかり


女はふりむく――自分を見つめる殺人者の眼に出会い

女の眼には突然の炎が燃え上がる

血が女の額を流れ落ちる

漆黒の髪の中を血は流れていく

女はたいして気にもせずそれを振り払う

血の流れるのをほとんど感じてさえいない

なぜなら、女は男を見つめ、知ってしまったから

男の胸に赤くひろがる血のしみは

女の復警を間違いなく今なしとげてくれるはず!


いつわりの友よ! おまえの舌だけが語りうる

そのときそこにくりひろげられた死の争いを

だが、夜がいっそう暗く降りたつころには

小さな流れは静寂に包まれて再び歌っていた

そして、草深き土手には、血にまみれて

オーガスタが一人きり横たわっているのだった!


いつわりの恋人よ! 人間の眼は確かに誰も見なかった

だが天の澄み切った眼がおまえを見つめていた

おまえのダグラスが血を流している場所で――

おまえがあざけりを唇にうかべて

男の最後の絶望のもがきに冷たく背を向けるさまを

そうしてただひとり飢えた鷹だけに

死者を見守らせて去っていく姿を!


・・・・・・・・・・・・・・・


それは死のような眠りにすぎないのか?

それとも彼女の魂はほんとうに行ってしまったのか?

そうしてただの冷たいむくろが、月の下に

真新しい石塵のように横たわるだけなのか?


その夜、月は満ちていた

空はまるで真昼のようだった

見のがすはずはなかった もし

女の白い胸に脈打つものがあったなら


見えたはずだった、女の見開かれた瞳のなかに

あのいとしい、いとしい生命のきらめきがあったなら

あるいはまた、女の頬が生きる痛みと死の苦しみとの

決死の争いのなかに変わりいくものなら


だが、そこでは何一つ 微動だにしなかった

その顔は、まったき死のように美しく

過ぎ去った激しい苦悩の表情が凍りついたまま

見聞かれたまぶたの下には

かすかな光の気配さえなく

あるのはただむき出しの苦悩、

ついにみずからに滅ぼされることになった苦悩ばかりだった


血まみれのヒースにひざまずいて

長い間、男は見つめたまま息もつかなかった

長い間、男は両のまぷたをじっと見おろしていた

「死」をのぞきこみながら!


従う者たちは一言も口をきかなかった

押し黙り青ざめて傍らに立ちつくしていた

その暗い惨劇が語りつくしていた

自らの心痛ましい物語を


だが大地はまた別の血にもまみれていた

真っ赤なしずくが荒野を横切っていた

エルドレッド卿はあたりを一瞥すると

地面に残されたそのてがかりに気づいた


「やつを連れ戻せ」卿はかすれた声でいった

「手傷を負っているぞ、逃げた敵は

復警はわずか数分ですむかもしれん。さすれば

残る生涯のすべてを悲しみにささげられよう」


要はひとり取り残される――目に星々が

定められた道を静かに進みゆく星々が映る

そして、遠くエルモアの断崖の下からは

流れが滝となって落ちる音が聞こえる


その子守歌のように単調なしらべは

こわれた岩を、草深い谷を

アカライチョウの飛来への歓迎を歌った

だが人間のための嘆きを歌うことはなかった


天にも地にも何一つ

同情し嘆くものはかけらさえもなかった

今はなにも見ていない女の目の中にも

何一つなかった。ただ、あの苦悩だけが

懊悩する胸にのしかかり

彼女は休息についたのではないと告げていた

だが男は見つめたまま思いは遠くにはせた

飛び去った彼女の人生をもう一度思い起こす

不意の亡蓋のように、男の脳裏に

あふれんばかりの顔とたくさんの名があらわれた

「あのあまたの心臓 あれらも、墓の中で」

と男はほとんど信じた「もう一度激しく拍たずにはいられまい

もしこの方のかくもわびしい宿命を知ったなら

被らの偶像がこんなところで

見捨てられた絶望の残骸のように

空を飛ぶ野の鳥たちと

山を吹く風と、雨にさらされて横たわる姿を見たなら」

男自身は――その厳しい目は一滴の涙もこぽさなかった

ただ死せるものの上に視線を注いでいた


「嵐の夜明け」と男は考えた「そしてあやふやな真昼、

だがそれでもなおあの方はなおまぶしい太陽だった。

その軌道は彗星のように終わってしまった

あの太陽が天で燃え、まばゆく輝く宿命に

生まれてさえこなければよかったのだ

さすれば夜がこれほど素早くその光を闇に葬ることもなかったはず!


そう、貴女は行ってしまわれた――貴女のすべての誇りとともに

貴女、あれほど愛され神のように崇拝された貴女が

今は大地のように捨たく、何一つ知ることもない

愛も、喜びも、そして死ぬほどの嘆きも

かってあった貴女のために私は嘆くのではない

これからありえたであろう貴女のために嘆くのだ

あまりに波乱に満ち、あまりに短かった生涯

その死は貴女より私たちにとっての不幸だ

貴女の情熱に満ちた若い日々はすぎようとしていた

ひらけつつある海はようやく穏やかに見えた

だがどんな静かな波が寄せてもいまは空しい

はじめから運命は救うつもりはなかったのだ

そしてまたその悲しみも空しいものに違いない、

生ある限り貴女のために嘆きつづけたとて

だがゴンダルの敵どもにはきっと思い知らせてくれよう

貴女の血がけっしてむなしく流されたのではないことを!」



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