第22話 感情開放

「――以上から、ノックアウトマウスにおいて腫瘍の発症率が有意に上昇したことが示され、結果としてこの遺伝子が受容体の発現に関与することで、腫瘍細胞の抑制を担っていると言えます」



 医学部には「基礎配属きそはいぞく」という課程が存在する。大学の研究室に配属され、医学に関する基礎研究について学び、実際に実験を行う。もともと基礎研究の道に進む学生を増やす目的で始められたもので、研究室により内容は千差万別である。


 時期は大学によりまちまちで、加賀大学では3年生の2~3月に行われている。おかげでこの学年の春休みは非常に短い。

 

 積極的な学生と教育熱心な研究室が噛み合えば、課程が終わっても研究室に出入りし、中には学生のうちに論文の発表にまで至る例もあったが、私はそこまでではない。実験の基礎的な指導してくださった大学院の先生の研究をなぞって、その実験成果の一部を内々に発表させてもらっているに過ぎない。

 

 免疫学めんえきがく教室の会議室で、私は締めくくりとして中原なかはら教授の前でプレゼンを行った。穏やかな老教授はゆったりした動作で拍手を送ってくれた。


「1カ月間お疲れさまでした。芦原君、君、プレゼン上手いね。卒業したら教室に来ない?」

「いえ、もり先生のデータを発表してるだけですから」

「それでも、話し方で内容を呑み込めているかはわかるよ。森君もそう思うだろう」


 話を振られた私の指導役である森先生はやや戸惑った顔だ。


「まあそうですが……、芦原君。喋るのはすごくうまいんだけど、動画編集ソフトを使うのはちょっと……。普通にパワポで作ってくれないかな?」


 やってしまった。打ち合わせの時はパワポだったが、画像の表示などを凝らしているうちに、配信画面の編集で使い慣れているソフトで作ってしまったのだ。



「美菜、昨日の声劇すごかったね!最初見たとき泣いちゃったよ。台詞だけの世界なのに、すごい演技って光景が鮮明に浮かんでくるんだね」

「そっち?研究のプレゼンじゃなくて?」

「そりゃそうでしょ。画像の表示とか動かし方を見て寒気がしたよ。配信のサムネとか待機画面作りのノリで作ったんでしょ、あれ」


 免疫学教室の片隅、学生用の机に向かい合って私と紗良は片づけながら話していた。一カ月も居ると意外に散らかってしまっている。実験の待ち時間に非常に居心地が良いところだった。指導してくださる大学院生以外はあまり来ない場所で、配信の話も遠慮なくできた。


「そうそう、チャンネル登録者数20万人もおめでとうだね」

「えっ?20万人はまだのはずだけど……」


 その証拠に、私は今日の夜に20万人突破まで続ける耐久配信をしようとしているのである。配信前に超えるような推移ではなかったはずだが……私はあわててスマホで自分のチャンネルを確認する。


「やっぱりまだじゃないか」

「ごめんね。今日の夜は塾のバイトがあって配信は見られないから、先にこうしてお祝いしようと思って。メンシ第一号の特権ってことでね」

 

 そう言うと彼女は得意げに笑ってみせた。「メンシ」とはメンバーシップの略称で、動画サイトのチャンネル登録者が定額を払ってさらに特典を受けられる、いわば有料会員サービスである。


 実を言えば私はまだメンシを開設してはいないのだが、彼女は私と自由に話し、配信の裏話も聞ける自分の立ち位置を例えてメンシと呼んでいるらしい。確かにリスナーが知ればうらやましくなること請け合いの立ち位置なのかもしれないが。


「メンシ第一号さん、声劇についてもっと具体的な意見を下さいよ。誰より私の演技と配信に詳しいはずでしょ?」


 この1年近く、紗良はバイトの合間を縫って私を裏方のような形でサボートしてくれた。ゲームの練習に付き合ってくれたり、時には部屋の掃除のような甲斐甲斐しいものまで。


 私の配信の批評を遠慮なく言ってくれるのも参考になるので、私はよく彼女に感想を聞いていた。代わりに私は許されている範囲で配信の裏話をするという関係だ。


「なら、聞いていい?どうして美菜が撃たれて倒れるほうの役回りだったの? 普段の言葉づかいとかを考えるとローリエとは逆でも良かった気がするけど……」

「それね、ちょっと撃たれたあとの演技を試したかったんだ」


 紗良は納得がいったような顔で頷いた。


「なるほどね。確かに美菜の喘ぎの演技はすごい臨場感だった。本当に動脈を撃たれて出血性ショックで意識が無くなる寸前のような、そんな切迫感だった」

「いいところに気づいたね。出血性ショックに陥ると血圧、ひいては循環血液量を維持するために交感神経がより優位になり、その結果として脈は速く、冷や汗が出て呼吸は速くなる。私は意図的に交感神経を優位に持って行ってこの状態を再現したんだ」


 私の熱弁に、紗良は驚いた顔をした。


「えっ?でも、もちろん大量出血したわけじゃないでしょ?どうやったら出来るの?」

「交感神経は緊張や興奮、不安、痛みに応じて高まるわけだから、私の人生でもっともそれらを感じた瞬間、10年前の事故を強く思い起こすことで身体にその状況を錯覚させるんだ。それでスイッチが入って――」


 私は声劇参加が決まってから本番までの期間について紗良に話し始めた。



 コーテックスの田中咲さんと話したときに、彼女が15年にわたり自然な形で役に入り込んでいることを知った。それをヒントに、自分の過去を利用できないか考えたのがきっかけだった。


 理屈はこうだ。強い負の感情が必要になる場面を演技する時に、かつて私が事故に遭い両親を失った時のことを浮かべることでその感情を引き出し、続いて役にその感情を乗せる。原理は単純だが、かなりの練習が必要だった。


 役作りの段階で十数回にわたり当時の光景を脳裏に浮かべながらイメージトレーニングを重ねていた。当時の痛み、不安、恐怖、悲しみの感情を再現して初めて、今の自分の身体にもその影響を広げられるのだ。それは自らの胸に針を刺すようなものだった。



 私は自分で稼いだお金で両親と旅行に行きたかった。ただそれだけだった。

 

 車で行く家族旅行。運転席の父の突然の叫び声。甲高い急ブレーキの音。突然回転する視界。宙に浮き、前に浮かぶ体。ひしゃげた車体。全身の激痛。暗くなる視界。病院。顔の傷。動かない両親。涙。葬式――


 もちろん当時の記憶は鮮明に残っていた。しかし記憶はあれどその時の体の芯から湧き上がる後悔と悲しみの感情を再現することはなかなか出来なかった。10年という月日はこれほどまでに残酷に感情を風化させるのかと、私は愕然とした。


 もっとも、私はこの10年間事故から目を背けるようにしていたため、感情を表出することはほとんどなかった。そんな中でいきなり奥底にしまい込んだ感情を解放することなど一朝一夕に上手く出来るはずがないのだ。



 役作りがうまくいかないまま本番が近づいたある日、私は自分の浅はかさを思い知り唇をかみしめていた。


 (ダメだ、どうしてもうまくいかない。あの時はどうしようもなく泣いてたはずなのに、今は無理やり泣こうと思って涙を流してしまっている)


 しかしそれを繰り返しているうちに、皮肉にもその悔しさが、あの日自分が旅行に行こうなどと言い出さなければ、という悔恨とシンクロし、ある程度当時の感情を呼び起こすことが出来た気がした。


 ただしこのままではあくまで自分の経験の中の話に過ぎないので、あとは台本を読み込みながらその時の感情と演じる役の感情とすり合わせる必要があった。


 台本から役の過去、現在の状況、その時の心情を想像し、それに自分の感情を当てはめていく。今回の場合は親友と対決することになってしまった後悔、撃たれた時の痛みや悲しみを自分の感情として表出する。


 そこまでできれば身体は自ずとついてくる。本番前日に入り、私は対決のシーンをローリエと予行練習した。撃たれた後の場面では自然に無念や未練、後悔などの感情がまるで取り囲むように襲ってきた。


 私は意識することなく涙を流し、嗚咽し、終了直後にはそのまま床に吐いてしまった。ローリエは通話越しにその音を聞き、心配そうに話しかけてきた。


「げっ!?もしかして吐いたん?大丈夫?」

「オエッ……はあ……やった、……だいぶいい感じだ」

「うわっ……ゲロしながら喜んでる人初めて見た」

 

 ローリエはひどく困惑しているようだった。



「—―ローリエが昼の雑談配信で私がゲロして喜ぶ変態って言ってたでしょ?あれはそういうことだから、紗良は誤解しないでほしいんだけど」


 私は熱中して話し続けていた。あれほど充実していた時間は子役時代にもほとんどなかった。その高揚感に任せて最後にオチをつけるまで、話し相手のはずの紗良を目もくれず夢中に話してしまった。


 15分後、ようやく話し終えた私は、彼女の顔を見て我に返った。


 ――紗良の顔から笑みが消えていた。


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