相対的禁忌~医者の卵、Vtuberになる~

橋本由志郎

序章 解剖慰霊祭

 人体解剖実習――それは医師になろうとする全ての人間が受ける洗礼だった。

 

 私たち2年生は実習棟の更衣室で実習着に着替えて解剖実習室に向かう。実習着は手術衣によく似た薄青色で、下は人によってランニングやジャージなどバラバラだった。実習が終わるころにはが染みついてしまうので捨てなければならない。


 実習室にはホルマリンが立ち込め、鼻を酸っぱく刺激する。体育館のように広いが、天井は低く窓はない。そのせいか妙に狭苦しい。数十のステンレス製の実習台が点々と置かれ、それぞれにファスナーで綴じられた灰色の袋が安置されていた。私はその中を想像し、思わず唾を飲み込んだ。

 

 同じ実習班の4人でで1つの実習台を囲み、袋を開いた。70代くらいの男性だろうか。私は2年前に亡くなった祖父を頭に浮かべた。祖父は何もなかった私に医師の道を勧めてくれた。今の私を見て、どう思うだろうか。


「黙祷」

 

 解剖学教授の指示に従って、全ての学生が目を閉じ、ご遺体に黙祷を捧げる――

 

 


「――本日は、多くのご遺族ならびに故人とゆかりある方々のご臨席をいただけましたことを感謝いたします。まず何よりも医学教育に多大な貢献をされた篤志の方々に哀悼の意を……」


 私は学長のあいさつで我に返った。解剖慰霊祭の黙祷で、そのまま実習の初日を思い出していたのだ。あのまま回想が続いていたら、冷や汗をかいたまま壇上に上がる羽目になったかもしれない。危なかった。


 半年にわたった解剖実習は、今日の慰霊祭で幕を閉じる。体育館の壇上に設置された献花台には、既に私たちやご遺族の方々が捧げた菊が並んでいる。普段は髪を染めている同級生も、今日は黒髪に戻すよう指示されていた。


「――最後に、あらためてご献体頂いた故人の方々に哀悼の意を表し、追悼の言葉とさせていただきます」


 学長の挨拶が終わり、学生代表として「感謝のことば」を述べる時が近づいていた。私はパイプ椅子から立ち上がり、ご遺族が座るテーブル席を横に通り過ぎて壇上に立った。多くの聴衆の前で話すことそのものが久しぶりであった。最初に学長と同じく決まった挨拶をした後、私はこのように続けた。


「私たちは半年間の実習を通じて、座学で得た知識をより鮮明にするとともに、人体というものが一人一人異なる、人生の結実であることを知ることが出来ました。例えば、私が解剖したご遺体には、心臓の血管を他の部位の血管で代替するためのバイパス術が施行されていました。声帯にはポリープがあり、よく声を使う仕事をなさっていたのかもしれません。ヒトに共通する構造と機能を知ること、個人によって異なる特徴があることを知り、それを重んじること。その両方を備えて初めて医療者としての責務を全う出来るのだと思い知りました。最後にあらためてご献体頂いた故人の方々に感謝いたしますとともに……」


 私はほんの一瞬だけ、ここで言葉を詰まらせた。


「今後も全身全霊をもって医学に邁進することを誓います。加賀大学医学部医学科代表、芦原あしはら美菜みな


 壇上を去る時、何人かのご遺族が私の顔を長く見つめているのが目に入った。女性としては高身長な170cm近い体格、何より髪を長めにして目立たないようにしているとはいえ、右頬に刻まれた傷痕。人に見られるのには慣れていたが、果たして私が面前に立って良かったのかとは少し思う。


 本来ならこの「感謝のことば」の役目を負うような成績でもなく、無論立候補もしていないのだが、紗良がになるからと勝手に私を推薦してしまったのだ。後で謝ってくれたが、実際のところ、いざ壇上に登った時には高揚感があり、悪い気はしなかった。


 今日の授業は既に終了していたため、真っ直ぐに帰途につく。他の学部と共通の授業を受ける1年生、複雑な基礎医学と解剖実習に時間を費やす2年生に比べると、3年生は臨床に直結する授業が増えて面白くなってきていた。一方でほぼ全ての授業が必修科目であった。そのため学年全員が同じ授業を受ける日々が繰り返されることになり、否が応でも高校時代を思い起こさせた。しかし今後の二重生活に慣れるまでは、キャンパスでの毎日が平坦であることはありがたいことに違いない。


 車を運転すること30分、自宅に戻るとシャワーを浴びて簡単に夕食を済ませ、自室の机に向かった。そこには医学生にはいささか似合わないものが鎮座していた。派手に光るグラフィックボードが取り付けられたデスクトップPC、私の表情を写すWebカメラ、コンデンサーマイクなど。


 PCの電源を入れ、配信ソフトに自身のアバターと背景を写し、待機画面を表示させた。かつては習慣だった発声練習のルーティンを行う。唇を震わせながら息を吐くと、私は芦原美菜ではなくなり、別の誰かになる。あの感覚が戻ってきた。待機画面を解除し、第一声を発する。


「初めまして。私は、IRIS所属のバーチャルライバー、楠本カイネ――」

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