第2話


「結賀、おはよ! もう、先行くなら言ってくれればよかったのに」


 幼馴染の佐伯伊織さえきいおりが俺の肩を叩いてきた。


「ああ悪い。おはよ」

 俺が振り向くと、伊織は不服そうに口をへの字に曲げた。本当に反省してる? とでも言いたそうだ。


 瞳がリスのようにクリクリしていて、身長が百五十センチメートルにもみたないから、俺からすると、伊織は少し小動物みたいな感じがする。


 ウェーブのかかった茶色い髪は、伊織が地面に足をつけるたびに揺れていた。


 伊織は俺と父さんの部屋の隣に住んでいる。俺が病院で生まれる前からそうだった。


 伊織の父さんと俺の母親は小学校が一緒だったけれど、当時は別に大して仲が良いわけではなかったから、卒業以来全然会っていなかったらしい。そんな二人は俺が生まれてから一週間もしない日に、マンションの前で十年ぶりの再会を果たした。それだけなら別に、会えてよかったねで終わる話だ。でもそれだけでは終わらなかった。



『せっかく隣に住んでいるのだから仲良くしよう』 


 誰かがそう言ったわけではないけれど、俺が一歳になる前から、家族三人でじゃなくて、伊織や伊織の両親も一緒に夜ご飯を食べるようになった。そんな生活を十二年ほど続けていたら、ある日、俺は伊織の父さんと俺の母親がキスをしているのを目にした。そしてその翌日、俺の母親は部屋を出て行った。当時、父さんは今と違って朝仕事場に出掛けて夜に帰ってくるような仕事をしていた。そのせいで、ポストに入っていた離婚届けは俺が一番最初に見る羽目になった。


 授業を終えて学校から帰ってきたら、母親の歯ブラシも衣服もバッグも何一つ部屋になくて、母親もいなくて。母親を探そうと思って外に出たら、ポストにそれがあった。隣の部屋のドアの前には伊織がいて、同じように離婚届を持っていた。俺は母親に捨てられて、伊織は父さんに捨てられた。確信なんてなかったけれど、そうとしか考えられなかった。頭は完全にパニックで、仕事中だとわかっていたのに俺は思わず父さんに電話をかけて泣き叫んでしまった。父さんはいつも通り、仕事を終えてから帰ってきた。そして翌日も、元気に仕事へ行った。


 けれど、離婚届けを直接目にしてから一週間もしないうちに、父さんは落ちるところまで落ちた。


 仕事に通えなくなって、一日中寝たり酒を飲みながら泣いたりするような人になった。そんな父さんが社会復帰したのは俺が受験生になって間もない頃だった。


 世間には小学一年生の時から友達で、それから死ぬまでずっと恋仲ではないけれど仲が良い男女とかももしかしたらいるのかもしれない。けれど、俺の母親と伊織の父さんは全然そんなんじゃなかった。俺と父さんと伊織と伊織の母さんはそのことに全く気づいていなかった。笑えない。ご飯を食べていた時、俺の母親は何もずっと伊織の父さんと話していたわけでなはい。それなのに二人は俺の人生をめちゃくちゃにした。


 髪を染めたのは母親に見つけてもらうため。あんたがいなくても幸せな俺の姿を目に焼き付けてもらうため。それ以外の理由はない。

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