第10話 上司と部下、そして

「え、猫の飼い方?せんだつ?え、え?」


 想定外の依頼に、頭がついていかない。

 てっきり仕事の話だと思っていたところへ、急に猫の話だ。しかも発言者は、仕事以外の私生活が全く想像できない、真面目一辺倒――あくまでこぶしの認識だが――の上司である。


「あの、つまり写真の猫ちゃんを部長が飼われる、ということでしょうか」

「ええ、そうなのです。やはりこのまま公的機関やボランティア団体に保護をお願いするのも心苦しいですし、何かこう、“えにし”を感じましてね」


「何分、猫を飼ったことなど幼少の頃一度だけ、それも物心着いた時分には既に高齢猫でしたから、子猫のことなどよく分からないのです。検査をお願いした動物病院でも、最低限のことはお聞きしたのですが……、やはり経験者の実体験が参考になるかと思いまして」

 はにかみながら話す松本が、一瞬たからものを手に入れた少年のように見えた。

 生き物を飼うことへの期待、楽しみと思う気持ちは、幾つになっても変わらないらしい。


 こぶしにとって疑問はもう一つある。なぜ松本が、猫の飼い方を聞いてきたのか。

 ヤマトと同居していることは会社でおおやけにしていることではないし、勿論松本と猫の話などしたことも無かったからだ。


 やはり松本に猫を飼っていることを気づかれているようだと察したこぶしは、素直に疑問を口にする。

「でも、どうして私が猫を飼っていることが分かったんですか?」

「麻績村さんが入社され私の部署に配属になった去年と、今年に入ってから――特に四月から五月頃を比較すると、随分精神的に落ち込まれていたように感じました。仕事には影響が出ていないようでしたので、面談等は致しませんでしたが…」


 丁度、2年目に入り仕事にある程度慣れ、自分や家族の事を考える余裕が出てきたころだった。

 仕事を終えて、帰路に就く。

 鍵を取り出し玄関のドアを開けて、無言で入る。

 誰もいない部屋に入り、バッグを置いてスーツを掛け、部屋着に着替える。

 冷蔵庫から炭酸水を取り出して飲み、一息吐く。

 ――そうした後で訪れる、静けさ。

 炭酸の泡が弾ける音さえ響くようで、寂しさが身を刺していたころ。


「それが、五月末以降は元気を取り戻されました。茅野さんとの会話に、やっくん?さんの名前が出てくるようになったのもそのころでしたね。……失礼、聞き耳を立てるつもりは無かったのですが、麻績村さんの声は元気が良くとても通る声ですので聞こえてしまいまして」


 話を聞いて、こぶしは羞恥に顔を赤らめる。遠回しに、ばかに大きな声だと言われているようなものだった。

 どうやらオフィスで凛と昼休みなどにしていた雑談は、部内に丸聞こえだったらしい。

「そ、それは失礼いたしました……」

「いえいえ、休み時間のことですから」

 松本は鷹揚に手を振り、こぶしの謝罪を止める。


「麻績村さんのお話に出てくる方が、猫だと気付いたのは最近です。――しばらく前から、部で一番早く出社するのが私ではなく麻績村さんになりましたね。朝は陽の光が窓から室内に長く差し込んできます。そのようなオフィスですと、室内の照明では見えない細かな繊維やホコリが良く見えるのです。衣服に着いた猫の毛なども」


「あ…」

 こまめにスーツにブラシをかけるなど注意していたつもりだったが、取り切れていなかったらしい。

「本来なら、部下とはいえ私生活に関する話を、まして若い女性にお願いするのはコンプライアンスの問題があり、本当に申し訳なく思っています。しかし、この子を病院へ引き取りに行くのが今晩で、時間も頼れる方も無く。出来るだけ予備知識を入れて必要なものを準備し、しっかり迎え入れてあげたいのです」


 松本の言葉から、部下に対する以上の――それこそ対等の人間に対する心遣いと真摯さ、そして子猫に対する愛情を感じ取ったこぶしは、すぐに了解の返事をしようとして……思い付いてしまった。

(どうしよう、こんなこと頼んだら失礼かな…。でもこの機会を逃したら、お父さんの事理解できないままになっちゃうかもしれない。…よし!)


「分かりました!私にできることでしたら。…ただ、一つ条件というか、お願いしたいことがあるのですけど…」

「私に出来ることであれば、何なりと」


 飼い方の指導についてははっきりと了解を、交換条件については遠慮がちに、こぶしは松本へ返答した。


「私の、蕎麦の師匠になってもらえませんか?」

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