夏の風のように

真朱マロ

第1話 ウィリアムと私

「パティ・モニーク・カミングス。いつでも出かけられるように、用意しておきなさい」


 それだけ言って仕事に向かうウィリアムに、私は「はい」と返事をして、その背中を見送った。

 ピカピカの黒いリムジンに、彼に付き添い今日の予定を告げる秘書。

 精力的に働き続けてきた仕事に向かうのも、今日が最後の日なのにいつもと変わらない後ろ姿だった。


 どこに向かう用意なのかわからないけれど、私のフルネームを呼ぶ日はいつも泊りがけの用事だから、きっとそうなのだろう。

 私も一緒に出掛けるようなニュアンスだったな、と思いながら用意を始める。

 成人して家庭を持った子供たちがここにいたなら、なんで泊りってわかるの?! とまた騒ぎ立てただろう様子を想像して、クスリと思わず笑みがこぼれた。

 そういえば、結婚してから40年も経ったのだと、振り返りもしない背中を思い出す。


 ウィリアムと私は政略結婚だった。

 いまどき政略? とスクールの友達に笑われたこともあったけれど、国内でも有数の資産家・カミングス家の次男であるウィリアムとの結婚は、没落待ったなしの残念な名門と名高い貧乏一家の次女の私にとって、人生最大の幸運だった。


 ハイスクールでは一つ学年が違ったけれど、ウィリアムは男前なので目立っていたので婚約前に知っていた。

 キャァキャァと騒ぐ女の子たちに交じって、彼が参加するフットボールの試合を応援に出かけたこともある。

 背の高いがっしりした体つきも、琥珀のような鋭い瞳も、太く威厳のある眉も、そのすべてが凛々しかったので、女子生徒の憧れの存在でもあったのだ。


 だから、パティ自身が婚約の打診を受けたことそのものが青天の霹靂で、自分のためにも家族のためにも、どれほど見苦しかろうとその膝に縋り付いてでも叶えたい結婚だった。

 婚約から結婚までの期間も半年と短く学生結婚で、なぜそんなにも急いだのかはわからないけれど、デートもほんの数回映画を見に行ったぐらいだ。


 愛だの恋だの、そんな甘さを感じる暇もなかった。

 つつがなく婚姻出来たその日、どれほど安堵したことか。


 結婚の条件であった私の実家への援助も、過ぎるほどにしてもらえた。

 これで、歴史のある我が家を取り壊さずに済む。

 お父様も、お母様も、妹たちも、お腹をすかせる日はなくなる。

 カミングス家の援助で、我が家が守り続けてきた伝統や古き良き時代も、壊さず残すことができる。


 まるで身売りのようだとお父様は嘆いたけれど、私は密かにウィリアムに憧れを抱いていたから、ただただ幸運に感謝するばかりだった。

 この結婚生活のすべてはただの政略で、私の血筋を望まれただけだとしても、ただただ幸運だったのだ。


 ウィリアムは見た目通り寡黙な質(たち)で、無駄な話はしない。

 ともすれば必要な話も忘れそうになる。

 だから、わかりやすい愛情を向けられたことはない。

 それが少し、さみしいけれど。


 わかりやすい愛まで求めるなんて。

 欲が深すぎる。


 だからといって、夫として、父としてのウィリアムに、不足はなかった。

 何に対しても熱くならず淡泊な受け流し方をするけれど、子供たちに対して冷たい態度を取ることもなかった。

 休日には家族でハイキングに出かけたこともあるし、有名なオペラを見に行ったこともあるし、記念日にはレストランで食事をすることも欠かさない。

 言葉足らずでも、その眼差しで、表情で、行動で、子供たちと向き合っていた。

 ウィリアムの行動一つ一つが、愛情に裏打ちされた行動だと疑う余地もない。


 不器用で言葉足らずだけど、ウィリアムと添い遂げられることは、人生最大の私の幸運。


 それなのに、今は少し不安だった。

 この不安が何からくるのか、実はわかっている。

 

 子供たちが別の家庭を持って巣立ち、二人に戻ったここ数年。

 休日になるといそいそと、ウィリアムは行き先も告げずに出ていくのだ。

 泊りがけで出かける事も多く、金曜に仕事が終わってから出かけ、月曜の朝、直接仕事に向かうことも多くなっていた。


 どこに行くの? と問いかけたこともあるけれど、今は言えない、と返事をもらった。

 それ以上は問い詰めることもできず、私の心はしおれるばかりだ。

 独りで過ごす週末は、なんだかポカリと胸に大きな穴が開いたようで、とてもさみしい。


 今日、仕事を終えたら。

 ウィリアムは家に帰ってこなくなるかもしれない。


 不安でたまらない気持ちを抱えていたけれど、昼を過ぎるとウィリアムは帰ってきた。

 今にも走り出しそうな様子で、なんだか表情が浮き立っている。


「荷物はコレでいいのか? よし、行こう」


 二人分の荷物を右手に持つと、左手で私の手を引いた。

 家政婦に戸締り等を言いつけると、玄関前に着けていたミジェットへ一緒に乗り込んだ。

 ピカピカに磨かれた彼のお気に入りのクラシックカーは、彼が一人で出かける時の週末の定番だったから、私は戸惑った。

 この車はウィリアムの宝物で、彼だけの時間の象徴だったのに。


「晴れて良かった。最高の一日になりそうだ」


 まるで悪戯を思いついた少年のように笑いながら、ウィリアムは終始ご機嫌で、ハンドルを握っている。

 彼だけの宝物に私まで同乗するなんて、いけない事をしているようで落ち着かない。

 オープンカーに乗るのも初めてで、頬を叩くような夏の風に乱れる髪を抑えながら、私は問いかける。


「どこに行くの?」

「秘密基地さ」


 秘密基地? と問いかける間もなかった。

 ニヤリと笑って、ウィリアムはアクセルを踏み込んだ。

 グン、と後ろに引っ張られるように、体が座席に押し付けられる。

 暑いはずの太陽も、真っ青な目に涼しい空も、整然と並ぶ緑の街路樹も、速度を上げるミジェットはグングンと追い抜いていく。

 ハイウェイをかっ飛ばすウィリアムも、少年に戻った彼の横顔を見つめる私も、まるで夏の風のようだった。

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