第2話 俺が俺でなくなった時

「んぅ……」


 誰かの吐息混じりの声が耳元で聞こえ、閉じられていた目を開ける。


 目覚めた、といってもそこまで深い眠りに落ちていた訳でもないので、起床と言った方がしっくりくる。


 自分を起こした声の持ち主は、もちろんいつも隣で一緒に寝ているお母さま──


 ──もちろん?

 あれ、僕はいつも一緒にお母さまと寝ていたっけ?


 ……なんだ、この口調は。

 僕、いや俺は。


 ……何が起こっている。

 いや、待て、俺は死んだはずじゃ──


 そこで初めて自分の内側だけでなく外側の異変にも気付く。


 目線の先にあった足元に掛けられている布団を辿って視線を上げていくと、まず大きな絵画が目に入る。

 抽象画だろうか、火や水のような綺麗な色合いのものが描かれている。

 それゆえに抽象画によくある混沌とした感じではなく、スタイリッシュで凛とした雰囲気を感じる。


 そこから視線を右にずらしてみると、外が一望できそうな大きな窓があり、この部屋の豪勢さに磨きをかけていた。


 そう、豪勢なのだ。

 自分が今座っているのも垂れ幕の付いたベッドで、こういうのを天蓋ベッドなんて言うのだろうか。


 とにかく、俺の部屋じゃない。


 かといって病院でもない。

 じゃあここはどこだ?


「──ん……おはよう、アレス」


 あくび混じりの声が聞こえる。

 心なしかその声はこちらに向けられているような気がした。


 アレスって誰だ?

 そう思い声のした方を向くと──眠そうに目を擦りながらこちらを見つめる女性と目が合った。


 ──え、俺?


 人差し指で自分を指し、疑問符を頭上にありありと浮かせて小首を傾げる。


「?そうに決まってるじゃない。おかしな子ね」


 まさかの、肯定されてしまった。


 いやいやいや、待て。

 俺には親に貰った名前があって……少なくともアレスなんて名前では無かった。

 それは断言出来る。だって俺西洋人でもなんでもないもん。


 祖父母から両親に渡ってなんの混じり気もない純日本人である。

 それが急にアレスなんて名付けられるものか。


 ……いや、今世間を騒がせているキラキラネームなら有り得るのか……?


 ……いや、もっと有り得ないか。

 俺の知るキラキラネームは酷いものばかりではあったが、一応の意味は込められていた……はずだ。

 それなのに、少なくとも俺の脳内辞書に『アレス』なんて言葉の意味は載ってない。


 というか、俺はさっきまで薄暗い部屋で首を吊っていて……

 ──……思い出した。


 俺は確かに地球に住んでいた“佐伯修吾”と言う名の男の歩んだ人生を余すことなく知っている。

 が、それと同時に今年よわい3歳になる自分、“アレス=レント=リタニア”の人生も知っている。


 これが意味することは何か。

 ──夢だ。そうだ、そうに違いない。

 リアリティのある長い長い夢。

 二度と体験したくない悪夢。


 ──なんて簡単に切り捨てられるほど俺の人生絶望は軽くない。

 “佐伯修吾”は俺だ。“アレス=レント=リタニア”も俺だ。


 そう自覚すると共に“アレス=レント=リタニア”としての俺の記憶が“佐伯修吾”としての俺の記憶に加えられる。


 『魔法』、『魔物』、『神』、『騎士』、『剣』、『貴族』…………。


 脳内が“佐伯修吾”の見たことの無い景色で埋め尽くされる。


 そこかしこで魔法という名の超常現象が意図的に起こされ、現代日本では見かけることすらなかった剣が持ち歩かれている世界。


 スマホや車などの文明の利器は存在しない。

 アレスの記憶は修吾にとって未知の領域だった。

 だが、決して億劫な訳では無い。


 これでもラノベというジャンルがある日本で男として生まれ育った身。

 明らかな『剣と魔法の飛び交う世界』。

 ワクワクしない訳がないだろう。


 ……それに、死ねなかった代わりと言ってはなんだが、あの兄弟たちと出会うことの無い異世界に来れた。

 今はそれだけで十分だ。


 不思議そうにこちらを見つめている銀髪の女性……もといアレスの母、レシアを横目に伸びをする。

 そのままベッドに倒れ込み、清々しい気分のまま二度寝を決め込むことにする。


 あー、久しぶりにぐっすり寝れそう。



「…………ちょっと、アレス!?もう朝よ!また寝ちゃうの──」


 ハッとしたレシアが必死にアレスの体を揺らすが、既に深い眠りに落ちたアレスが起きることは無かった。

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