405号室

白河夜船

405号室

 八月三十一日。朝。

 蝉時雨が降り注ぐ、緑の小道を久嗣ひさしは歩く。道と言ってもほとんど雑草と、枝垂れた樹々に埋もれている。日頃、久嗣が藪を掻き分け、そこを通っている痕跡が、目を凝らせばどうにか見える――そういう類の道だった。

(獣道と変わらないな)

 そう思うと、進むほど自分が人間から動物へ返っていくような、奇妙な感覚に襲われた。いや。人間だって突き詰めれば、やはり動物であるわけだから、返るというのは変かもしれない。人間でない何か別の、原始的な生き物になっていく。そう表現した方が正しいだろうか。

 藪を抜けると、拓けた広場のような場所に出た。鬱蒼とした林の中で、その一画だけ、管理されている風でもないのに草木がどこか大人しい。広場に横溢する夏の陽射しは、木下闇こしたやみに慣れた久嗣の目には眩しくて、ゆっくり瞬きを繰り返しつつ、久嗣は青葉の絨毯を踏んだ。さっきまでは子供の背丈ほども伸びていた雑草が、広場の中に限ってはスニーカーを隠す程度の高さに収まっていて、歩きやすい。

「やあ」

 服に付いた葉っぱや草の種を払っていると、頭上から声が聞こえた。見上げれば、くすんだ白い、大きなコンクリ―ト建造物の四階――廃ホテルの一室に彼がいた。琥珀色の肌。ベランダの手摺に凭れて、こちらを見ている。

 に。

 と彼が微笑んだので、久嗣も笑った。






 鍵の壊れた硝子扉を引き開けて、エントランスに入り込む。電灯の灯っていない室内は、日中でも薄暗かった。エレベーターは動かない。いつも通り、久嗣は階段を使う。

 廃墟としては、不思議に小綺麗な建物である。浮浪者や悪童が屯していた気配すらなく、空気も情景も全てがひたりと凪いでいる。使われなくなったその日から、きっとほとんど変化していない。時間だけが黙々と積み重なって、この場を次第、荒涼とした有様に変容させているらしかった。

 405号室。

 彼がいるのは必ずこの部屋だ。

 埃を纏って白っぽく煤けたドアをノックして、開ける。冷気が久嗣の肌に纏わり付いた。クーラーが点いている。そっとドアを閉め、鍵を掛けてから奥へ進んだ。

 机、椅子、カーテン、テーブルランプ……洋風の調度も、壁も、床も、照明も、何もかもが清潔で真新しい。在りし日のホテルのベッドに腰掛けた彼は、明るくのんびりした異国の歌を、ともすれば聞き洩らしそうな微かな声で口遊んでいた。歌詞の意味は分からないが、メロディは好ましくて耳に快い。

 近づいたら、やめるだろうか。

 久嗣はつい立ち止まった。道端で雀や白鶺鴒はくせきれいが遊ぶのを眺める時に少し似た、淡い緊張と遠慮を感じる。身動ぎもせず、ベッドルームの手前に佇む久嗣を見遣って、彼は歌いながらニッと笑んだ。招くように、手を差し伸べる。甲に対して、その掌はほんのり白い。






 随分昔、明治頃まで、『彼』という語は男にも女にも使われていたらしい。であれば、彼はやはり『彼』と呼ぶべきなのだろう。

 あの廃ホテルの、時間が巻き戻ったような不可思議な一室。そこに久嗣は陽のある内だけいられるのだが、一度帰ってから翌日また訪れてみると、『彼』の姿は前日と全く違うものになっているのであった。

 ある時は少年で、ある時は少女。年齢もいくらか上下しているようだ。ただ概ねは十代半ば――久嗣と同じ年頃か、やや年上という様相だった。

「なんで会う度、見た目が違うんだ」

「ここは、君は一体何なんだ」

 問い掛けても彼は答えず、詰まらないことを聞くなぁ、という呆れを含んだ眼差しを久嗣に向ける。それで何となくたじろぐような、恥ずかしいような気持ちになって、久嗣はいつも質問を有耶無耶に放棄してしまうのであった。

 知ってどうする、とも思う。

 どうでもいい。そんなこと、些事ではないか。

 廃ホテルの405号室。世界から切り離された秘密の場所に、彼がいる。それ以上に重要な情報が、久嗣にとってあるものか。






 久嗣が廃ホテルを見つけたのは、小学生の頃だった。

 蝉の抜け殻を探していたのだ。薄い半透明の、乾いた皮膜で構成された小さなそれは、繊細な飴細工のようで、幼い久嗣には素敵な宝物と思われた。だから一時期、状態の良いもの、色が綺麗なものを拾い集めて遊んでいた。

 町外れの林は、穴場であった。茂った藪のおかげで蝉が多く、他の子供達にも荒らされていない。夢中で抜け殻を拾って歩く内、いきなり拓けた場所へ出て、そこに大きな建物が建っていたから驚いたのをよく覚えている。

(こんなとこ、あったんだ)

 感動する一方で、何だか怖いような気持ちになった。噂にすら聞いたことがない謎の建物は、人気がなくて、どこか沈んだ雰囲気で、子供の目にも廃墟であることは明らかだった。恐る恐る近付いて、中を覗いてみたら想像以上に薄暗く、訳もなく「わっ」と叫んで、その時は逃げるようにして帰ってしまった。

 しかし夜、自分のベッドに潜り込み、日中のことを思い出すと胸がドキドキ高鳴った。

 秘密基地。

 という単語が頭に浮かび、新しい特別な玩具を手にしたような気持になって、誰にも教えないでおこうと久嗣は固く心に決めた。あそこはぼくだけの遊び場なんだ。

 以来、人目を避けて、久嗣は時々廃ホテルへ行くようになった。草の上に座って本を読んだり、お菓子を食べたり、携帯ゲームで遊んだり。そういう何でもないことが、あの場所ではとても楽しく思える。

 慣れてくると、建物の方にも興味が湧いた。いや、興味はずっとあったのだけど、古びた建物の内部は暗く、どこか不気味で、一人では中々入ろうという気になれなかったのだ。

 やっと決心して入ってみたのは、中学生になってからである。エントランス、ロビー、フロント、階段……何年も掛け、少しずつ、久嗣は行動範囲を広げていった。


 405室。


 そこに辿り着いたのは、高一――今年の八月一日だった。ドアノブを捻った瞬間、

 かちゃ。

 と他とは違う手応えを感じて、戸惑った。鍵が開いている。今までの経験から、客室のドアは開かないものと思い込んでいた久嗣は、興奮と緊張で心臓を高鳴らせつつ、ドアをぐっと押し開けた。

(案外、綺麗なんだな)

 初めて踏み込んだ客室に対する印象は、そんなものだった。埃に覆われて色褪せてこそいるものの、往時の様子を簡単に想像できるほど、内装は整っている。ペンライトをあちこち振り向け、興味深く部屋を見回す内に、久嗣は気づいた。

 音が聞こえる。どろどろという、これは、

(雷?)

 窓辺に近寄り、外を見た。巨大な暗雲が津波のように、こちらへ迫って来ている。あっ。と思う間に、辺りが暗翳に包まれた。烈しい雨音と雷鳴。明度の下がった室内は、平素よりも薄気味悪く、久嗣は思わず身震いをした。今は、何時だったろう。携帯を取り出して、確認してみる。15時半過ぎ。

 微妙な時間だ。暮時までに雨が止まなかったら、どうしよう。街灯がなく日陰の多い林の小道は、すぐ暗くなってしまう。陽のある内に、走って帰るか? でも………

「夕立だから、じき止むよ」

 不意に背後から声を掛けられたので、ぎょっとした。慌てて振り向くと、ベッドルームと廊下のあわいに、少年が一人立っている。空に閃いた稲妻が刹那、彼の雪色の肌を光らせた。

「君は」

 しなやかな指が壁を滑って、照明のスイッチを押した。暖色の光に照らされた室内は、先ほどまでの埃っぽさが嘘だったみたいに清潔で、色鮮やかで、久嗣は混乱から軽い眩暈を覚えた。想像したままの、往時のホテル―――

 に。

 と彼があまり無邪気に微笑んだので、つられて久嗣も笑ってしまった。






「もうすぐ転校するかもしれないんだ」

 久嗣が言うと、「転校?」と彼は初めて聞いた単語のように首を傾げた。

「遠くに行くの」

「うん」

「どうして」

「親が仲、悪くてさ。離婚したら、母方の実家に行かなきゃいけない」

「ふぅん」

 と頷いた彼の顔付きは普段通りで、分かっているのかいないのか、どうもいまいち判然としない。夏休みの最終日――学生である久嗣にとっては大きな節目で、今日以降、気軽に彼を訪ねることもできなくなる。そう思い、意を決して話してみたのだが、彼の反応は存外淡泊で、久嗣はもどかしいような心許ないような気分になった。

「会えなくなるんだよ」

 念押ししても、彼はいつもと変わらない。久嗣の横で、のんびりベッドに腰掛けて寛いでいる。何だかむっとして、琥珀色の腕を軽く小突けば、彼はくすくすと面白そうに身を捩った。

「寂しいんだ」

 咄嗟に違うと言い掛けて、でも言えなくて、項垂れた。寂しいのも、悲しいのも、当たり前だろ。家の中がずっとギスギスしていて、息苦しくて、子供の頃から馴染んだ土地を自分の意思でなく、いきなり離れなくちゃいけなくなって、何より、

「ねえ」

 久嗣は震える声で、彼に尋ねた。

「僕のこと、好き?」

「好きだよ」

 衝動に任せて、細い躰を押し倒した。

 彼は抗いもせず、笑っている。






 そういえば初めて会った時に比べると、随分焼けた。久嗣は彼の肌を見て、ふと思った。外遊びしているわけでもないのに、日毎―――

 窓外へ視線を移す。空がもう赤みを帯びていた。林の下影は既に濃い。

「そろそろ帰りなよ」

 彼の言葉に久嗣は答えなかった。「もし」とややあって、口を開く。

「夜までいたら、どうなるんだ」

「帰り道が分からなくなる」

 それは、暗くて道が見えなくなるということか。それとも、もっと別の、深刻な意味を含んでいるのか。久嗣は考えかけて、頭を振った。どちらでも構わない。

 戯れる内に、陽が沈んだ。外は暗い。真っ暗だ。暗すぎる、と久嗣は思った。町外れと言っても、林の周囲に建物が全くないわけではない。ここは四階でそれなり見晴らしもよいのだから、本当なら遠くに町明りが見えるはずだ。

「もう、どこにも行けないね」

 彼は笑って、サイドテーブルを指差した。抽斗の中には、木柄の剃刀が一本入っている。抽斗に手を掛けた久嗣は戸惑った。抽斗を開ける。木柄の剃刀が一本。なぜ、開ける前から中身が分かっていたんだ。

 彼に目を遣る。真白いベッドシーツに、琥珀色の背中が映えていた。滑らかな表面おもてを撫でる。乾いた質感は、油紙を想わせた。肩甲骨の間に刃を宛がう。

 既視感デジャヴ。前にも、こんなことがなかったか。でも、それはいつ―――

 剃刀を背筋に沿って、すぅーっと引いた。薄い皮膜だけを切るよう、そっと。僕はどうしてこんなことをしてるんだ。言われたからだ。いや、何も言われていない。言われたじゃないか。尾骨の辺りまで一直線に刃を入れると、彼が微かに身動いだ。蹲る。丸めた背にぱっくり開いた切れ目から、生白い肌が覗いた。

 ああ。

 小さい頃、一度見たことがある。蝉の




















***


 405室。


 そこに辿り着いたのは、高一――今年の八月一日だった。ドアノブを捻った瞬間、

 かちゃ。

 と他とは違う手応えを感じて、戸惑った。鍵が開いている。今までの経験から、客室のドアは開かないものと思い込んでいた久嗣は、興奮と緊張で心臓を高鳴らせつつ、ドアをぐっと押し開けた。

(案外、綺麗なんだな)

 初めて踏み込んだ客室に対する印象は、そんなものだった。埃に覆われて色褪せてこそいるものの、往時の様子を簡単に想像できるほど、内装は整っている。ペンライトをあちこち振り向け、興味深く部屋を見回す内に、久嗣は気づいた。

 音が聞こえる。どろどろという、これは、

(雷?)

 窓辺に近寄り、外を見た。巨大な暗雲が津波のように、こちらへ迫って来ている。あっ。と思う間に、辺りが暗翳に包まれた。烈しい雨音と雷鳴。明度の下がった室内は、平素よりも薄気味悪く、久嗣は思わず身震いをした。今は、何時だったろう。携帯を取り出して、確認してみる。15時半過ぎ。

 微妙な時間だ。暮時までに雨が止まなかったら、どうしよう。街灯がなく日陰の多い林の小道は、すぐ暗くなってしまう。陽のある内に、走って帰るか? でも………

「夕立だから、じき止むよ」

 不意に背後から声を掛けられたので、ぎょっとした。慌てて振り向くと、ベッドルームと廊下の間に、少女が一人立っている。空に閃いた稲妻が刹那、彼女の雪色の肌を光らせた。

「君は」

 しなやかな指が壁を滑って、照明のスイッチを押した。暖色の光に照らされた室内は、先ほどまでの埃っぽさが嘘だったみたいに清潔で、色鮮やかで、久嗣は混乱から軽い眩暈を覚えた。想像したままの、往時のホテル―――

 に。

 と彼女があまり無邪気に微笑んだので、つられて久嗣も笑ってしまった。

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