ロストバゲージ

雨谷結子

ロストバゲージ

 タッチパネルの音が鳴る。私の気分に反して、軽快な音色だ。

 目の前には、酔いつぶれた瀬那くんがテーブルに突っ伏している。


「瀬那くん、お会計。帰ろう」


 パネルに表示された金額は一万三千円余り。ちょっとお洒落とはいえ大衆居酒屋で二人で飲み食いしたにしては、社会人二年目の派遣OLにはうっとなる金額だ。


「瀬那くん。ねえったら」


 スプリングコートに袖を通して、反対の座敷に回り込む。うーうー唸っている瀬那くんに肩を貸して、狭い通路を平謝りしながら進んだ。

 土曜夜十時半。人が足りないのか、レジにお店の人の姿はない。ベルを鳴らして財布を取りだす。

 はずみで、ジッパーつきのちいさな透明のビニール袋がひらりと舞い落ちた。

 気づいた瀬那くんがそれを拾い上げてくれる。


「なんだ、レシートじゃん。ごみ? それとも家計簿でもつけてんの?」


 ばばくせえ、と笑いのツボに入ったみたいに瀬那くんが笑う。慌ててバッグに押し込んだところで、店員のお姉さんがやってくる。

 瀬那くんはまた酔いが回った様子で、私の肩に突っ伏してしまった。

 しかたなくふたり分の金額を払う。肩に瀬那くんの重みが掛かっていて、おつりをしまうのにもまごつく。そんな私に嫌な顔ひとつせずに、お姉さんは笑顔で見送ってくれた。

 出入り口は靴底から落ちた雪がとけて、床がぬれていた。足をとられてふらつく。瀬那くんを抱えなおした代わりに、バッグの中身がぶちまけられる。お姉さんがやってくる気配がしたけど、恥ずかしさに急き立てられるように手早く荷物を拾い集めて、店を出た。

 店の外は肌寒かった。好き勝手なネオンサインが乱れ飛ぶ景色のなかを歩いていると、次第に瀬那くんの足取りがしっかりしてくる。


「瀬那くん、あの。さっきのお会計だけど」


 瀬那くんは、鼻歌をうたっている。都合が悪くなると、急にうたいたくなったり眠くなったりするらしい。

 今日は中学のときの同窓会だった。卒業前に告白してそれきりになっていた瀬那くんがふたりで抜け出そうと話しかけてくれたときはうれしかった。今は彼氏もいなかったし、かぎりなく黒に近いグレーみたいな会社で心を擦り減していた私には、思い出補正もあって、瀬那くんは五割増しかっこよく見えた。

 奢ってほしかったわけじゃない。でも、かつかつの非正規には、ふたり分の出費は痛い。


「あのね、瀬那くん」

 何度目かの割り勘の要請に、瀬那くんはため息をついた。私はそれで、その後の言葉を失ってしまう。一万三千円。今月の化粧品のランクを下げて、外食を数回やめて、買い替えようと思っていた炊飯器の窯を来月に回せばどうにかなる額だ。

 黙りこめば瀬那くんは陽気さを取り戻した。


「な、ちょっと休んでいかね?」


 瀬那くんは踏切の向こうのラブホ街を指さす。ちょっと笑ってしまった。私の存在って宇宙の塵みたいに軽い。

 バッグのなかに目を落とせば、見慣れた透明のビニール袋がなかった。どこで無くしたんだろう。居酒屋だろうか。

 でも、あんなくしゃくしゃの昔のレシートなんて、きっともう捨てられている。

 重い足を引きずって流れに身を任せようとしたところで、踏切がカンカンと音を立てて、赤い光が明滅しはじめた。遮断機が下りる。その向こうにひょろ長い背中を見た気がした。

 雑踏の真ん中でひとり、私は時を止める。






 旭川空港に降り立ったのは、小学四年生の冬だった。

 あの日私は、ちょっとした事件に巻き込まれたのだと思う。思う、というのは確証がないからだ。いくつかの証拠はあるけれど、夢でも見ていたんじゃないかって言われたら反論できない。

 そのたった一日の出来事は表ざたにはならずに、日々目まぐるしく巻き起こる事件の影に、ひっそりと消えてしまったからだ。


「お預かりした手荷物を回転台にて返却いたします」


 アナウンスの声とともに、ターンテーブルが動きはじめる。こじんまりとした手荷物受取所は、人という人でごった返していた。

 ほとんど最後の方に差しかかってようやく、見覚えのあるスーツケースが見えてくる。重たいそれを苦労して回転台から引き下ろした。

 あれ、という戸惑ったような男の人の声がどこかからした。さして気にもとめずに、ケースについていた手荷物タグをごみ箱に捨てて、受取所を後にする。

 空港には迎えがくることになっていた。飛行機を降りる前に届いたメールによると、道央道の通行止めでだいぶ遅れるらしい。

 それまで暇をつぶす手段ももう考えてある。市内行きのバスに乗って、駅の隣にある大型ショッピングモールをぶらつくつもりだった。

 出入り口の自動ドアを出たところで、ひゅっと息をのみこむ。寒い。寒いというよりも痛い。雪が踏み固められてつるつるになった地面に足をとられて、転びそうになる。

 でも、それよりも驚いたのは私の後ろからふたつの人影がぬっと現れたことだった。どちらも屈強な身体をしていて、全身黒づくめで、帽子にマスク、眼鏡をかけていた。


「その荷物、中を見せてくれるかな」


 黒服の男がいきなり、私のスーツケースを指さした。口調はあくまで柔らかかったけれど、どこか強制的な響きがある。

 このスーツケースは、お父さんから譲ってもらったものだった。中には、着替えと身の回り品、それと東京土産が入っているだけだ。自分で荷造りをしたからよく覚えている。大人が欲しがるものとも思えない。

 私が固まったままでいると、黒服は苛立った様子でスーツケースに手を触れてきた。

 すこし先には人通りもある。それなのに舌が凍りついたみたいに声が出なかった。


「かな! 探したよ。迎えにきたら、かないないんだもん。兄ちゃん、かなが迷子になったのかと思ってさあ。そこの警備員の人にまで、探すの手伝ってもらっちゃったよ」


 底抜けに明るい声だった。振り向けば、人好きのする笑みを浮かべた金髪ロン毛男が制服姿の空港警備員とともに立っていた。

 黒服たちが慌てた様子で駐車場へ向かおうとする。警備員はなにごとかをインカムに向かって喋ると、ふたりを追いかけていった。おかげで私は金髪ロン毛男とふたりきりになる。

 思わぬ助け船とは思えなかった。第一に、私にこんなファンキーな兄はいない。第二に私の名前はかなじゃない。さらに言えば、私を迎えに来るのはおばあちゃんのはずだった。

 要するに赤の他人が兄妹面をしてにこにこしている。さっきの強面の黒服よりもずっと、ひやっとするような恐怖がまとわりつく。


「きみには選択肢がふたつある」


 男はしゃがみ込むと、ポケットに突っ込んでいた手を出して人差し指をたてた。


「ひとつ。そのスーツケースをお兄さんに渡して、警備員のおじさんに保護を求めること」


 冗談じゃないと思った。到着早々問題を起こしたと分かれば、おばあちゃんは私にがっかりするだろう。私は、迎えが遅れるという情報を得て即座に市内までひとりで向かう判断ができるくらいに有用な子どもなのだと、おばあちゃんに会う前に証明する必要があった。


「ふたつ。おれと一緒にきて、そのケースの中身をおれに見せてくれること」


 私は眉根を寄せた。入れ替わり立ち代わり、見知らぬ男たちがこの取るに足りない荷物を求める意味が分からない。


「おれ的には断然ひとつめがおすすめ。なんでかって、お兄さんは悪いお兄さんだから」

「……警備員さんのお世話になるのはいや」


 やっとのことで声が出る。

 いつもは大人の人には敬語を使うけれど、悪人を自称する男にそうするのはちがう気がして、精いっぱい虚勢をはる。


「ま、お兄さんもいやだから気持ちは分かる。んじゃ、行きますか」

「どこに?」

「とりあえず駅。きみも市内行きバスに乗るつもりだったんでしょ」


 私が左手に握りしめたバスの乗車券を見やって、男が小首を傾げる。そのまま、バス停に向かって歩きはじめた。ちょうど車道を走ってきたバスが停車位置に停まる。


「きみ、名前は?」


 男は髪に手をやると、ひと息にそれを取り去った。どうやら鬘だったらしい。金の細いメッシュの入った襟足の長い地毛が現れる。目にうるさく掛かっていた前髪も短くなる。

 たぶん、二十代半ばか後半くらいだろう。


紗夜さや

「おれは桃太ももた。桃太郎の桃太ね」


 ふざけた名前を耳半分で聞き流す。鬘と同じで、どうせ偽名にちがいない。


「桃太はなにしてるひとなの」


 駄目元で聞いてみた。桃太は薄く笑った。


「運び屋」


 直感だが、嘘ではない気がした。運び屋。映画や麻薬探知犬の密着番組で見たことがある。薬物とか密輸品とか盗品とかとにかくまっとうではないものを運ぶ犯罪者のことだ。


「そうなんだ」


 動じてない振りをしてバスのステップに足をかける。

 車内はすぐに観光気分の乗客で埋まった。雑然とした会話がそこここで繰り広げられていて、奇妙な取り合わせの私たちを気にとめる客はいない。

 まず取りかかったのは、スーツケースの中身の確認だった。中身が日用品だと分かれば、桃太も納得して解放してくれるはずだと思ったからだ。すこし窮屈な思いをしながら、自分と桃太の膝の上にスーツケースを乗せる。


「待って。おれがあける」

「なんで私のを桃太があけるの。変態なの?」

「いや、まずいんだって」


 桃太はそう言って私の目に目隠しをする。


「やめてよ」


 ケースのジッパーのあけられる音がして、私は無理やり首を下に向けた。目を疑う。


「え?」


 そう言ったのは、私だけじゃなかった。

 中身は空だった。最近の機能化されたスーツケースとちがって、おんぼろで頑丈でそれ自体が重いせいで、気がつかなかった。


「もしかしてこれ、私のじゃない?」

「タグの番号見なかったの?」

「こんなにダサいの、私だけだと思ったから」


 その言葉は、尻すぼみになる。

 桃太はちいさく息を吐いた。そのことにどきりとした。ちょうどこんなふうに、お母さんはため息をついた。

 ああ、だから紗夜はだめなのよ。どうしてこんなにどんくさいのかしら。どこからか聴こえてきた声に、お母さん、ごめんなさいと返事をする。

 黙りこくってしまったからか、桃太はちょっと慌てた様子で私の顔を覗き込んだ。


「ちがうからね、自分にがっかりしただけ。さやちゃんにじゃないよ」


 なんの得もないのに、桃太は見知らぬ子どものフォローをする。

 私はびっくりして顔を上げた。


「自分に?」

「自分の仕事のずさんさにね。同じものがあったとはなあ」


 桃太はしみじみと言う。それでようやくピンときた。


「このケース、桃太のなの?」

「それが分かんないんだよね。これと同じものをおれも羽田で預けたはずだった」


 つまり桃太は、彼の荷物を私が間違えてもっていったと思って追いかけてきたのだ。

 思えば、受取所で聞いた「あれ?」は桃太の声に似ていた気がする。

 私はお父さんのスーツケースがどんな状態だったか思いだそうとする。でも、どんな傷があったかも覚えていない。お父さんはたくさんスーツケースを持っていたけれど、私にくれる気になったのはいちばんぼろくてずっと使っていないものだった。そのことばかりに気を取られて、肝心のスーツケースがどんなかなんて気にしてなかった。


「中身、空だったわけじゃないんだよね?」

「うん」

「なんだったの?」

「さあ」


 桃太は肩を竦める。ほんとうに知らないようでも、はぐらかしているようでもあった。

 でもとにかく、悪い男たちが三人もおびき寄せられるくらい価値のあるものが中に入っていたことは間違いない。


「どっちかが受取所に置き去りになっているのかも」

「それはないね」


 桃太は断言した。


「おれは最後まで受取所にいたし、それとなく係員に聞いてみたけど他に荷物はなかった」


 つまり、私か桃太の荷物がケースごとロストして、かつ私か桃太のケースの中身が中身だけなくなったということだ。

 そんなこと、あるだろうか。誰かのたくらみを感じずにはいられない。だけど、そのことについて考えるよりも、私はしょんぼりと肩を落とした。


「ごめんなさい。番号を確認してれば、このスーツケースが私のか桃太のかくらいは分かったはずなのに」

「謝んないでよ。十中八九、おれのせいだもん。ないもんはないんだし」


 からりと笑って桃太が言う。なにか吹っ切れたみたいな笑いかただった。

 車窓から覗く空は雲が重く垂れこめてしんしんと雪が降り、死にかけの陽光がかろうじて糸のような光を投げかけている。桃太のメッシュの金の髪のふちが水彩画みたいにあわくとけて、きれいだった。

 なんだか果敢ない。果敢ないっていうのはたぶん、人魚姫とか八日目の蝉とかに使うもので、ふてぶてしい悪人に使う言葉ではない。

 だけど、そうとしか表現できない雪片のようなあやうさを、桃太はあけっぴろげな笑みの下に忍ばせていた。




 間もなく、バスは旭川駅に到着した。

 スーツケースをロッカーに預けて、ショッピングモールに入った。休日の今日は、空港よりもずっと人でごった返している。長旅の前の買い出しだと桃太は言った。無造作に丸めたお札を渡され、今着ているのとちがうテイストの服を買ってくるように言いつけられる。靴だけはちゃんと雪国用の防寒靴、それも店員さんに相談して、靴底がしっかりしているものを買うようにとだけ注文がついた。

 お年玉でももらえないような大金だったけど、迷惑料だから返さないでいいらしい。ただより高いものはないことを私は知っていたけど、そう言う桃太の横顔に邪悪さはなかった。

 桃太がメンズファッションやスポーツ用品の売り場のある三階に行っている間に、子ども用の服が売っている二階をぶらついて目についた服と靴を一式そろえた。いつもはお母さんの言いつけで小ぎれいなお嬢さまみたいな服を着せられているけど、今日は前にお母さんに買ってもらえなかった、なんだかよく分からないカエルのキャラクターがえがかれた謎のスウェットを買ってみた。サングラスをかけたカエルの親父がパイプを吹かしているノーブランドのキャラクターだ。ロゴと配色が絶妙にださい。前にお母さんに欲しいと言ったときはそんな気持ちのわるい、品のない服を着ちゃだめと言われたけど、私はこのきもかわいいやばいカエルがほしかった。桃太の意図は、変装をしろということだからこの選択もあながち間違ってはいないだろう。さっきの黒服かその仲間がケースを狙っていて、追いかけてくると踏んでいるのかもしれない。なんだかスパイ映画みたいで、そんな場合じゃないのに胸がどきどきする。

 一階フードコート前が集合場所だった。逃げ出すことも、すぐそばの交番に駆け込むこともできた。だけど私は集合時間のきっかり五分前にはそこについていた。

 おばあちゃんにがっかりされたくないのも嘘じゃなかった。だけどそれが場当たり的な現実逃避だと自覚できるくらいには、私も大人に近づいていた。それ以上に、いい子に振る舞わなくてもいい桃太のそばにいるのは、思いのほか心地がよかった。

 それになんだか、桃太をこの先にひとりで行かせたらいけない。そんな気がした。

 時間よりすこし遅れて現れた桃太は、主張のつよいまっピンクのアウトドアウェアに全身をつつんでいた。

 桃太は私の格好をひと目見るなり軽いナンパ男みたいに、かわいいじゃんと言った。副流煙にまみれたカエル親父を、「やばいねそれ」と言って楽しげに携帯で写真を連写した。桃太の言うやばいは私の言うやばいとちょっと似た色をしている気がして、かわいいと言われたよりもなんだかうれしくなる。

 だけど、運び屋だの悪いお兄さんだのを自称するわりに、桃太はすごくのんきでばかみたいだ。私がおまわりさんにあの人に誘拐されましたとでも言いつけていたら、どうする気だったんだろう。ふつうは妙なことをしないように目を光らせるとか、脅迫するとかするんじゃないだろうか。すぐ傍にあった交番に駆け込む気持ちは微塵もなかったけど、そうする選択肢があったことを私はちゃんと理解していた。


「おれは、札幌に行かなきゃなんないんだよね」


 駅のロッカーから預けておいた空のスーツケースを引っぱりだしながら、桃太は言った。


「だから今からレンタカー借りるの。高速に乗るから、引き返せない」


 桃太は私に携帯の画面を見せた。なぜか映画の上映スケジュールが表示されている。


「何系の映画が好き? おれが札幌についてからならおまわりさんでもなんでも呼んでいいからさ。映画一本分、時間つぶしてよ。映画館にはやつらも探しにこないと思うし」


 私はびっくりした。

 服まで買い与えたのだから、桃太は私を連れて行く気なのだと思いこんでいた。

 追っ手を撒くために変装が必要だったのは嘘じゃないだろう。でも、その本当のところは、口止め料をやるからどこかに消えろということだったのかもしれない。桃太は私が集合時間どおりにのこのこやってきて、なんて馬鹿な小娘なんだと思っただろう。考えてみたら、当たり前だ。桃太が必要だったのはスーツケース、正確に言えばスーツケースの中身であって、私ではない。

 きゅっと唇を噛んだ。視界のはしがもやもやとにじみだす。


「映画はきらい」


 俯いてぎゅっと両手を握りしめて言えば、桃太は頭を掻いた。


「さやちゃん、なんか用があってバスに乗るつもりだったんでしょ。それはいいの?」

「うん」

「お父さんとかお母さん、心配しちゃうよ」

「しないよ」


 桃太は私の答えの理由を聞きだすことも、否定することもしなかった。白い息が立ちのぼるのをこわごわ見上げていたら、そっかという短い返事があった。その響きだけで、ついていくのをゆるされたのだと分かった。

 レンタカー屋さんまでの道は並んで歩いた。防寒靴の効果は覿面で、もうちっともすべらなかった。私ははしゃいで、桃太の前を走ってみせた。



 道央道の通行止めは解除されていた。私は助手席でシートベルトをしめて、軽快に流れていく景色を眺めていた。しばらくぶりの晴れ間がのぞいて、道路わきの雪面が宝石を敷きつめたみたいにきらきらしている。

 キッズケータイの電源を切っていたので、おばあちゃんが今どのあたりを走っているのか、はたまたもう旭川駅についたのかは分からない。

 私は後部座席のスーツケースを振り返った。それを目ざとく見とめて桃太は口をひらく。


「あとで空港に聞いてみなよ。荷物ほんとになかったか。どっかちがう便に乗せられるとか、積みこみ忘れとかもあるみたいだから」


 私が気にしているのは桃太のケースの中身のほうだ。なのに桃太は、私がまだ自分の荷物を惜しんでいると思っているらしい。


「桃太は盗まれたって思ってるんでしょ」

「まあ、物が物だしね。空港関係者が絡んでたりしたらもうお手上げよ」

「積み忘れでも間違いでも盗難でもなくて、ほんとに消えちゃうことってあるのかな」

「なにそれ。ブラックホールにのまれたみたいに?」


 私はうなずいた。


「飛行機の荷物ってお客さんが確認しなきゃいけないでしょ。なら、お客さんがなくなったことを言わなかったらどうなるのかなって」

「永遠に見つからなかったりして。それってなんか、ロマンじゃない?」


 桃太はなにが面白いのか、にやっと笑った。

 私はうつむく。永遠に見つからない、見つからなくてもいい荷物。

 私に似ている。

 この北海道へのひとり旅は、離婚したお父さんとお母さんと暮らしていた家を離れて、おばあちゃんの元に身を寄せるためだった。

 お父さんとお母さんは、私をおばあちゃんに手荷物みたいに預けたのだ。

 ロストしても、気にも留めないだろう。

 おばあちゃんももしかしたらほんとうはいやなのに、世間体とか義務のために受けとろうとしているだけなのかもしれない。お父さんとお母さんが世間体とか義務のために、これまですてきな家族の仮面をかぶって暮らしてきたように。だからロストしたらむしろほっとするんじゃないだろうか。おばあちゃんには数えるほどしか会ったことがないから、妄想でしかないけれど。

 迎えにきたおばあちゃんのがっかりしたため息を聞いたり、透明人間みたいに存在を無視されるよりは、もう最初からなかったことにした方がましな気がして、私は携帯の電源を落としたのだ。

 鼻の奥がつんとして、すんと鼻を鳴らす。さっき駅のロッカーで、桃太にまでいらないと言われたような気持ちがぶり返す。

 桃太は目をまんまるにひらいて、私を見た。

 私の「前」という言葉に、慌てて桃太はフロントガラスの向こうに視線を戻す。


「ごめん、そんな大切なもの入れてたの? おれに弁償できそう?」


 相変わらず桃太は勘ちがいをしている。

 妙にまごついているうえに的はずれなのがおかしくて、私は声をあげて笑ってしまった。

 悪事に手を染めて平気で笑っている男が、私の泣きべそひとつにあたふたしている。ふしぎで、だけど胸のはしっこが温かくなった。


「大丈夫。さっきので十分、おつりがくるよ」


 そう言ってから、私はまだ桃太に変装代のおつりを返していないことを思いだした。


「忘れてた。おつり、返すね」


 運転席のヘッドレストに引っかけられた上着のポケットに、お札と小銭を突っこむ。


「えっとね、おつりが二万二千……」


 レシートと見くらべて、最初にもらった金額と差し引きが合うか計算をはじめる。

 桃太はふっと空気をからめて笑った。


「あげるつもりだったんだから、んなこまかいことしなくていーよ」


 後で桃太が確認できるようにレシートもポケットに突っこもうとすると、灰皿にでも入れといてと言われる。桃太は煙草を吸わなかったので灰皿は空だった。それを汚すのもどうかと思って自分のポケットにしまいなおす。


「おれが言いたかったのは値段の話じゃなくてさ。荷物に入ってなかったの? 死んだハムスターの写真とか、友だちの手紙とか、ぴかぴかの石ころとか」

「なにそれ」

「知らない。おれの考えうるプライスレスなもの?」

「べつに。つまらないものしか入ってないよ」

「そうかなあ。さやちゃんの荷物、きれいな宝ものがたくさんつまってそうだから」


 なんてことのない様子で桃太は言う。

 きゅう、と胸が締めつけられる。気づいたときには、ぽろぽろと涙がこぼれていた。

 どうしてか分からない。いやほんとうは分かっていた。

 桃太は私になにかきれいなものを見いだしてくれた。私にも見えない、私も知らない価値あるものを。ロストしても誰にもかえりみられない宇宙の塵みたいな存在じゃなくて、もっと。宝ものみたいななにかを。

 桃太はあくまで荷物のことを言っているのであって、ぜんぜんそういう気はなかったかもしれない。でも、それでもよかった。私にはそれが、いっとうとくべつな言葉だった。

 桃太がしどろもどろになってへたくそな慰めの言葉を口にするうちに、またフロントガラスの向こうに雪がちらつきはじめた。ワイパーが雪を撥ねる前に、雪片は液体になって横に横にと流れていく。

 途中のサービスエリアでふたりで中華まんを買って車に持ち込んで食べた。桃太はピザまんとカレーまんを買ったけど、物欲しそうにあんまんと肉まんを横目で見てきたから、ぜんぶ半分こにして分け合って食べた。車内には四種類の味のまざったにおいが漂った。へんなにおいだったけど、そのにおいがずっと消えなければいいのにと私は思った。

 ウィンカーを左に出して、車は高速を降りた。高層ビルが林立する札幌の街は旭川よりずっと都会だった。桃太は入り組んだ道をぐるぐる回り、駐車違反の切符を切られている車を見つけて、なにを思ったのか「あ」と声をあげた。結局なにも口にすることなく、近くにあった時間貸駐車場に車を停める。

 桃太は後部座席のドアをあけると、空のスーツケースをひょいと掴んだ。

 薄々勘づいてはいたけれど、たぶん桃太は運び屋の仕事の報告に札幌にきたのではないだろうか。札幌に行くならふつう、新千歳空港を使う。ほんとうは旭川の近辺にスーツケースの中身を届ける予定が果たせず、依頼人とか仕事のボスとかそういう偉い人に経緯を説明しにきた。そう考えるのは、映画の見すぎか子どもの浅知恵だろうか。お父さんが映画が趣味だから、会話のきっかけになればと私は膨大な量の映画を見ている。最初はお父さんと話したくてはじめた趣味だけど、今では私は映画がほんとうは好きだった。


「中身ないのにもっていくの?」

「ないことの証明にね」


 それはたぶん、悪魔の証明みたいなものだ。場合によっては、桃太が盗んだと疑われることもあるんじゃないだろうか。

 たとえそう思われなかったとしても、悪い人が何人も追いかけてくるような荷物をなくして、桃太はいったい大丈夫なんだろうか。


「きっと怒られるよ」

「怒られるかもねえ」

「もうちょっと探したら見つかるかもしれないよ」

「うん、でも時間がない」

「なら逃げようよ。私も逃げたよ」

「仕事だから。それに、今どうしても行かなきゃいけない理由がおれにはあるんだよ」


 頑なな目をして桃太は言った。私に話しかけるときは運転しているとき以外はずっと目を合わせてくれたのに、今はそうしなかった。

 淡雪が降っていた。傾いた日で、長い影がそこここにできている。薄暗い狭い路地には堅雪の層があったけれど、私の手のひらに落ちた雪はすぐにとけて消えてしまう。

 一歩踏み出した桃太が私を振り返る。


「冷えちゃうから、行こ」


 私の身体が冷えきったら、この雪はとけずに残ってくれるのだろうか。でもそんなことを言ったら桃太を困らせるのが目に見えていたから、私はだまってうなずいた。

 雪が積もったでこぼこ道を、からからとちいさな車輪が回るいびつな音がする。大通りに出るとすぐに、その音は人や車の音で掻き消される。

 見つけたぞ、という声がしたのはそのときだった。振り返れば、雑踏の向こうに黒い服を着た男がひとりふたりとこちらに走ってくる。私ははっとして桃太の手を引いた。

 カンカン、と警報機の音がした。

 すぐ目の前に踏切がある。今のタイミングなら、遮断機が下りる前に渡りきって男たちを撒けるはずだ。

 白い息をはきながら必死に駆ける。踏切の中ほどまできたところで、桃太は立ちどまった。信じられない思いで振り向いた私に、桃太は踏切の向こうを指さした。


「さやちゃん、見える? あそこでおっかないおまわりさんが駐車違反取り締まってるの」


 そこには人影があった。沈みかけの陽光が帽子のつばをふちどって、影絵みたいなシルエットができている。


「あそこまで走って。それまでは振り向いちゃだめだよ。きみの靴はとびきりいい靴だから、ちゃんと転ばずに走れる。さあ行って」


 桃太はそう言って私の手を離す。すこし笑って、踵を返した。私は桃太を追いかけることもできたしそうしたかったけど、桃太の言うとおり一所懸命、光の射すほうへ走った。

 息が上がる。後ろで遮断機が下りる気配がする。おまわりさんがびっくりしたようすで、私を受けとめる。

 振り返る。がたんごとん、と音を立てて電車が踏切を横切っていく。最後尾の車両が通過し終えて、視界がひらける。遮断機が上がるとそこにはもう、桃太も黒服たちもいなかった。まるではじめからそんなものは存在していなかったように、影も形も消えている。

 声のかぎりに桃太の名を呼ぶ。

 それきり、桃太は帰らなかった。

 警察の対応は素早かった。警察署のなかでさほど待たされずに、私はおばあちゃんと引き合わされた。おばあちゃんは私のことをぎゅっと抱きしめてくれた。その温かさは桃太の手のひらの体温とよく似ていて、私はおばあちゃんの車で泣きつかれて眠ってしまったのだった。






 がたんごとん、と電車が通過していく。意識が過去から今に戻ってくる。

 分かりきっていたことだけど、踏切の向こうに桃太はいなかった。

 遮断機が上がるのを見届けて、瀬那くんは私にもたれたまま歩きだそうとする。

 私は立ち止まったまま、動かなかった。


「紗夜?」

「探しに行かなきゃ」

「探しに?」


 瀬那くんは怪訝そうな顔をする。


「レシート」

「レシート? あのごみのこと?」

「ごみじゃない」


 私の怒気に気づいた瀬那くんが、半笑いのまま表情を固まらせる。

 十四年前、警察とおばあちゃんは私の証言を取り合ってくれて、桃太が買ってくれた服は誘拐の証拠品として押収されてしまった。かろうじて残ったのが、こっそり抜き取ったそれらを購入したレシートだった。十年経ってもお守りのように、私はそれを持ち歩いている。


「あと返して。私が立て替えた分のお金」


 私の要求に瀬那くんは苦りきった表情でお金を手渡す。

 私の持ち物をごみと言ってはばからない人と、一秒だって一緒にいる価値はなかった。踏切に背を向けて、ブーツの細いヒールをかつかつ言わせて、ときどきよろめきながら居酒屋に飛ぶように走る。

 走りながら、心に決めた。

 取り戻した分のお金と来月の給料をやりくりして、今度自分にちょっといい靴を買おう。

 居酒屋のドアをひらくと、さっきお会計をしてくれたお姉さんと目が合った。


「すみません。落とし物、ありませんでしたか。ビニール袋に入ったレシートで……」


 肩で息をする私に、ああ、とお姉さんはにっこり笑って奥に引っ込む。

 桃太は永遠に見つからないのをロマンだと言ったけど、私はロマンなんかにしてやらない。あの運び屋がたしかに存在した証を、記憶を、引き連れて生きていく。

 何度ロストしたって、取り返しに行く。それくらい大事なものだったって、いつか桃太に伝えられたらいい。そう思った。

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