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 私はそれから、ときどき自分でドーナツを揚げるようになった。誰かに食べてもらうわけでもなく、自分で納得のいく「これだ」と思うドーナツをつくりたかった。たまに、材料やつくりかたを変えてみたりもした。グラニュー糖ではなく三温糖にしてみたらどうか、このメーカーのバターを使ってみたらどうか、生地を休ませる時間を長くしてみたらどうか。それらの試みはことごとく失敗に終わった。毎回「これじゃない」と思いつつ、できあがるドーナツを一人で食べた。ドーナツを食べているとき、いつも私を優しく導いてくれた母のカサついた手と、指輪が輝く彼女の整った手を思い出した。



 今朝は冬将軍の到来すると、昨夜のニュースでアナウンサーが話していた。毛布にくるまりながらスマホの画面をタップする。思っていたよりも時間が過ぎていて、私はあわてて布団から出る。床がひんやりとしていて一瞬ひるんだが、早く家を出る準備をしなければ。受験前の追い込み時期だから、年末のこの時期は午前中から家庭教師のバイトの予定が入っていた。メイクも服装もそこそこに、コートとマフラーを手にとった。


 外に出ると、地面がうっすらと白んでいる。雪が降っているとは思ってもみなかった私は、自転車を諦めて徒歩で向かうことにした。街はクリスマスのロマンチックな雰囲気から一転、年末年始のあわただしさに満ちていて、車や人々がいつもより多く往来している気がする。遅れるかもしれないとバイト先に一報入れておいたほうがいいだろう。横断歩道で止まり、スマホを鞄からとりだす。きゃあ、と甲高い悲鳴が聞こえたので、反射的にそちらを振り向くと、軽自動車がこちらへ突っ込んでくるのが見えた。 


 あ、ヤバい。


 けたたましいブレーキ音が耳を貫いたと思ったら、からだが強い力に押され、目の前が真っ暗になった。地面に転がっていることだけは頬の冷たさでわかる。人々の声が降ってくるが、何を言っているのかわからない。「ああ、バイト先に連絡しなきゃ」と思っていたら、意識がすうっと遠のいていった。




 目を覚ますと、そこは温かいベッドの中だった。消毒液の匂いがする。視界に白い服を着た女性の背中が見えた。私が身じろぐ布ずれの音で、女性が振り返った。


「上町さん、起きました? わかります? ここ、病院です」


 喉は乾いているけれど、視界もクリアだし、呼吸もできるし、手も握れるし、声も聞こえるし、意味も理解できる。全身が軋むように痛むが、なんとか動く。ただ、右足だけが動かない。からだをよじって足を見ると、大きなギプスが巻かれていた。


「覚えてます? 雪で車がスリップして、上町さんに突っ込んできたんですよ。大きな怪我は足の骨折くらいですんだので、本当に良かったです。ちょっと待っててくださいね」


 看護師が出て行ってからしばらくして、白衣を羽織った中年の男性が入ってきた。主治医だと名乗るやいなや、私に矢継ぎ早に質問したり、からだを動かしてみるように指示したりした。私は言われるがまま答え、痛むからだを可能な限り動かす。主治医はふん、ふん、と一つずつ相槌を打つ。


「上町さん、ひととおり問題なさそうですが、もうすこし検査しておきたいので、二、三日入院しましょう」


 主治医は私が返事をする前に、カルテに何か書き込んでから看護師に指示を出し、風のように去っていった。指示された看護師が私の点滴に触れる。


「上町さん、大家さんからご両親に連絡がいってると思うの。時間的にもうすぐ来られるって話だったから、そのときに入院のお話をしましょうね」


 それだけ言って看護師もカートを押しながら部屋から出ていった。父に連絡が入っていると聞き、胸を撫でおろした。申し訳ないが、父が来たら入院費や大学のことを相談しよう。私はすこし目を瞑り、からだを休めることにした。



 部屋の外からノックが聞こえ、私は眠りから引き戻される。姿を現したのは、先ほどまで話していた看護師だった。


「上町さん、お休みのところすみません。ちょっといいですか?」


 何事かと思い上半身を起こすと、看護師の眉がひそめられていた。


「面会はご家族の方のみにお願いしてるんですけど、名字が上町さんではない方がご家族としていらしゃっているので、念のため確認させていただきたくて」


 看護師は左の手のひらのメモを見て、「ええと、森下祥さんという方なんですけど、ご家族です?」と尋ねてきた。


 私は驚いた。まさか。なんで彼女が? 彼女が来るとは思っておらず、返答につまった。おそらく父は仕事が抜けられず、かわりに彼女に行って様子を見てきてくれないかとでも頼んだのだろう。私の返事を待つ看護師の視線に耐えながら、頭の中でぐるぐると考えを巡らせる。


 彼女は私にとって、家族ではない、これから家族になろうとしているひとだった。隣に並んでも母には見えない。姉にしては年齢が離れすぎている。決して私の母ではない。そして、今後も母にはなりえない彼女。私と彼女のこの距離に、なんという名前をつければいいのだろうか。


「家族、です」


 考えがまとまらない間に、口からこぼれ落ちた。看護師はそれ以上追及するでもなく、そうですか、じゃあお通ししますね、とだけ言って部屋を後にした。しばらくして、扉をノックする音が聞こえた。私はガーゼが貼り付けられた手で前髪だけ整え、「はい」と返事をする。


「綾香ちゃん!」


 返事と同時に部屋に入ってきたのは紛れもなく彼女であったが、いつもの彼女とは違っていた。仕事の途中で抜け出してきたのか、カッターシャツの胸元に「森下」という名札がついたままになっている。後ろでまとめられていたであろう髪は二束ほど肩にこぼれて乱れている。今日は眼鏡姿で、カッターシャツの上には黒のカーディガンを羽織っており、いつも食事をともにしているときよりも何というか、ラフな格好だった。


「大丈夫? 真彦さんから綾香ちゃんが事故に遭って、でも仕事で抜けられないから代わりに行ってくれないかって言われて来たの」


 よほどあわてて来てくれたのか、肩で息をしながら丸椅子に腰かけた。おろおろとした眼はベッドに横たわる私に向けられている。私のほうが心配になるくらい、彼女は動揺していた。


「大丈夫です。まだ検査があるから、何日か入院になるみたいですけど」


 そう、とりあえずはよかった、と大きく息を吐き、彼女は黒のバッグからレースハンカチを取り出し、額を拭う。その手はどこかいつもより年齢を重ねているように見えた。

 こんな寒い雪の降る中、仕事を抜けて汗をかくくらい急いで来てくれたのか。食事会や仕事中のときとは違う、スマートさに欠けた装いの彼女は、まるで私がつくる不恰好なドーナツのように思えた。これじゃない。これじゃないけど、これでもいいのかもしれない。


「今日はもうお休みをもらったの。私に何かできることはある?」


 彼女に頼るのは申し訳ないと思いつつも、入院に必要なものを彼女に持って来てもらうことにした。アパートの部屋の鍵を渡し、パジャマや下着、タオル、洗面用具、スマホの充電器、ティッシュペーパーなど、事細かに収納場所を伝えた。彼女は聞き漏らすまいと、バッグから取り出した手帳にメモしていた。


「あ、あと」


 私は昨日も部屋でドーナツをつくり、余った分を冷蔵庫にしまっていたことを思い出した。うん、なに? と彼女は私の言葉を待っている。


「冷蔵庫にドーナツを入れたままなんです。傷むともったいないので、よければ食べておいてもらえますか?」

「ドーナツね。わかった」


 彼女は手帳に『ドーナツ』と追記した。ひととおり頼み終え、彼女は「いまからアパートで準備をしてくるね」と丸椅子から立ち上がった。私も思ったより疲れているのか、すこし眠りたかった。


「じゃあまた夕方頃になると思うけど、綾香ちゃんはゆっくり休んでいてね」


 コートを羽織る彼女の背中に、「あ、」と声をかけると、彼女は振り返った。私は乾いた唇を一つなめてから、小さくつぶやく。


「ありがとう。さっちゃん」


 彼女は一瞬ハッとした表情になってから、いいの、どういたしまして、と笑った。そのときはじめて、彼女の口元にはえくぼが浮かんでいるのを見た。彼女が退室するのを見届けて、私は目を瞑る。彼女のえくぼは、母とは反対側の頬にあるんだなあ、と思った。


 また退院したら、彼女にドーナツはどんな味がしたか尋ねてみよう。そう思いながら、私はベッドにからだを沈め、眠りについた。




   了

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母のドーナツ 高村 芳 @yo4_taka6ra

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