[7] 濃霧

 霧が立ち込める。乳白色をした、とても濃密な霧。1メートル先でさえ見通すことはできそうにない。吹かない風に空気は滞留し、時が経つにつれ、一層視界はきかなくなってゆく。今はまだ立ち並ぶ街灯の明りをうすぼんやりと見つけることができるが、それが消えるのも時間の問題だといえた。冷たさに固くなったアスファルトが甲高く鳴り響く。間のあるリズムはその歩調のゆるやかさを想像させる。ペインターは急ぐことをしない。と同時に寄り道をすることもしない。まっすぐに迷いなくペインターは歩いてゆくだけだ。


 だが今日という日だけは違っていた。不意にペインターの足取りが停止する。視線は前方に固定されている。霧が立ち込めまるで晴れる気配もないというのに。だが、ペインターが静止して見つめる視線の先で、不意に白い霧は蠢いた。何かが現れてくる? いや、あたりにはペインターを除いて、何の気配も潜んではいない。ではなんだろう? また霧が動いてゆく。そうしてそこにゆっくりとそれは出現した。


 白色をした一匹の獣だった。何の種類の獣であるのか、特定することはできない。それはあらゆる獣でありながら、何の獣でもないものだった。獣という種の抽象的存在とでもいえばいいのだろうか? それが深く息を吐くと一斉にまとわりついていた霧が飛び散った。それでもなおその獣は霧の中に姿を紛れさせていた。当たり前の話なのかもしれない。その獣は霧から生まれでた、霧そのものの存在だったのだから。霧の獣は跳ね上がる。ふんわりとペインターへと襲い掛かった。


 ペインターは止まったままでぴくりとも動かない。視線すら獣の残像へと固定されている。霧の獣はゆっくりとした動作であるとはいえ、すでにペインターの目前にまで迫っていた。大きく口を開くと獣はペインターの右腕を食いちぎった。すれちがって振り向くと、獣はまたペインターへと焦点をあわせる。対するペインターは背を向けたまま、何をするでもなく押し黙っている。獣はその優位を誇るように、わざとらしく音をたて、ペインターの右腕を咀嚼した。白い獣はうっすらと赤みを帯びるようになる。ペインターの血が滲み出したかのように。


 薄く紅に染まった獣は叫び声を上げた。彼らの言葉を知らない人間にもわかるほど、そこには喜びが満ちていた。霧の中からは次々と彼とは似ていて少しだけ違った獣たちが現れる。彼らは円を描くようにペインターを取り囲んだ。はじめに現れた獣がどれであったのかはもうわからない。彼のうっすらとした色彩の変化はすでに全体へと平均化されてしまった。そして全員に紅を加えるには腕一本というのは少なすぎた。ペインターはその中心にいてなお動こうとはしない。


 獣たちは何の合図をすることもなしに、一斉に飛びかかる。霧の獣たちは空中で分裂し、さらにその数を増やす。小さくなった無数の獣はペインターの皮膚の表面を隙間なく埋め尽くした。今度は引きちぎることはしない。そのままに咀嚼を開始する。ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃと小さな音が静かな夜に響き渡る。そこにペインターの絶叫は混じったりはしない。あるいはそれを出す前にもうペインターは死んでしまったのかもしれなかった。獣たちは皮膚を食い破り肉へと至る。それを食べつくしてもまだやめようとはしない。内臓をすすり、骨を砕く。血の一滴も残さない。ペインターが存在したという証は、完全に消去される。獣たちはまた同時に少しずつその個体数を減らしてゆく。互いが互いを取り込みあって、大きな体へと戻ってゆく。最後に二匹の獣が残る。二匹は同時に相手を尾の方から食べ始める。最後にはその二匹のうちのどちらなのだろうか? 真っ赤な獣が一匹残っていた。


 どこかから鐘の音が鳴り響いた。それを合図に遠くのほうでずどんと大きな音が鳴った。同時に地面が震えるのが感じられた。その震源と音とは同じ原因によるものらしく、次第に獣のほうへと近づいてくるようだった。獣は空を見上げる。赤い点が一匹の赤い獣の眼には映った。それは急激に大きくなってゆく。獣は飲み込んでしまおうと口を開けたが、それは到底獣の腹におさまるようなものではなかった。


 非常に巨大な、人間の作った高層ビルほどもある、真っ白な杭が地面へとまっすぐに突き刺さっている。そこには少し前まで獣がいたはずだった。その証拠とでもいうように、白い杭は根元から音もなく色づいてゆく。赤く赤く。一人のペインターは近くまで歩いてきて立ち止まると、赤く染まった杭を見上げた。

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