16

 最寄り駅に帰ると、どういう縁か、ちょうど久下と鉢合わせた。久下も悠一に気がついたのか、一瞬目を逸らしてから、こちらに近づいてきた。

「奇遇ですね。私を犯人に仕立て上げる準備はできましたか?」久下が冷ややかな笑みを浮かべた。「いい加減、私を犯人扱いするのやめたらどうですか。そんなことしている間に、真犯人が次の人を殺すかもしれませんよ」

 悠一は駅のコンビニで購入したカッターナイフの柄を握りしめた。

「今朝、姉さんが遺体で発見された」

 悠一が言うと、久下は表情を固まらせた。目が左右に揺れている。「え……。嘘、ですよね」

「お前が殺したんだろ?」悠一はカッターナイフを掲げた。「お前が、姉さんを……」

 それを見た久下は体を後ろに引いて身構えた。

「先輩、私は犯人じゃありません。落ち着いてください」久下はまっすぐ悠一を見据えてくる。「そんな物騒なものも仕舞ってください。ここは往来ですよ。こんなところ見られたら、犯人逮捕どころじゃ……」

「お前が、犯人だろうが!」悠一は叫んだ。道行く人々が悠一を見て目を丸めた。誰かが悲鳴を上げた。

 しかしその中でも久下は唯一冷静さを欠いていなかった。単調な声音で言う。

「先輩が私を信じられないのは分かります。お姉さんが亡くなって苦しいのも理解できます。でも、これは間違ってますよ。やめてください」

 久下が一歩近づいてきた。悠一は圧されるようにして一歩退いた。

「信じられないなら、今から私の家に来て下さい。私が犯人ではない証拠を見せます。殺すのはそれからでも遅くはないでしょう?」

 久下はそう言いおいて身を翻すと、こちらに目もくれず歩いて行った。

 背中ががら空きだ。悠一は迷ったが、結局ついて行くことに決めた。たとえ久下が連続殺人鬼だとしても、男女の力量差を考えれば負けることもない。

 悠一はカッターナイフを仕舞って、その後ろに続いた。久下は一度もこちらを振り返らなかった。

 家につくと、久下はようやくこちらを向いた。悠一は少し距離を取って身構えた。

「鍵開けたいので、鞄から出してもらえますか?」久下がリュックサックをこちらに差し出した。「そっちの方が安心でしょう?」

 久下なりの誠意なのだろうか。悠一はリュックサックを受け取ると、小物入れから鍵を取りだした。それを久下に投げ渡す。

 久下は落ち着いた動作で解錠すると、先に部屋に入った。悠一もすぐ後に続く。カッターナイフを手に取った。

「ベッドでもクローゼットでも、好きに調べてもらっていいです」久下は電気を付けると、部屋の隅に立った。「私はここにいますから」

 悠一は久下に気を配りながら、部屋を見回した。一見、変わった物はなかった。むしろ物が少なすぎるくらいだ。彩りに乏しく、生活に必要なものだけが最低限揃えられているといった感じの部屋だった。

 手始めに悠一は、抽斗とクローゼットを確かめた。久下は口を閉ざして、悠一の動きをただ見ていた。

 抽斗にめぼしい物は入っておらず、クローゼットにも服が何着かぶら下がっているだけで、どれも変哲はなかった。

 悠一は僅かに焦りを覚えながら、部屋のあちこちを探し回った。

 枕をひっくり返し、シーツを引き剥がし、椅子や机の裏まで隈なく調べた。風呂場や玄関、果てはトイレのロータンクの中まで覗いたが、何も出てこなかった。

 探す場所がなくなり、途方に暮れる悠一に、久下は一つ溜め息をついた。

「なにか、証拠は見つかりましたか?」

 悠一は答えられなかった。久下が犯人のはずなのに、それを裏付ける物的証拠は一つも見つからない。被害者達から奪った遺品があると踏んでいたのに。

 悠一はそれからもう一巡同じところを探したが、やはり何も出てこなかった。壁や天井まで調べてもやはりなにもない。久下のリュックサックもひっくり返して中身を検めたが、教科書と例の分厚いノート以外は出てこなかった。悠一は頭を抱えた。

「これで信じてもらえますかね」

 久下はノートを手に取ると、ややうんざりした顔をした。悠一が部屋に来てから二時間が経過していた。

「だから言ったでしょう。私は犯人じゃないんですって」久下は唇を尖らせた。「そこまで疑われていたなんて、流石にちょっと傷つきます……」

 もう片付けますよ。久下がそう言って動こうとするのを、悠一はカッターナイフで制した。久下は動きを止めて、こちらを向いた。

「どこに隠したんだよ」

「……は?」久下は片眉を上げた。

「証拠品、昨日のうちに全て破棄することくらいできただろ。姉さんを殺して、そのあとにここに戻ってこれば……」

「まだそんなこと言ってるんですか。私は……」

「じゃあそのノートは何なんだよ」悠一は久下の手にある分厚いノートを指さした。「どうしてお前がそんなこと調べる必要がある。お前が犯人だからじゃないのか」

 久下はノートを隠すように抱きかかえると、「それは……」と口ごもった。

「先輩の役に立ちたかったんです」久下はそっぽを向いた。「先輩が捜査に協力してること、本当は最初から気づいていたんです。だから、力になれたらと」

 それを聞いても、悠一の気持ちは揺らがなかった。ただ白々しい演技だと思った。悠一は近づいて彼女の腕を掴んだ。久下がこちらを向いた。

「なら、俺のために死んでくれよ」

 悠一はその腕を引っ張って、久下を仰向けに押し倒すと馬乗りになった。首に手を掛け、逆手に持ったカッターナイフを振りかぶる。

 だが、そこで悠一は動きを止めた。とても振り下ろせなかった。

 久下が微笑んでいたからだ。彼女は悠一の顔をまっすぐに見据え、慈愛を滲ませた笑みを浮かべている。状況に不適切な表情は不遜ですらあった。その口がほころんで、言葉を紡ぐ。

「私、いいですよ。先輩になら」久下がこちらに手を伸ばしてきた。悠一は背筋に悪寒が走るのを感じた。「殺してください」

 その手が頬に触れた瞬間、悠一は久下を投げ出すようにして飛び退いた。こめかみに汗が滲むのを感じる。手からこぼれ落ちたカッターナイフが、フローリングに当たって固い音を立てた。

「やめちゃうんですか? 残念です」

 久下は唇を吊り上げ、揶揄うように肩をすくめた。だがすぐに真剣な表情になると、悄然とした悠一に近づいてきた。

「先輩、思った以上に追い詰められているんですね……」カッターナイフの刃を仕舞いながら久下が言う。「もしよかったら私が推理しょうか? きっと犯人を特定できますよ」

 悠一はその言葉に顔を上げた。「犯人を……?」

「ええ。お姉さんやかがりさんを殺した犯人をです」

「そんなことが」悠一は唾を飲み込んだ。「そんなことが、できるのか」

「できます」久下は言下に頷いた。「先輩が四件目と五件目の事件を話してくれれば、すぐにでも」

 久下は自信満々に笑って、悠一の膝に手を置いた。そのまま顔を近づけて瞳を覗き込んでくる。囁くような声で彼女は言った。

「どうしますか?」その言葉は甘言のようにも福音のようにも聞こえた。

 悠一は一瞬だけ悩み、次の瞬間には全ての事件の概要を語って聞かせていた。

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