心さえなかったなら

冬場蚕〈とうば かいこ〉

心さえなかったなら

 歌うのが好きな少女は、喉をからしてしまいました。

 彼女にとって歌とは生きる意味でした。

 それを失ってしまった彼女は、生きていることに絶望しました。

 もう楽にしてほしいと何度も思いました。しかしそれを伝える声がありませんでした。だからただ泣くしかありませんでした。

 声の次は涙をからしてしまいました。どれだけ悲しくても、もう泣くこともできません。このまますべてをなくして、消えてしまいたいと何度も思いました。

 そんなある日、一人の少年に出会いました。

彼は高そうな服を着ていて、それに整った顔立ちをしていました。見るからに恵まれた人間だと少女は思いました。

 しかし違いました。

 少年はどうやら耳が聞こえないらしいのです。そして話すこともできないので、常に紙とペンを持ち歩いていました。

 少女に初めての友達ができました。

 少年はいつもきれいな字で話しかけてくれました。少女は嬉しくて、自分もきれいな字を書こうと、たくさん練習しました。

 少年との会話を続けるうち、声が出なくなったことが、どうでもいいことのように思えました。

 少年と友達になってから、数ヶ月が経ったある日。会って欲しい人がいると少年に頼まれました。

『どんな人?』

 以前よりずっときれいになった文字で聞くと、少年は顔を赤くしました。

『いけば分かるよ』

 少年はそれ以上なにも教えてはくれませんでした。

 少年に連れてこられたのは大きな病院でした。少年は緊張しながら病院に入り、ある病室の前で立ち止まりました。

 少年が扉をノックすると、向こうからかわいらしい女の子の声が聞こえてきました。

「どなた?」

 少年は恥ずかしそうに、もう一度ノックしてから、扉を開けました。

 そこにはベッドに座った女の子がいました。少女より身長が低くて、かわいらしい大きな目が輝いていました。でもそれ以上に女の子には目立つものがありました。いえ、ありませんでした。女の子は腕が二本ともなかったのです。

「ああ、この前来てくれた人でしょ?」

 女の子が少年に言いました。少年はなにも答えず、ぽかんとした顔で立っています。そうです。少年は耳が聞こえないのです。

 少年は少女の肩を叩くと、一枚の紙を見せました。

『あの子の言葉を書いて』

 いつもより字が乱れていました。

 そこでようやく少女は自分がここに連れてこられた理由が分かりました。

 少年が望んでいるのは、女の子との会話だったのです。でも、女の子には手がありません。そして、少年は耳が聞こえません。この二つを上手にくっつけられるのは少女だけでした。

 少女は少し悩んで、でもすぐに受け入れました。少年が女の子のことを好きなのが分かったからです。自分の感情は無視しました。

 そこから三人はたまに集まって、会話をするようになりました。大体は女の子が話してばかりいました。少年は聞こえていないはずなのに、女の子が笑うだけで嬉しそうな顔をしました。そして少女が書いた女の子の言葉を見ると、また微笑むのです。

 少女は彼の表情をみるたび苦しい思いをしました。こんな関係すぐにでもやめてしまいたいと思いました。でもやめることはできませんでした。女の子とも仲良くなってしまったからです。女の子は少女が喋れないのを馬鹿にしたりしません。少女の字を見ると、「字が綺麗ね」と褒めてくれます。それなのにどうして友達をやめられるでしょう。

 それに病院から帰るとき、少年は『ありがとう』といつも通りきれいな文字をくれます。それで充分な気がするのです。少女もその瞬間だけは心から笑って『どういたしまして』と言葉を返すことができます。だから、自分の感情は無視するのです。

 女の子と出会って半年が経ったころ、少年は一人で病院に行くと言い出しました。

『どうして?』

 少女が聞くと、少年は恥ずかしそうな顔をして、紙を見せてくれました。

『告白しにいく』

 少女は息が苦しくなるのを感じました。なにも言えませんでした。少年がまた一枚紙を見せてきました。

『応援してくれる?』

 その紙を破ってしまいたい気持ちでいっぱいでした。でもそんなことできるはずもありません。

 少女は唇をぐいっと持ち上げて笑って、いつの通り自分の感情を無視して、『応援してる、頑張ってね』と書きました。いつも通りきれいな文字を心がけましたが、どうしても手が震えてしまいました。

 少年はその紙を受け取ると、顔を赤くしたまま笑って、病院の方へ走って行きました。

 少女は近くのベンチに腰掛けて、長く息を吐き出しました。

 上を見上げると、ちょうど窓から女の子の病室が見えました。少年が女の子に紙を渡しました。女の子は嬉しそうに笑っています。少年が女の子を抱きしめました。

 その先を見たくなくて、少女は下を向きました。

 泣きたいのに、とうの昔にかれた涙が出てくれることはありませんでした。

 無視し続けてもなくならなかった感情だけが、しつこく少女の心を苛みました。

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