病に至る恋(仮題:Hello, I'm Victim)

冬場蚕〈とうば かいこ〉

病に至る恋

 猥雑な喧噪に埋もれた居酒屋の座敷で中学の同窓会は行われていた。座は緊張感と好奇心とで満たされており、誰もが顔に笑みを貼り付け、忙しなく酒を口に運んでいる。

 僕は座卓の端に坐り、当たり障りのない話に花を咲かしているクラスメイトを順に見ていた。みんな変わってしまっていて、中には十年前の面影すら残っておらず、一目見ただけでは誰か分からない顔もあった。

 だが、彼女が来ていないことだけは確かだった。もしもここに彼女がいるとすれば、どれだけ変わっていようと、すぐに見分けられる自信があった。

「久しぶりだな、片山かたやま

 その声に視線を戻すと、中学時代一番仲の良かった伊神いがみが僕の隣にどかりと腰を下ろし、両手に持ったグラスの片方を差し出した。

「って言ってもお前はあんまり変わらないな」

「伊神こそ」

 僕らは互いのグラスを打ち付け、雑談に興じた。話すことは他愛のないことばかりだったが、左手の薬指に指輪が嵌まっているのを見る限り、彼の人生は順調なようだった。

「最近は全然いいこともないな。会社でもめんどうな仕事ばっかり振られるんだ」

 そう言ったとき、伊神は鼻を擦っていたから多分嘘なのだろう。彼は嘘をつくとき鼻を擦る癖がある。きっとあまりパッとしない僕に気を遣ってくれたのだ。

 僕は伊神の楽しげな仕事の愚痴に相槌を打ちながら、古傷を撫でるような慎重さで十年前の彼女を思い返していた。


 中学二年の夏。折川おりかわ小春こはるから科学準備室に呼び出されたとき、何の期待もなかったと言えば嘘になる。科学準備室は全くといっていいほど人気のない、旧校舎にある一室だった。加えて、彼女には良くない噂がいくつも取り巻いていたし、それを信じさせるだけの女としての魅力が齢十四の肉体にはすでに備わっていた。

 だが、この目で見るまでは半信半疑だった。

 科学準備室の重たい扉を開けたとき、真っ先に飛び込んできたのは、痩せぎすな折川の背の乳白色だった。電気のついていない部屋の中、そこにだけぼんやりとした明かりが灯っているような錯覚に襲われた。浮かんだ玉汗の一つ一つが宝石と等しい輝度を持っているようだった。

 噂は本当だったのだ。衝撃を受けていると、折川の目がこちらを向いた。

「ああ、来てくれたんだ」

 彼女は跨がっていた男からどくと、四つん這いになって近づいてきた。

「それだったら片山くんにもしてあげないとね」

 室内には暗がりに溶け込むような人影がいくつもあった。誰かは分からなかったが、彼らが僕のことを注視しているのだけは分かった。室内を満たす息づかいと汗の臭いで、頭の奥がじんと痺れた。

「おいで、口でしてあげる」

 薄闇の中から伸びてくる細い指は、僕のベルトを目指している。折川が腕を伸ばすのに合わせて、彼女の乳房が露わになった。心臓が早鐘を打ち、下半身に溶岩のような血が溜まっていくのを感じた。

「大丈夫。噛みついたりしないから」

 しかし、クスと笑った彼女と目が合った途端、僕は今にもベルトにかかろうとしていた彼女の指を振り払い、来た道を引き返していた。

 背後からは狂ったような男達の笑い声が聞こえてきた。だがそれを恥ずかしいとは思わなかった。下半身に溜まった溶岩は急速に引いていき、足下から冷えつくような薄ら寒さが忍び寄ってきた。

 保健室の前を通ったとき『避妊や性病防止のためコンドームを付けましょう』とポスターに大書されているのが目に入った。

 翌日。いつも通りの時間に学校へ行くと、校門の前に折川小春の姿があった。

 彼女は僕を見つけると、あの頼りないほど細く、それでいて何かを蝕むのには充分な指を動かした。手を振ったのだと気づくのにしばしかかった。

「昨日はごめんね」

 折川は困ったように笑って、

「片山くん、勘がいいんだ。もう誘わないから安心してよ」

 それだけ言うと身を翻し、校舎の方へ足を向けた。

 僕はその背中に昨日の白さを垣間見て、「あのさ」と声をかけた。無視されても構わないと思ったが、彼女は目だけでこちらを向いた。

「なにかな?」

「誰にも言わないから、昨日の、その……」

 その先を声に出しづらく口ごもっていると、折川は突然踵を返し、抱きついてきた。咄嗟に身を離そうとするが、上背のある彼女はそれを容易く押さえ込み、

「優しいね」

 耳元で囁いた。

「大丈夫。このくらいの接触なら感染うつることはないから。……残念なことにね」

 ほどなく僕は解放され、折川はそれ以上何もしてこなかった。それどころか、その日以降話しかけてくることもなく、僕らは何の接触もないまま中学を卒業した。高校二年生の春に一度だけ折川の姿を見かけたことがあったが、サラリーマンと腕を組みホテル街を歩いていたので声はかけなかった。

 彼女は確かに噛みついてこなかった。だがあのとき僕のベルトに伸ばした震える指や、彼女の薄い背の乳白色、耳朶を打った優しい声は、今もなおくっきりと僕の心に歯形を残している。


「来なかったな、折川のやつ。まあ予想通りではあったけど……」

 煙草を吸うため外に出てきたところで、伊神が独り言のように呟いた。僕は耳を疑った。

「折川って……」

「あれ、片山は知らない? 折川小春。結構いろんな噂が立ってた子なんだけど」

「……そんなに詳しくはない」

 もし知っていると言えば、自分の気持ちが見透かされそうだった。

「そっか。いや、まあつまらない噂だよ。折川が裏でウリをやってるとか、見境なく男を食っちまうとか、そういうくだらないやつ」

 伊神は投げ捨てるように言って煙草に火を付けた。溜息と共に紫煙を吐き出し、

「でも……そっか、そうだよな。来ないよな……」

「伊神はその折川って子、好きだったの?」

「ないよ。一回だけお呼ばれされたこともあるけど……ちゃんと、断ったし」

 伊神は鼻を擦った。

 僕は知っている。彼には嘘をつくとき、鼻を擦る癖があることを。

「でも、噂が本当なら、なんでそんなことしてたんだろうな。中学生なのに経験人数が三桁いってたとかって噂だぜ」

 僕は知っている。彼女には殺意があり、無差別であったことを。

「母親も早くに死んで、色々辛かったのかもな……」

 僕は知っている。折川の病気は母親からの遺伝で感染うつったことを。

「噂は噂だろ。そういうのには尾ひれがつくもんだよ」

 僕は知っている。もうじき三桁程度の人間が折川と同じ病気で苦しむことを。

「それもそうだな。……あ、そうだ、それより聞いてくれよ。俺、最近結婚してさ――」

 僕は知っている。幸せそうに笑う伊神もそのうちの一人に過ぎないことを。

「しかも、嫁さんいま妊娠してんの。もうすぐ五ヶ月。俺がパパになるんだぜ」

 ……そして、あと半年後に生まれてくる伊神の子どもも、折川と同じ病気に罹っていることを僕は知っている。

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病に至る恋(仮題:Hello, I'm Victim) 冬場蚕〈とうば かいこ〉 @Toba-kaiko

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