三 綱様 -1-

「それでは、お気をつけて」

 翌日の港。快晴に恵まれ、波も勾島にしては穏やかで、港につけられた船の揺れも少ない。荷物はすでに船に運び込まれていて、出港の準備が整った。

 俺は、今まさに船に乗り込もうとしている後藤を見送っていた。

「浅野さんも……」

 後藤はさらになにか言葉を続けようとしたが、開いた口からまとまった言葉が出てくることはなかった。ただ俺に向かって手を伸ばしてきたので、握手で応える。

「家に帰り着いたら、ぜひ瀬戸さんのところにお電話ください」

 握手をした手に反対側の手も重ねて俺が言うと、後藤はただ頷く。

 隣に瀬戸がやってきた。

「立川さんから、後藤さんは船酔いしやすいようだとお聞きしておりました。こちらよく効く酔い止めの薬ですので、よろしければお飲みください」

 そう言いながら、瀬戸は一粒の錠剤とペットボトルに入った水を後藤に手渡す。

「お気遣いいただきまして、ありがとうございます。瀬戸さん、お世話になりました」

 後藤は瀬戸へも別れの言葉を述べ、受け取った酔い止めの薬を口に含むと、水で飲み下す。そのあとは立川に手を引かれて乗船していった。

 港には俺と瀬戸のほか、宮松と子どもたち三人も見送りにきている。夏久が走って船を係留していたロープを外すと、立川と後藤を乗せた船はみるみる遠ざかっていく。

 俺は大きく手を振っていたが、船上の人影が認識できないほどの小ささになると、手を下ろして息を漏らした。周囲を見れば島民ばかり。ここにきたときは四人だったというのに、島外から来た人間は、あっという間に自分だけになってしまった。

「浅野さん、今日はどうされます? もう社務所に戻りますか」

 同じように後藤を見送っていた冬夜が、そばにやってきて問う。

「診療所に行こうと思う。たしか、村役場のすぐそばだったよな」

「はい、そうですが……どこか具合が悪いのですか?」

 ひどく心配そうな表情を向けられ、慌てて首を横に振る。

「そういうわけではないよ。ただ、診療所の川中先生にお聞きしたいことと、調べてほしいことがあってね」

「体調を崩されているわけではないのでしたら、よかった。では村役場まで車で送ってもらって、そこからは歩いて行きましょう」

「さすがに村役場のあたりから、社務所までの道は覚えたし、他のところに行く予定もないから、冬夜くんがつき合わなくても良いのだよ」

 面倒だろうと俺が言うと、冬夜は少しはにかむような表情を浮かべる。

「いえ、ご迷惑でないのなら、僕がご一緒したいんです。浅野さんといると、楽しいから」

 潜入捜査をしているから余計なことは話せない、ということをさておいても、俺は元来多弁なほうではない。話したとしても、特段面白いことは言っていないはずだ。一緒にいて楽しいことはないだろうが、冬夜に無理をしている様子はなかった。

「そうか、ならば構わないが……」

 妙な気恥ずかしさのようなものを感じて、俺は、ごまかすように青く抜けるような空を見上げる。

 と、そのとき。聞き覚えのある歌声が聞こえた。

「願いませ、願いませ、ねっこさま、枯れたる砂を、秋や、沢さらさらり」

 その独特の節回しに、嫌な記憶が思い出される。声のほうを見ると、船が行った海を見つめ、千秋が歌っていた。歌い方は小さく、皆に聞かせるというよりも、あくまで自然と口づさんでいる感じだ。彼の声は高く澄んだボーイソプラノで、歌声になるといっそう美しさを増す。しかし、いかんせんその歌へついた印象が悪すぎる。

 人が気持ちよく歌っている歌にケチをつけることに少しばかり躊躇はしたものの、俺は続く歌声に我慢ならなくなった。

「千秋くん、すまない。その歌にあまり良い思い出がなくて。歌うのをやめてもらっても良いだろうか」

 千秋はハッとしたように俺を見て、自分の口元を、手で軽く抑えるような仕草をする。

「すみません、そうですよね。この歌、根っこ様にささげるお祈りだったり、祝福だったり、本来はとても縁起の良い歌なんです。それで、後藤さんの船旅の無事を思っていたら、自然と歌ってしまっていて」

「聞いておわかりいただけたと思いますが、千秋は歌がうまくてね。お祭りのときも、この根っこ様の歌を歌うのは、いつも千秋のお役目なんですよ。それで慣れているもんで、口をついて出たのでしょう。どうか許してやってください」

 千秋に続けて、様子を見ていた宮松が、補足するように説明をする。

「ああ……そうだったのですか。許すもなにも、俺の認識がおかしかったのだと思います。余計なことを言いました」

「いえ……浅野さんがこの歌に、嫌な思い出を持ってしまうのは当然のことです。僕の配慮が足りませんでした」

 千秋は申し訳なさそうに眉を下げる。そんな素直な彼の様子に、俺はやはり口を挟むべきではなかったと一人反省をしていた。

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