二 幻覚 -2-

 もし、と思う。俺が仮にMADと同じ幻覚作用のある成分を摂取してしまった、あるいは摂取させられたとするならば、それはどのタイミングであっただろうか。色々と思い返してみると、幻覚を見ているのは俺だけではない。春樹が死んだ夜の後藤の奇行。健も畑で何かを見ていた。先日まで引きこもっていた家茂も、明らかに尋常ではない様子だった。俺たち調査隊が、まとめて幻覚作用のある成分を摂取したなら。

 そう考えを巡らせて、この島にきてはじめて嗅いだ独特な甘い香りをふと思い出した。島に来た翌日、ご祈祷のときに本殿に充満していたお香の匂い。同様の匂いが、春樹の葬儀のときもしていた。もしその煙に幻覚作用のある成分が含まれていたら、お香の元になる植物が、MADの原料なのではないか。

 そこまで考えが至ったとき、部屋の木戸がノックされた。ここ数日、敷きっぱなしにしてしまっている布団の上に座り込んでいた俺は、外していた眼鏡をかけてから、立ち上がって木戸を開けに行く。

 廊下には冬夜が立っていた。

「浅野さん、もしよろしかったら、また僕の部屋でトランプをやりませんか。みなさんには、これからお声がけするのですが」

 いつもどおりの素直な笑顔と子どもらしい言葉に、体にこもっていた、余計な力が抜けていくのを感じる。冬夜の纏う透明感のある優しい雰囲気は、近くにいる者を穏やかな心地にしてくれる。

「ああ、もちろん参加させてもらう。ただ、その前にひとつ聞いてもいいかな」

 頷く冬夜を見て、彼をそのまま自分の部屋へと招いた。大きな音を立てないように木戸を閉じて、冬夜を見る。

「俺たちがこの島に来た次の日に、ご祈祷があっただろう。あのとき本殿で焚かれていたお香は、どのような種類のものかわかるかな? なにからできているか、とか」

「どうしてそのようなことを?」

「とても良い匂いだったから、気になってね」

 成り行きで褒めると、冬夜は嬉しそうにふふっと笑った。

「あれはお香ではありません。海から流れ着く、枯れたお花を天日干しにして、燃やしたものなんです。花の香りに、僅かに潮の香りが混ざっているように感じられて、まるで勾島そのものの香りがするようですよね」

「海から流れ着く花?」

「はい。僕たちは、根っこ様から贈られた花と書いて『根贈花こんぞうか』とか、『根贈』と呼んでいます」

「それは島のどこかに自生する花ではないのか?」

「流れ着くのですから、もしかしたらどこかに生えているのかもしれませんが、少なくとも僕は、いままで生えているのを見たことはないですね」

 彼の返答を聞き、もしやと思う。冬夜や瀬戸などのそのほか多くの島民は根贈を伝統的に使っているだけで、幻覚作用があることを知らないのではないだろうか。根贈の成分を昔から日常的に摂取しているおかげで島民は一定の耐性があり、外からきた調査隊だけが、強く影響を受けてしまっている可能性がある。MADが本州で一定数存在するということは、島民の誰かが根贈に麻薬成分が含まれていることを知り、秘密裏にその生育地を発見するか、栽培するかしているのではないか。

「根贈を一つ、譲ってもらうことはできないだろうか」

 問うと、冬夜の表情が曇った。

「根贈はその性質上、意図して集めることのできるものではありませんから、大変貴重なものなのです。だから、特に重要な場面でしか使用しません。それに、僕たちにとってはとても神聖なものですから、島外の方にお譲りするというのは厳しいかと……父に聞いてみることはできますが、おそらく同じ返答になると思います」

「では、一目見せてもらうことだけでも叶わないだろうか」

 めげることなく再度問いを重ねると、それくらいならばと、冬夜が瀬戸に掛け合ってくれることになった。社務所の自室にいた瀬戸に声をかけ、事情を説明すると、瀬戸はかなり渋々といった様子で許可をしてくれた。

 

 俺と冬夜は、根贈が保管されているという本殿へ、瀬戸に連れられて共に向かうことになった。写真撮影だけはできるようにと、私物のコンパクトデジタルカメラをポケットに入れて持っていく。

「外は未だに雨と風が強いですから、こちらをどうぞ。すぐに壊れてしまうので、島ではほとんど傘はさしません」

 瀬戸に差し出されたのは、脛のあたりまで覆えるほどの、しっかりとした半透明の白いレインコートだ。俺がレインコートを着たのは小学生以来だが、瀬戸と冬夜は慣れた様子だった。瀬戸のあとに続いて社務所から出ると、全身に横殴りの雨が降りかかってきた。レインコートに当たる雨粒の大きさを体感する。風も強く、ぼうっと立っていると、体が持っていかれそうだ。周囲に生えている木々が、横倒しになりそうなほどに撓んでいる。走ることなく一歩一歩敷地内の砂利を踏み締めて歩き、本殿へ回り込む。

 その道中、大穴に続く鳥居へ視線を向け、俺は瞠目した。雨で曇った眼鏡のレンズ越しに見えたのは、白い人影だった。はじめはまた、いつもの幻覚かと思った。しかし、その白い人影は天へ向かって縦に伸びていく。俺は慌てて、邪魔にしかなっていない眼鏡を外した。強くけぶる雨の向こうに、なお見えているもの。

 それは、人影というよりも異形と形容したほうがよいものだった。全体の印象としては、人に似ていた。しかし、伸びた大きさはそばに立つ鳥居を軽く超えている。俯いている姿勢をとっているように見えるが、そもそも顔がどこにあるのかはわからない。人間であれば顔にあたる位置からも、枝のような細長いものが複数、上に向かって伸びている。それは、春樹の死に姿を彷彿とさせた。

 伸びた胴体からは、だらりと垂れた人間の腕らしきものが百足のように幾本も生えている。全身を覆う肌の質感は人間に似ている印象だが、不気味なほどに白い。正しく形容しようとすれば、ジュゴンかなにかの、海に棲む生き物の皮膚に似ている。

 そうして雨の向こうに目を凝らして足を止めていた俺は、不意に腕を掴まれて心臓を跳ねさせた。腕を掴む手の主は、俯いた冬夜だった。

「冬夜くん?」

 雨と風の音にかき消されない声量で呼びかけても、冬夜は俯いたままだ。予想以上に強い力で引っ張られ、彼に促されるまま本殿へと向かう。本殿の扉をくぐる前に、再度鳥居の向こうを見たが、その異形の幻覚は消えることなく、扉を閉めるまで、ずっとそこに見えていた。

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