白夜に一番近い夜

南沼

***

 ヨルン・カーシネンはまだ22歳の若さだったが、生まれ故郷であるナウチの村を前にして、ここが自分の死地になるのだと思った。

 1940年3月13日、フィンランド北部のナウチはソビエト連邦軍の狙撃兵連隊が占領していて、他方のヨルンはたったのひとりでろくな装備も持たず、村の広場を見下ろすなだらかな丘の上で腹這いになっていた。時刻はまだ5時を過ぎたばかり、春を迎える前の北極圏において夜明けはまだ遠く、例年になく厚く積もる雪を月明かりが静かに照らしている。後に冬戦争と呼ばれることになる、昨年暮れからのこの戦争で、この多雪が大いにフィンランドを利したのは誰の目にも明らかだ。だが、それでもナウチを守り通すことが、祖国にはできなかった。

 ああ、きっとぼくはここで死ぬ。ここから見下ろす広場の、あの半ばあたりで。

 白い外套のフードから覗く鳶色の巻き毛が、穏やかな氷点下の風に舞った。


 ヨルンの父は昔ながらの寡黙で不器用な男だった。ずんぐりとした体型で上背も高く、握りこんだ拳は巌のように大きくて前腕にも谷のように深い筋目が出来たものだから、村の皆はいつも「羆を殺すのに銃なんかいらないんじゃないか」と笑っていた。そう言われた父は決まって伸ばした髭の奥で唇を少し歪めて微笑むばかりだったが、幼いころのヨルンは父が本当に羆を殴り倒す場面を何度も想像したものだった。しかしその印象を裏切るように父は優秀な猟師だったし、ヨルンも2つ上の兄アンテリもその血を確かに引いていた。アンテリがわずか12歳にしてヘラジカを一人で仕留めた日のことを、ヨルンは今でも忘れない。アンテリとヨルンそのままの顔が年月を経たようにしか見えない痩せっぽちの母は涙声で兄を祝福し、父も目じりに深い皺を寄せた。ヨルンもわずかに遅れて兄に続き、その日のカーシネン家はちょっとしたお祭り騒ぎになったものだった。何せ、燐家のリトヴァやその弟までが塩漬けのトナカイ肉や蜂蜜酒を持って集ったのだ。

 リトヴァといえば、物心つく前から彼女とは浅からぬ仲だった。思春期を迎えるころは兄と競い合って彼女からどれだけ多くの好意を寄せられるか競うような形になり、それは聊か険悪な空気を兄弟の間にもたらしたものだったが、結局のところ美しい蜂蜜色の髪を持つ娘はヨルンを選び、それは「そうあるもの」としてごく自然に彼ら2人の間だけでなく家族間、ひいては村の住民たちの間で共有された。こっそりと納屋で彼女と交わすスキンシップは極めて自然な形でリトヴァの妊娠という帰結に繋がったが、手土産と一緒に報告に行ったヨルンを、リトヴァの父ですらが鷹揚に迎えた。というのも、その頃にはヨルンはいっぱしの猟師となんら遜色ない成果を一人で上げられる、立派な若者に成長していたからだ。

 村の小さな教会で祝福を授けてくれたのは禿頭の中年司祭で、彼はその半年あまり後、子供が生まれた時も洗礼を施してくれた。

 難産だったが、母子ともに無事だった。男手は役立たずと追い払われて、父親と共にまんじりともせず居間で過ごした。ようやく寝室に入っていいといわれ、そこで初めて自分の息子と対面した。

 柔らかな布にくるまれ、力いっぱいに泣くばかりの、頭髪のほとんどない皺だらけな小さい生き物。これが本当に自分の子供なのか。何の実感も沸いていなかった。正直なところ、ある種の煩わしさや不気味さすら感じていたほどだ。

「トニ」

 生まれてくれるのが男なら、とリトヴァとふたりして考えた名前を呟いた。

 その名が耳に届いたということはあるまいが、トニはまるでそれに応えるようにとくしゃみをした。

 とたん、ヨルンの胸に何かが溢れた。

 1年前のちょうど、今頃のことだ。


 フィンランドの男には兵役の義務が課される。それは勿論、最北端に近い辺境の地に住むカーシネン家とて例外ではなかった。先に徴兵期間を終えたアンテリと入れ替わるようにして、ヨルンもまた兵役に就いた。

 馬車でケミヤルヴィまで出て、そこからは汽車に乗った。窓の外に流れる、一年のほんの短い時期だけ森を彩る白樺の美しい紅葉ルスカを、黙って眺めていた。

 考えていたのは勿論、置いてきた妻と息子のことだった。なにぶん初めての育児で自分もリトヴァも分からないことだらけだったが、母屋に住む父と母は十分に手助けをしてくれて、今はようやく腰が据わろうという頃合いだった。それにしてもよく泣き、よく乳を飲む子だった。そのくせげっぷは下手くそで、乳をたらふく飲んだ後背中をいくら叩いてもただ泣くばかりなものだから、生後4か月頃、首が据わるまではヨルンもリトヴァも寝不足でぴりぴりとしていたものだ。

 しかし夏を迎える頃には徐々に良い方向へと向かった。つるりとした身一つで現世に放り出され右も左もわからず戸惑っているばかりだったトニはどうやら少しだけ生きるということに慣れてきたようで、ヨルンとリトヴァもそれを手助けする勘所を心得てきた頃合いだった。ちょうどそのころに、ナウチは白夜を迎えたのだ。

 ナウチがあるペッツアモ地方の夏は短いが、それだけに住人はみなその季節を心待ちにしていた。厳冬がはるか遠くに思えるほど暖かく、作物がすくすくと育って野生の果実を至る所でもぐことが出来、時間とは楽しむものであることをひしひしと実感できるあの時節。トニは少しずつ笑顔を見せるようになり、ヨルンら夫婦は湖まで馬車で出かけてはピクニックや日光浴を楽しんだ。冬季に星月とオーロラが照らすだけの空は日がな平和な水色か、精々少しばかり赤みがかる程度で、時折湖畔に水を飲みに来るトナカイたちもこの麗らかな時間を寿いでいるように見えた。ヨルンは前日もいだばかりのベリーで作ったパイを口いっぱいに頬張りつつ、トニの頭にほわほわと薄く生える巻き毛を指で弄びながら、今がぼくの人生の中で最も天国に近い瞬間だと心の底から実感していた。

 何の根拠もないその直感は、あるいは正しかったと言うべきかもしれない。その後のヨルンの人生が、谷に向けて落ちていく一方であるという意味合いにおいては。


 オウルにある基地での訓練は、ヨルンにとって予想していたほど厳しいものではなかった。確かに規律は厳しかったし銃剣の取り付けをはじめ初めて経験することも多かったが、射撃の訓練などは、ナウチの森で飽きるほど繰り返した冬季の狩りに比べれば幾分生易しかったほどだ。訓練では故郷で使っていたのと同じモシンナガン銃が割り当てられ、それはヨルンの手に吸い付くように馴染んだ。アンテリのやつめ、変に脅かしやがって、とヨルンは思わないでもなかったが、冬を迎えればまた別種の厳しさに見舞われるだろうという思いもあった。同じ年、ヨルンが徴兵される少し前にはドイツとソビエト連邦がポーランド侵攻を開始して、周辺国家を交えた軍事外交ではにわかに緊張の高まる時期にあり、ラジオなどでも窺い知ることは出来たものの、ヨルンにとってまだそれは身に迫る危機感を覚える程のものではなかった。

 この時期、ヨルンが家族に向けてしたためた手紙の文面にはこうある。

『(前略)トニは元気にしていますか。それに愛するリトヴァに、父さんに母さん、アンテリも。ぼくは元気いっぱいです。訓練基地にはサウナなどなく、毎日朝は早いし教官は冗談のひとつも言いませんが、オウルはナウチよりずっと都会で過ごしやすいし、同期は皆愉快で気さくなやつらばかりです。いつかあいつらを故郷に招待して、母さんの焼いたジンジャークッキーピパルカックを味わってもらえたらと思います』

 しかし、その願いはついぞ叶わなかった。1939年11月30日、ソビエト連邦軍がラドガ湖岸からフィンランド湾に掛けての一帯に、激しい砲撃を浴びせたからだ。

 冬戦争の始まりだった。


 不可侵条約を一方的に破ったソビエト連邦の苛烈な攻撃に対して、フィンランドは決死の防衛を行った。カレリア地峡をはじめとしたフィンランドの要所たる南部は言わずもがな、ラドガカレリア以北のおよそ森林地帯以外に認めるもののないはずの国境地帯でも、激しい戦闘が起きた。

 訓練もそこそこにヨルンの配置された第40歩兵連隊は、ソビエト連邦の進軍が著しいフィンランド北部――といってもナウチに比べれば幾分南だ――はサッラ地区への増援部隊として駆り出された。その頃には、敵軍は国境からゆうに100kmもの進軍を達成し、それはあと20kmそこそこで鉄道駅のあるケミヤルヴィに到達することを意味していた。文字通り、必死の抵抗がなされたのだ。

 ヨルンが初めて経験する戦場、それも最前線と言って差し支えないそこは、白雪の積もる地獄だった。


 ヨウチヤルヴィに敷いた防御陣地の中、しゃちほこばった着任の挨拶に、アンセルミ・オッコネン中尉はごく短い返礼とともに「歓迎する」と言ったきりだった。士官だというのにその顔は泥にまみれ、疲れの色がありありと浮かんでいた。これは無理もないことで、増援部隊がたった対戦車砲2門を携えて駆け付けるまで、この辺りにまともに戦車と渡り合える兵器はまったく無かったのだ。

「ようやくまともに戦えるな」

 硬い声でそう言うと、中尉は一転してきびきびと声を張り上げて周りに指示を飛ばした。丸太を組んだだけの防御陣地の中には敵味方の機関銃が放つ鋭い音が散発的に響いていたが、それに負けないだけの大声だった。

「ニクラは左翼に回れ。リンドボリは伝令だ。北側に迂回して敵の側面を狙う」

「あの、ぼくは……」

 恐る恐る尋ねるヨルンに、中尉は「塹壕を掘っておけ」とだけ言って目を向けることすらしなかったが、しかしすぐ思い出したように振り返り、「頭を地面より上に出すなよ」と念を押した。

 塹壕はただまっすぐなものではなく、時には鈎型に曲がりあるいは行き止まる、迷宮のような構造だった。敵の容易な攻略を阻むためだ。それを一生懸命に拡張していくのだが、掘れども掘れども、新しい雪が端から埋めていった。雪中息を切らし、肌着を汗で湿らせながら雪を掻き、土を掘る。雪と土のまだらになった堆積物が塹壕の上にみるみる積み重なっていった。勿論、そうしている間にも敵軍は砲撃を仕掛けてくる。その度に一層身を低くし、塹壕の底に身体をこすりつけるようにして進むものだから、白いはずの外套はあっという間に薄汚れていった。勿論、替えのものなどなかった。

 中尉が敵の側面を突くといった作戦は、どうやら成功したようだと数日後に知った。防御陣地の、地面に潜るように架設された丸太小屋の中では、その話題で持ちきりだった。

「でもよ、結局敵兵に逃げられてたんじゃ世話ねえな」

 そう混ぜっ返しながらヨルンと一緒に塹壕を掘り続けるユハ・アッペルマンは、訓練校の同期だった。角刈りの大男だったがいつも陽気に軽口を叩くような手合いで、この最前線にあってもいつも同じ調子で時には先輩兵士に殴られたりもしていたが、それでも全く懲りていない様子だった。

「でも物資は獲れたんだろう?」

 はん、とアッペルマンは鼻で笑った。

「見てな、敵さんは獲られた分の倍以上のもん引っ提げて仕返しにくるぞ」

「じゃあどうする? 逃げるかい?」

「馬鹿いえ。おれが掘ってんのはそんときのあいつらの墓穴だぜ」

 はらはらと音もなく降り積もる極寒の雪の中でも、無駄口を叩きながらなら頑張ることが出来た。


「おまえら、クリスマスプレゼントだ」

 年の瀬が迫ったある日にリンドボリが咥え煙草で丸太小屋の中で皆に配ったのは、ひとりひと箱ずつの煙草と、暗褐色の液体が入った酒瓶だった。側面に、太い導火線の伸びた発火剤が2本ずつ括りつけてあった。モロトフカクテルと呼ばれる、火炎瓶だった。

「飲むなよ。砂糖も入ってるがタールが混ぜてある」

 蓋を取って匂いを嗅いでいたアッペルマンが、それを聞いて顔を顰めた。

「飲めねえならどうするんだ」

「戦車にたらふくごちそうしてやれ。泡食って飛び出てきた兵士どもにもな」

 その頃には神経が参りそうになっていたヨルンにとって、煙草の配給は正直有難かった。しかし、これで耐え忍ぶことのできるのはどれぐらいだろう、それまで自分は生きていることが出来るのか……つい頭をよぎってしまう悪い想像を、必死に首を振って追い出した。

 ヨルンの着任からこれまで、2人が塹壕から出した頭を打ちぬかれ、5人が塹壕内に落ちてきた砲弾で身体を切り裂かれたり、破片で顔を抉られていた。それらはすべて、あくまで即死に限った数で、それに倍する以上の数の兵士が死ぬよりは少しだけましだというくらいの怪我を負い、戦闘不能となって前線を去って行った。今日この日に自分がそうならないという保証はどこにもなく、そんな毎日に、ヨルンは疲れ果てていた。

「じゃあ、こいつでクリスマスパーティだな」

 こんな時でもおどけて振舞うことのできるアッペルマンは大したものだと、ヨルンはそう思った。

 しかし、それが間違いだったらしいことはすぐに分かった。


 それは、防御陣地がひと際厳しい砲撃にさらされた日のことだった。

 迫撃砲の砲弾や、歩兵が放つ機関銃がかまびすしい着弾音を発する中、ヨルンとアッペルマンはスオミ短機関銃を胸に抱えて塹壕の底に蹲っていた。尻は冷たいが、降り注ぐ砲弾や銃弾を浴びることに比べたら何ほどのこともない。

「どうしたんだ」

 はじめ、アッペルマンは震えているのかとヨルンは思った。

 そうではなかった。アッペルマンは泣いていた。幼児のように大きくしゃくりあげ、顔を歪めて涙を流していた。

「どこか痛めたのか、アッペルマン」

 アッペルマンは両ひざの間に顔をうずめ、「いやだ、いやだ」と駄々をこねるように泣き続けた。

「みんな死ぬんだ。おれもあいつらも」

「何言ってるんだ。ぼくたちは死なない。あいつらは死ぬけど、人間じゃない」

 敵を人間と思うな。それは事あるごとに、先輩兵士や上官が何度も繰り返し新兵たちに教えてきたことだった。銃弾で身体に風穴を開け、赤い血や内臓を雪の上に垂れ流し、異国の言葉で呪詛を吐いて動かなくなるあいつらは人間ではない。そうとでも思わなければ、この最前線で正気を保つことなどできはしない。上官たちもそうやって生き延びてきて、それは彼ら自身に対する教訓でもあるのだと、ヨルンはそう考えていた。でもアッペルマンは、それに失敗した。どこかで致命的に間違えてしまったのだと、そう思った。

 どうしたらいいのかヨルンが途方に暮れているうちに、アッペルマンは頭を掻きむしるようにしてヘルメットを投げ捨て、塹壕を飛び出した。駆けて行く先は、あろうことか敵陣の方向だった。

「おい、待て!」

 叫んだが、遅かった。耳をつんざく轟音がして、すぐそこに砲弾が撃ち込まれたのだと知った。反射的に倒れ伏したヨルンの顔の前に砲弾の破片が落ち、音を立てて雪を溶かした。

 そしてその向こうに、アッペルマンの顔の、右半分ほどが落ちていた。ヨルンは友人の空になった頭蓋骨の裏側を、しばし呆然となって見つめた。


「休暇の申請だと?」

 ヴァルッテリ・オヤ少尉は、呆れ声で言った。オッコネン中尉はつい3日前に、敵軍の戦車の主砲でばらばらにされたばかりだったから、今は少尉が指揮を執っていた。

「はい。あの戦車を仕留めたのはぼくです、少尉殿」

 唇は乾き頬骨は飛び出し、両の眼は死んだように鄙びているのに、声だけは淡々と響いていた。

「それに、捕虜を捕まえたのも」

 それは紛れもない事実だった。繊維に粘りのある生木の丸太を敵軍戦車の履帯に突っ込んで、駆動装置が止まり敵兵がハッチを開けて出てきたところを仕留める。単純だが効果的な手法だった。これはこの戦争を通じて有効な戦術だったが、今回異なるのは、泡を食ってハッチから出てきた敵兵が士官だったという点だ。

 夢中で捕えた時のヨルンは勿論知らないことだったが、飛び出したところをヨルンが持つモシンナガンの銃床で殴りつけられ昏倒したのはアドリアン・アルノールドヴィチ・グーセフという名のソビエト連邦軍少尉だった。士官が戦車に乗り込んで前線に赴くというのはどう考えても尋常ではない。それだけソビエト連邦も、この戦争に苦しんでいた。

「いいだろう。期間は?」

「1週間」

「分かった。書類はきちんと書いておけ」

 意外なほどにあっさりと受理された申請だったが、ヨルンは表情をまったく変じることはなかった。少尉の胸の辺りに定めた視線は、朗報のはずの返答にも微動だにしなかった。

「休暇をとって、どこに行く?」 

 そんなものは、問われるまでもなかった。

「はあ……故郷に帰ろうかと」

「ペッツアモの出だったな、おまえ」

「そうです、少尉殿」

「あそこは占領されたと聞いたぞ」

 ヨルンはしばらく黙っていたが、辛抱強く「故郷に、帰ります」とだけ答えた。


 幌のない馬車の荷台で寒風になぶられながら、ヨルンは母からもらった手紙のことを考えていた。

 昨年のうちにペッツアモに敵軍が進軍し、フィンランド軍の抵抗もむなしくナウチまでが占領されたことはとっくに知っていた。そういったニュースはラジオで頻繁に流れていたからだ。しかし、住民たちは事前にノルウェーまで脱出していたこと、物資はあらかじめサルミヤルヴィの協同組合から持ち出していて病人や老人などは手厚い看護を受けていることも聞いていたから、さほど心配はしていなかった。

 だが、昨日前線に届いた手紙を読んで、ヨルンは愕然とした。

 それはノルウェーのキルケネスから届いたもので、母の手によるものだった。日付は2か月以上前、戦時の混乱を経て、ようやくヨウチヤルヴィに届いたのだ。

 手紙は息子に対する愛情と、戦地での無事を祈る母らしい細やかな筆跡で綴られていた。

 アンテリがまた徴兵され、スオムッサルミまで従軍していること。

 無事避難しキルケネスに着いたが、畜舎の牛や馬は諦めざるを得なかったこと。

 そして。

 リトヴァとトニが死んだこと。

『開戦後まもなく、急な病でした』

 ある日を境に飲んでも飲んでも乳を吐くようになり、あっという間に泣くこともできぬほどに衰弱していったのだという。心労が祟ったのか、リトヴァも後を追うように倒れてしまったのだと。

 何かの間違いだと思い、手紙のその箇所を何度も読み返した。頭がどうにかなってしまいそうだった。手紙に顔を埋めるようにして、ひたすらに泣いた。まわりの兵士たちは皆びっくりして理由を尋ねたが、ヨルンはただ首を振るばかりだった。

 戦果を挙げたことを理由に休暇を申し出たのは、そのすぐあとだ。

 やるべき事は、決まっていた。


 そしてヨルンは、ここにいる。ナウチを、占領された故郷の村を見下ろす丘に。こんな数世帯が寄り集まっただけの小さな村にどんな戦略的価値があるのかヨルンには皆目わからなかったが、大事なのはここに敵兵がひしめいていて、自分はそのただ中に足を踏み入れなければならないという、ただ一点だった。

 この時期だと、夜明けは10時頃になるだろう。雪を被ったトウヒの樹の下で腹這いになりながら、それまでには終わるはずだとヨルンは踏んでいた。

 武器弾薬の類は私物ではなく、軍からの支給品だ。当然持ち出すことなど出来はしないのだが、ヨルンは前線を去る時にじゃがいも潰し器にも似たM24型手りゅう弾を一つだけ、懐に忍ばせていた。使い慣れたモシンナガンはさすがに無理だった。しかし、それならそれで仕方ないと腹を括るだけだ。

 手りゅう弾はもう、手元にはない。それは広場のさらにもっと向こう側、今の時期は氷と雪に分厚く覆われている池のあたりに置いてきた。夜通し地面を這いずり回って敵兵の目をかいくぐり、必要な仕掛けを施してから。

 ここまでの移動と工作で疲労は溜まっていたが、これからやるべきことを考えれば、何ほどのこともなかった。あとはその時を待つだけ。猟師のヨルンにとって、それは息をするのと同じくらい当たり前のことだった。


 ナウチの村に一発の爆発音が響いたのは午前9時を少し過ぎ、ようやく空が白み始めた頃だった。猛禽類が活動を始める頃合いだ。木に吊るした手りゅう弾の紐には干し肉を括りつけておいたから、きっと腹を減らしたイヌワシがそれに食いついたのだろう。

 辺りがにわかに慌ただしくなり、広場にいた兵士たちもそちらに掛けていくのが見えた。

 最後のひとりが広場から姿を消すのを確認してからヨルンは立ち上がり、丘を降りて行った。


 イリヤ・アナトリエヴィチ・ニコロゴルスキーは第205狙撃兵連隊に所属する狙撃兵で、この連隊では数少ないまともな兵士だった。まともというのは兵役の経験があり軍紀を守るだけの分別を備えていて、なおかつ銃の扱い、それも狙撃に長けているという意味合いだ。彼だけがただ一人、この爆発騒ぎが何らかの陽動である可能性を考え、注意深く辺りを観察していた。

 そして、丸腰でひとり広場を歩く薄汚れた外套の男を見つけたのだ。スコープを覗くまでもなく、フィンランド兵士だと分かった。兵士は何かを探している様子だったが、ニコロゴルスキーは委細構わずその場で身体を折り敷き、胴体の真ん中に狙いを定めて撃った。距離は300メートル強、狙った通りに初弾が命中し、その場で男は膝から崩れ、うつ伏せに倒れこんだ。

 地に倒れ伏した男が手に何も持っていないことは遠くからでも見て取れたし、他に援護もないのは明らかだったが、ニコロゴルスキーは銃口の狙いを付けたまま、慎重に広場に降りて行った。

 男はまだ生きていたが、虫の息だった。力なくうつ伏せに倒れた身体をつま先で蹴るようにひっくり返した所で、男がまだとても若いことに驚いた。こんな青二才ひとりにいいように手玉に取られた連隊の同僚たちは良い面の皮だと、内心忌々しい思いで唾を吐いた。

 そして、聞かずにはおけなかった。そうするべきではないと分かってはいたが、占領されたちっぽけな村に、それも敵軍が連隊規模でひしめいているこの地にたったひとりで何をしに来たのか、皆目見当がつかなかったからだ。

「おまえの目的はなんだ、なにがしたかったんだ」

 拙いフィンランド語で、そう聞いた。敵軍の捕虜を尋問したことは、ニコロゴルスキーにも一度ならず経験があった。だが、若者は、かつて相対したどのフィンランド人捕虜とも違う言葉を返した。

「足をどけてくれ」

 息も絶え絶えに、その若者は、ヨルンは言った。

「その下に、妻と、息子がいるんだ」

 母からの手紙には、『広場のちょうど真ん中に、ふたりを埋葬しました』とあった。まさに、ニコロゴルスキーが小銃を構えて佇んでいる、その足元のことだった。

 それを聞いてニコロゴルスキーは気まずげに足をどかしながら、死にかけの若者に話しかけたことを、心底後悔していた。

 会いに来たんだよ、もう会えないかもしれないから。

 そう続いたはずのヨルンの言葉は最早声にならず、ニコロゴルスキーの耳に届くことはなかった。

 そうしている間に、皺ひとつないヨルンの喉仏の動きが、いよいよ緩慢になった。

 ヨルンの身体にもう殆ど苦痛はなく、心もまた、ここにはなかった。


 ほとんど意識を手放しながらも思い出していたのは、ここナウチで家族と過ごしたときのこと、白夜に一番近い夜のことだった。不思議なほど静かでほんの少しだけ暗くて、翌日からはずっと沈まぬ穏やかな陽光を約束してくれる、神聖な時間のことを。

 そこには勿論リトヴァもトニも、父も母もいる。

 リトヴァが焼いてくれたベリーのパイを食べよう。アンテリはそんな時も馬鹿な冗談を飛ばしているかもしれないが、構うことはない。リトヴァが口に手を当てて笑い、トニはとくしゃみをする。

 ああ、明日からは皆で、ペッツアモの短い夏を楽しむのだ。


 幸せな幻のただ中で、ヨルンは逝った。

 終戦を迎える日の、朝のことである。

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白夜に一番近い夜 南沼 @Numa_ebi

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