イボ取り地蔵様

甲斐央一

イボ取り地蔵様

 ある日、いつものように空き家となった実家に寄り、家の掃除と部屋の換気をしていた。

 ふと何故かお墓が気になった。幾ら実家から車で五分も掛からないといえども、中々お墓参りには足は向かない。


 お盆も近いから、お墓も草が生えているに違いない。そんな思いに駆られると、私の重い腰も上がってしまった。 

 

 仕方がない行ってみるか? 


 早速、お墓に行ってみる事にした。


 実家から車で、五分程度でお墓に着くのだが、墓参りを敬遠するには訳がある。道から高台の墓地に続く道は、見通しが悪い上に道幅が狭い。対向車が来れば、かわす場所が無いので、上りの車がバックして譲らなければならないのだ。


 道を造った時に、もうちょっと考えて道を造ってくれよ~と言いたくなる。


 過去に何度も坂道を譲ってヒヤリとした覚えがある。だから、お墓参りには足が遠くなってしまうのだ。


 私の実家は岡山の県北の辺境地。見回す限り、辺りには山と田んぼしか無い。区画整理された田んぼにはマスの目のように農道が走っている。


 農道を車で走っていると、対向車に気が付いた。田んぼしかないので視界が広い。農道も一般道と違い、道幅が狭い。車を交わす個所は限られているので、私は違う道を選んだ。とは言っても、曲がる道を一本早く曲がっただけだ。


 そのまま走っていると、道端の小さなお堂が目に入った。


 あぁ、そうか。これは、「イボ地蔵様」ではないか? 普段はこの道を通らない。懐かしさに車を端に寄せて車から降りてお堂に向かって歩いて行った。


 やっぱり、イボ地蔵様だ。別名「イボ取り地蔵様」懐かしいなぁ~。

 小さな白いお堂の中に、お地蔵様が佇んでおられる。足元には誰かが備えたお供え物があり、線香を焚く香炉もある。


 折角だから、拝んでいこう。


 そう思い、イボ地蔵様の前に跪き、両手を合わせ目を閉じた。目を閉じると昔の記憶が蘇ってくる。


 あれは、どれくらい前の事だろう? 私が幼稚園の年長さんぐらいの年頃だったと思う。





 ***




ようなにしとるんじゃ? 肘がかゆいんか?」

「何か分からんけど、肘になんか出來とるんじゃ……なんじゃろう?……どうしよう……」


 なにやら見てみると、左の肘にイボが有った。別に痛くもかゆくもないが、気になりだすと、もういっても経ってもいられない。火傷の後に出来るような水泡が出来ている。


 それを祖母が見てくれた。


よう、そりゃ~イボが出来とるんじゃ。あんまりさわりょったら、イボが移るぞ。こりゃ、イボ地蔵様にお願いせんといけん。これから一緒にお参りに行くか? お参りに行ったら、すぐにイボが取れるけん、はよういかにゃいけん」

「えーなんじゃ~それ? お地蔵さんがイボを取ってくれるんか?」

「そうじゃ、お地蔵さんがイボを取ってくれるんじゃ。お地蔵様にお参りに行こうか?」

「行こう、いこう—―!」


 こうして幼い私は祖母に連れられ、イボ地蔵様のお堂へと歩いて行った。


 幼児と年寄りの足で、およそ十五分位で、田んぼの傍の道端に佇んでいるお堂へと辿り着く。車だと二分もかからない。


 祖母はいつの間に用意していたのか、手にしたバケツで傍に流れる小川から水をすくい取った後、子供が砂場遊びで使う小さなスコップで田んぼの土を少しすくい取った。


 バケツで汲んだ水をタオルで濡らし、お地蔵様を拭いて行く。タオルで拭かれたお地蔵様は綺麗になった。そのお地蔵様の左腕の辺りに、田んぼからすくった粘土質の土を少し練り込み、小豆大の大きさにして手に取り、祖母は私に言った。


よう、自分でイボのある方のお地蔵さんの腕に、土を付けるんじゃ」

「ばぁちゃん、こうか? これで、ええんか?」


 幼い私は祖母に言われるがままに、お地蔵様に土を付けた。祖母は私が付けた土が落ちないように、念入りに土を押し付ける。

 そして、どこに隠し持っていたのか、小さな塩オニギリを一つお供えした。そのオニギリの一粒の米粒を、先程のイボに見立てた土に付ける。

 そして持ってきた線香に火を点け、香炉に供えた。


「イボ地蔵様、イボ地蔵様。これで、央一よういちのイボを取って下され……。お願します。オネガイシマス……。イボイボ、飛んでけぇ~~!」


 なにやら怪しい呪文のような願いを込めて、祖母は両手をスリスリしている。祖母の隣で私も見様見真似で両手を合わせた。本当にこれでイボがとれるんかなぁ?


 我が身の不出来物を、他人に擦り付けて治そうとする事が許されていいのだろうか? そんな事は幼い私には思ってもみない事だ。


 当時、イボ如きで病院へ行くなどは在り得なかった。病院は遠く、お金がかかる。田舎に住んでいる者にとっては、気休めかも知れないけどわらにもすがる思いだったのかも知れない。それが、このような風習に変わったのだろう。


 しかしながら、後日実際にイボは取れた。お地蔵様の力か、たまたまなのか? それは分からないが、このような風習があるという事は、まやかしでは無いのかも知れない。

「他力本願」ではあるが、救いを求めるのはどの宗教でも当たり前の事だろう。

「信じる者は救われる」とは言うけれど、お地蔵様は人々の不幸事を掬い取って下さるのだろう。お寺や神社などで鎮座する事無く、身近な道端で人間の悩みや苦しみを代わりに受け取って下さっている。私たちを救って下さるお地蔵様は、なんと有難い事か。病的な事だけでなく、精神的な救いに感謝するのである。


 在りし日を思い出し、ただ合掌した。




 昔を思い出し、お地蔵様に合掌して立ち上がると、お堂を後にした。


 車のもとに行き、お堂を振り返って見ると、お参りをして帰っていく祖母と手を繋ぎ、農道を歩いて行く当時の幼い私達の後ろ姿が、夏の舗装道路を陽炎カゲロウのようにかすんで見えたような気がしたのだった……。

 


        

                                   

    了






イボ地蔵。

・自分のイボをお地蔵様になすりつける事で我が身のイボを取ってくれる、有難いお地蔵様。


(お参りの仕方)

・イボの場所のお地蔵様の所を石で擦る。

・社の水を自分のイボに付ける。

・縄でお地蔵様を縛る。 等、各地でお参りの仕方は違います。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イボ取り地蔵様 甲斐央一 @kaiami358

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ