仲間

 結局泥酔して眠ってしまった美咲さんと、うとうとし始めた明ちゃんがすっかり寝入った頃、木嶋くんはやってきた。電池が切れかかっているのか、ドアチャイムの音は少し小さく、酔い覚ましにちびちび麦茶を飲んでいた私の耳にしか入らなかったようだ。静かな寝息のふたりは身動ぎもしない。けれどこの熟睡のしようときたら、ドアチャイムの音が全開で大きくても起きなかったかもしれない。

 時計を見上げる。時刻は二時四十五分ちょっと前。

 冷えきった廊下は厚手の靴下を履いていても歩くのがつらい。今度スリッパを用意しようかとも考えたけれど、廊下でいちいち脱いだり履いたりするのもめんどうだなと思った。

 玄関の透かしガラスから玄関灯の黄色い明かりが漏れている。

「どちら様ですか」

 言いながらドアスコープを覗くと、そこに立っていたのはやっぱり木嶋くんだった。この時間に訪れたのが木嶋くんでなかったら怖い。

「木嶋です」

 その返事を待ってドアを開けた。さすがに空気はきんと張り詰めていて、彼は寒そうに肩を縮こまらせている。玄関前の砂利の敷いてある敷地には、明ちゃんの車に並んで、黒い軽自動車が停まっていた。木嶋くんのものだろう。

「寒いね」

「うん」

「上がって」

「遅くに申し訳ないです」

 どうぞ、と木嶋くんを通して、鍵とチェーンをかけた。玄関灯も消す。

「ごめん、居間に通したいのは山々なんだけど、友達がぐっすり寝ちゃってるんだ」

「あーそう……こんな時間だもんね」

「どうしよう、私の部屋は気まずいよね。隆太くんの部屋に行こうか? 寝てるからかわいそうだけど……」

「いやほんと、すんません」

 玄関からほど近い和室に、履き潰れたスニーカーを脱いだ木嶋くんをつれていく。襖を開くと、当然ながら室内は真っ暗で、置いてあげたハロゲンヒーターも律儀に消してあるようだった。

「電気つけちゃかわいそうだから、このままにしようか。ちょっと寒いけど」

 襖を開けっ放しにしておけば、廊下からの光でそこそこ明るい。そばにハロゲンヒーターを持ってきて電源を入れた。

「お茶いれてくるから座ってて。そういやお腹すいてないの? 何か食べる?」

「いやいや、大丈夫っす」

 木嶋くんは顔の前で手を振って、廊下から差す光の中に腰を下ろした。私は頷いてその部屋を後にする。

 居間に戻っても、二人は明るい電気の下で静かに眠っていた。聞こえるわけではないけれど、家そのものが眠っているように、家中が穏やかな寝息で満ちているような感覚がする。飲んだお酒の缶やコップは全て片付けたけれど、外の空気を吸ってから戻ってみるとやっぱり部屋の中はどことなく酒臭い。こうして改めて嗅いだことがなかったからちょっとショックだけれど、楽しい時間の残り香でもあってつい頬が緩んだ。なにしろ楽しい時間が二人の穏やかな寝姿という形になって目に見えている。

 残念ながら我が家にお茶っ葉というものはなく、あるのは緑茶とほうじ茶のティーパックだけである。しかもやかんで沸かすより早いので、水を注いだマグカップを電子レンジに突っ込んだ。明らかに邪道だが木嶋くんには勘弁してもらいたい。

 迷った末に緑茶のティーパックにして、私はふたつのマグカップを手に和室へ戻った。廊下はひんやりと底冷えしているけれど、和室の襖のあたりはハロゲンヒーターのおかげでほんのりと暖かい。

 敷居の上に立つと、私の影が大きく伸びて光を遮る。木嶋くんは部屋の奥、隆太くんの布団のそばに座って顔を覗きこんでいた。

「よく寝てるね」

 小さく声をかけると、木嶋くんは振り向いてこちらのほうへ戻ってきた。とても優しい顔をしている。

「全然起きない。こいつ結構図太いんだよ」

「思慮深そうないい子だったよ」

「そう言ってもらえると助かる」

 マグカップをひとつ手渡しながら襖の内側に腰を下ろす。私たちはしばらくふうふうとお茶に息を吹きかけながら少しずつ飲み、ぼんやりと眠る隆太くんを眺めていた。小さく盛り上がった布団。目を凝らして見ていると、ゆっくりとそれが上下する様子がわかる。彼もまた、この家の一部になって眠っているのだ。

 真夜中のやわらかく溶けるような眠気。眠る家と静かな夜の暗闇が生む静謐さに包まれる。

 木嶋くんがそっと口を開いた。

「隆太から聞いた?」

 彼の光と影に沈む横顔を見る。

「少し。お父さんが暴力を振るうから、木嶋くんが連れ出してくれるんだって、それだけ」

「そっか。まあ、でも、それが全てだよ」

 木嶋くんは隆太くんを見つめているようだったけれど、もっとずっと遠い何かを見ようとしているようにも思えた。苦い笑みが浮かぶ。

「恥ずかしい話、父親はどうしようもない人でさ、酒飲むとすぐ手が出るんだな。俺はもう大人だから殴り返すくらい出来るけど、隆太はそうはいかないし。……母親はかわいそうだけど、あの人には隆太を守る余裕はないみたいだし、俺にも母親まで守る余裕はないんだよ。情けないよな。かっこよくみんな守れたらいいんだけど」

「十分すぎるよ。現にこうして隆太くんは救われてるじゃない。お母さんのこともだけど、私たちに出来ることがあるなら手伝うよ」

 なにしろ私たちは、家族を振りきりここへたどり着いた面々だった。きっと何か出来ることはあるはず。

 家族だからといって、必ずしもそばにいて大事にしなくてはならないわけじゃない。そうに決まっている。だって隆太くんの人生は隆太くんのものだし、木嶋くんの人生は木嶋くんのものだし、私の人生は私のもののはずだ。お父さんに殴られ続けてまで家族でいる必要はないし、そのために心の中のどこかが歪んで苦しくなっていくのをただただ堪えていなければならないことだってないはずだ。きっと、きっとそうだ。子供は、自分のための幸せを求めたっていいはずなのだ。そのために、家族を捨てることになっても。きっと。

 木嶋くんはどうしてか放心したように私を見てから、力の抜けたほっとした顔をした。泣き笑いにもどこか似ていた。

「ありがとう。何から何まで、本当に申し訳ないよ。そう言ってくれる人がいるってだけで、俺には大きな救いだ」

「別に慰めるためとか、口だけで同情しようと言ってるわけじゃないよ」

「わかってる」

「ほんとかなあ。木嶋くん、このまま『じゃあありがとう』って出ていきそうな言い方してる」

「そんなことないんだけど。でもとりあえずこいつ連れて帰るよ。さすがに親父ももう寝てるだろうし」

 木嶋くんはやれやれとでも言いたげに苦笑をする。やっぱり帰る気なんじゃないか、と私は少しむっとした。

「隆太くんこんなにぐっすり寝てるのにわざわざ起こすの? 寝かせてあげなよ。木嶋くんだってバイト帰りなんだし寝ていけばいいじゃん。敷布団はもう余ってないけど、掛け布団と毛布ならまだあるよ。毛布二枚くらい重ねれば敷布団の代わりくらいにはなるでしょ」

 隆太くんがぐっすり寝ている、と自分で言いながら、私はムキになって木嶋くんに詰め寄った。声が少々大きくなっているのを自覚しながら、自分では止められなかった。どうしてこんなにムキになっているんだろう、と頭の片隅で思いながら。その答えは今は出せそうにない。

 木嶋くんは私の剣幕に面食らってわずかに身を引いた。

「あ、いや、さすがに俺はまずいでしょうよ。女の子三人で暮らしてるんでしょ?」

「女の子三人っていうか……そうと言えばそうなんだけど、違うと言えば違うんだけど……」

「どういうこと?」

「えーと、一人オネエがいるので」

「え、ああ。ああ、そうなの……」

 はい。思わず丁寧に頷くと、つられたのか木嶋くんもそうでしたかと答えた。

「とりあえずオネエはいいとして、泊まっていきなよ。みんなそのつもりだったよ。ほんとは木嶋くん来るまで起きてるとか言ってたんだけど、お酒飲んでたから寝ちゃったんだ。隆太くんのことだって二人とも本気で心配してるよ。木嶋くんだって別に何かするつもりなわけじゃないでしょ?」

「それはもちろんそうだけど」

「じゃあ、いいじゃない。私も友達もいいって言ってるのにどうして遠慮するの?」

「いや、だってさ……ただでさえいきなり隆太泊めてもらって迷惑かけてるのに、これ以上どうして良くしてくれるのかとか……」

「ていうか、そうだよ、遠慮とかいまさらじゃないの?! 突然知らない子泊めてくれって置いていってさ」

「あ、あの時は完全にテンパってて遠慮とか考えてる余裕なかったんだ!」

「一発目からそれなんだから、後から遠慮とか持ち出したって意味ないよ! しかも誰も迷惑してるとか言ってないのに!」

「仕切り直しってやつだよ! 大体そんな良くしてもらう理由がわかんないって言ってるだろ!」

 何故だか妙にヒートアップしてきた私たちは、知らず知らずのうちにの大きな声で言い合っていた。マグカップも畳に押し付けている。

 ハロゲンヒーターと廊下からのどことなく古ぼけた白い光に照らされながら、半分は闇に沈んでいる私たちの状態は、まさに今の私たちだと思った。こんなふうに楽園のような家で暖かい光の中生活しているけれど、心は半ばそれぞれの家族に引きずられたままだ。私たちはそれでもこうしてここで生きていくしかないのだから、木嶋くんと隆太くんだって半分はこの光の家にあってほしい。それが私の願いだし、私たちに出来ることなのではないかと思い始めていた。彼らをここに引き留めることが、受け止めることになるのではないかと。

 けれどそうやって大きな声でやりあっていれば、そこで眠っている人の目が覚めるのは当然のことだった。

「兄ちゃん……?」

 半分寝ぼけた声が部屋の奥からして、ゆっくりと小さな山が起き上がる。はっとして口を押さえるが、遅すぎるほどに遅い。

「悪い、うるさかったな」

 木嶋くんが暗闇に向かって謝ると、もそもそと影が動いて光の中へと歩み寄ってくる。持参した水色のパジャマに身を包み、メガネのないつるんとした顔と寝ぐせを持った黒い髪。目をこすりながら木嶋くんのそばにぺたんと座り込んだ。

「もう帰る?」

「……そう」

「いや、お兄ちゃんも寝ていくよ」

 私はほとんど反射的に割り込んだ。木嶋くんが目を見開いてこちらを見てくるけれど無視する。

 どうしてこんなにムキになっているんだろう。先程も思ったことをまた思う。わざとではないにしろ隆太くんも起こしてしまったことだし、彼らが帰るというのなら帰したっていいだろうに。でも私はどうしても二人を引き止めたかった。こうすることが彼らの救いになるのだと信じて疑っていなかった。それは押し付けでしかないかもしれない。私が信じるものが誰かにとっても信じるに値するとは限らない。でもどうしても、私は私に出来る何かでふたりを助けたい。そればかりが頭のなかを占めていた。

「……佐伯って結構しつこいんだね」

 木嶋くんは呆れた顔をしている。ちょっときまりの悪い恥ずかしい気持ちがしたけれど、いまさら引き返せない。彼の布団を用意すべき立ち上がる。

「……どうしてこんなに良くするのかって木嶋くん言ったよね」

「そうだね」

「うち、家族がめちゃくちゃなの。全然家族を顧みない父親とヒステリックな母親と、精神科にかかってる妹がいて、その家庭不和が全部自分のせいに思えて重くて重くてしょうがなくて逃げ出してきたの。それから、今寝てる友達。美咲さんはアル中の母親を子供の頃から支えてきた人だし、明ちゃんは両親にカムアウトしたら勘当された。私たちはみんな家に居場所を見つけられなかったから、ここに居場所を作ったの。私は木嶋くんと隆太くんもそういう人たちだと思ったから、私の作り上げた楽園がきっと二人を少しでも守れると思ったから。本当に迷惑なんだったらごめんね」

 そう言いっぱなして、誰の返事も待たずに和室を出た。

 途端、怒りのような感情と自己嫌悪がこんこんと湧いては渦を巻いた。何をやっているんだろう、何を言っているんだろう。木嶋くんが数年ぶりに会った元クラスメイトに突然弟を押し付けたのだとしたら、私は数年ぶりに会った元クラスメイトに突然自称救いを押し付けているのだ。私のほうが目に見えない信条であるぶん質が悪かったし、この説明だけを見ると完全に危険人物だった。私は頭を抱えながら、布団を取りに二階へ上がった。

 

 

 どうしてあんなに必死になったのだろう。寒い廊下を歩いて冷静になった頭で考える。同時に、考えたくないような気もする。

 もやもやとしながら気まずい気持ちで和室まで戻れば、隆太くんはまた布団の中に横たわっていた。木嶋くんはそのそばに座り、こちらを振り返る。気まずい。勢いで自分どころか明ちゃんと美咲さんの家庭の事情まで唐突に暴露してしまっている。もうすでに自分でも意味がわからない。

「……先ほどはすみませんでした」

 毛布などを両腕に抱えたまま頭を下げると、木嶋くんの小さく笑う息遣いが聞こえた。

「なんで謝るの」

「だって……異常な強引さだったし、突然みんなの家庭事情を勝手に暴露したし」

「別にいいよ。正直言って俺も疲れてるしかなり眠い」

 私は彼の優しさに救われたのだと思う。申し訳ないのに、許されることに甘えるのは心地の良いことだった。

 抱えた布団類を手渡す。隆太くんの布団を用意するときに、みんなで余っていたり今使っていなかったりする毛布やタオルケットを集めた残りだ。毛布二枚にタオルケットが一枚、掛け布団が一枚。それから枕がひとつ。

「毛布は二枚とも下に敷いていいよ。こうして」

 隆太くんの布団の隣に並べて敷く。その時に気がついたけれど、隆太くんはまだ眠っていなかった。とろんとしたまぶたをゆっくりと上下させてこちらの様子を見ている。

「お姉ちゃん、ここは楽園なの?」

 木嶋くんの寝床の用意が終わったとき、隆太くんが口を開いた。眠いからなのか、柔らかく細い声だった。

「……私と私の友達にとってはね。どこへ出かけてもここに帰ることが嬉しいって、そういうことだと思うんだ」

 静けさを取り戻した和室はまた穏やかな空気が流れていた。隆太くんは考えているのか眠気を我慢しているのか、少しの間ぼんやりと私を見て、ゆっくりと頷いた。彼なりに何かを理解したり、納得できたのだとしたらよかったけれど。

「それじゃあおやすみ」

 挨拶を交わして、私は和室を出た。襖をしめても誰かの存在の気配というものがある。実家では誰かの気配というものは神経を尖らせるものだったけれど、この家に暮らし始めてから少しずつではあるけれど変わってきた。壁一枚向こう、扉一枚向こうに明ちゃんがいる、美咲さんがいるというのが安心できることであり、心の落ち着くことであるというふうに。ここにいれば他者の気配に耳をそばだてることも、反対に自分の気配を殺そうとすることもない。そのことに私はようやく馴染んできたと思う。そして、今ここにいる「他者」の最たるものである木嶋くんと隆太くんの気配にさえ、私は安心を覚えているのだ。緩んだ心が解けたまま。それがどれだけ泣きたいほどのことか。安心していられる自分に私は心の底から安堵している。

 

 

 その日をきっかけに、私たちと木嶋兄弟は仲良くなった。

 とは言え隆太くんは相変わらず無口な子だったけれど、徐々にゆっくりと慎重に心を開き始めてはいるようだ。

「隆太くん、目玉焼きどうする?」

「半熟がいい。牛乳飲んでいい?」

「いいよ。コップしまってあるからね」

「うん」

 どうということのない会話だし、何かが抑圧された真っ平な瞳をしてはいるけれど、背中や俯き加減などから感じる頑なさは見受けられない。

 何かがあれば木嶋くんが隆太くんをこの家へつれてきてバイトや学校へ行って、ここへ戻ってくる。そしてここで眠って朝はここから学校へ行ったり、一度自宅へ戻ったりもする。時には明ちゃんが車で兄弟の送り迎えをすることもあった。自宅とここの行き来が面倒くさいときは、数日滞在し続けることもある。こちらとしてはどうせならここに住めばいいのにと思うけれど、隆太くんが未成年で一応ご両親の保護下にある以上、建前として自宅で生活をすることにしているらしい。なにより二人ともお母さんの存在が気にかかるのだ。当然のことだった。

 二人は完全にここで暮らしているわけではないけれど、避難所か寄り合い所として認識しているようだった。

 

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