楽園をつくる

朔こまこ

はじまり

 私たちの間では、休日の前夜にはおいしいものをつつきながら夜更けまで酒をたしなむというのが恒例になっている。

 借りてきた映画のDVDを次々流していきながらしゃべり倒すこともあるし、真剣に画面に没頭することもある。つまらない深夜番組に文句をこぼしあうこともあれば、録画しておいたドラマを見もしないでBGMにしておくこともあった。ようするに私たちが楽しく過ごせれば何でも良いのだ。

 そしてその恒例の日はやってきた。いちばん帰宅の遅かった明ちゃんを待ってから、少し離れたところにある大型スーパーへ足を運ぶ。明ちゃんの運転する軽自動車に乗って、カーステレオに入れっぱなしの三人が今いちばんお気に入りアーティストのCDを大ボリュームで流して、気分だけはパーティだ。行き先はスーパーで、買うものはビールやチューハイ、鍋の具材なわけだけど、それで充分なのだ。大音量の音楽も、部屋着という名のドレスもある。さまざまな光をチラつかせるテレビはシャンデリア、そして古い小さなあの家は私たちの城。充分すぎる。

 スーパー内で私はひとり、食品売り場へカートを押していく明ちゃんと美咲さんを背に二階へ向かった。先日、ぶちまけられたコーヒーによって台無しになった座椅子カバーを新調するためだ。なにしろコーヒーぶちまけ犯は何を隠そう、この私である。その責任を取る形で、品物選びから購入、持ち帰りに至るまで全てをこなさなければならない。明ちゃんはデザインやセンスにうるさいので、慎重に選ばなくては。適当に安いからとわけのわからない柄のものを買ってしまった日には、小一時間の罵倒が待っている。

 時間帯のせいか人けは少なく、二階の生活雑貨コーナーにはレジカウンター内にいる店員さん以外に客の姿は見当たらなかった。白々とした人工的で嘘くさい明かりの下で、繰り返し繰り返し流れるスーパーのテーマ曲を耳に座椅子カバーを目指す。通いなれている店なので、どこに何があるのかはおおよそ把握できていて、探し回ることもなく目当てのものは見つけられた。

 私は人けのない静かな店内で、いくつか並んだ座椅子カバーを前にしばらく立ち尽くしたあと、茶色いノルディック柄のフリースカバーを手にレジへ向かった。

 そこから食品売り場へ行く途中のことだ。

 下りのエスカレーターまでの道のりに、フードコートがある。ビニール袋を片手に何気なくそちらに目をやると、そこにいた人物と目があった。

「……佐伯?」

 その人物は白いプラスチックの椅子からわずかに腰を上げて、驚くべきことに私の名前を呼んだ。知り合いだったのである。

「木嶋くん」

 前へ踏み出しかけていた足をフードコートへ向ける。

 一瞬誰だかわからなかったのは、数年ぶりの再会だったからだ。木嶋くんは高校の同級生で、卒業以来一度も会っていない。たしか二年ほど前に同窓会があったけれど、木嶋くんはきていなかった。

 なんとなく雰囲気が変わっていて、私服姿も見慣れないせいか、木嶋くんだということがわかっても印象はふわふわとしたままだ。着古したような深緑色のゆるいパーカーを首元まできっちり閉じている。背は変わらない気がするけれど、そもそも彼の身長をはっきりとは覚えていないのだった。私より高かったのは確かだということくらいしか覚えていない。仲は良かったほうだし話もしたけれど、特別に仲良しだったわけでもない。

 彼の前にはもうひとり座っていた。小学生だろうか、めがねをかけたおとなしそうな男の子がこちらを見ている。木嶋くんとはその切れ長で深い湖水のような瞳がよく似ているから、たぶん兄弟なのだろう。

 木嶋くんのそばに立ち声をかける。

「久しぶりだね」

「本当に。元気だった?」

「うん。木嶋くんは? 今何やってるの?」

「まだ学生」

「さては留年した?」

「浪人と留年で二年だぶり」

「マジか」

「マジよ」

 顔を合わせてくすくすと笑った。あのとき同じ教室にいて、同じように過ごしていたのに、こうして解き放たれてみればいろいろな人生が流れるものだ。私も、彼も。

 木嶋くんは穏やかな笑みを浮かべて、

「ところで佐伯は何やってんの? 家、たしかこの辺じゃないよね」

「うん、もう実家は出てるから。かといって、この近所に住んでるわけでもないんだけど」

「一人暮らししてるんだ」

「一人ではないけどさ、そんな感じ」

「えっ、同棲……?」

 木嶋くんははっとして口元を押さえた。これは完全に彼氏と住んでいると思われている。私は思い切り首を振った。

「いやいや。友達と住んでるんだよ、三人暮らしなの。ハウスシェアってやつ?」

「あ、そうなんだ。友達と……。家、大きいの?」

「大きいってほどでもないけどさ。三人で暮らすには充分だよ。もともとおばあちゃんの家だから、すごい古いの」

「へえ……」

 木嶋くんは何事か考え込むようなそぶりを見せて、視線をそらした。何かおかしなことを言っただろうか。不思議に思いつつも、たいしたことではないだろうと気にとめなかった。

「弟さん?」

 退屈そうに静かに座っている男の子を見て聞く。

「あ、ああ。隆太っていうんだ」

「隆太くんか。何年生?」

 今度は隆太くんにそうたずねると、彼は真っ直ぐにこちらを見つめた。不思議な色をたたえた瞳だ。こちらを見透かそうとしているようでも、窺っているようでも、ぴしゃりとシャットアウトしているようでもある。すごく澄んでいて深いのに、硬質な雰囲気がする。

「四年生」

 少年らしい高さの声は、わずかにかすれていた。あまりやんちゃな感じはしない。木嶋くんはわりといつもゲラゲラ笑っていたイメージがあるけれど、この兄弟の性格はあまり似ていないのかもしれなかった。

「そっかあ。お兄ちゃん優しい?」

「うん」

「優しいって、木嶋くん」

 からかって肘でこづいたら、木嶋くんは照れなのか苦笑なのかわからない笑みをもらす。隆太くんもわずかに口の両端を持ち上げた。小さな表情ではあったけれど、そこには兄に対する信頼がたしかに見て取れて胸の締め付けられるような心地がした。仲良きことは美しき哉。良いことだ、本当に。

「ところで何してるの? もう八時近いけど」

 壁にかかっている時計を見上げる。小学四年生の子をつれてうろつくには少々遅い時刻な気がする。

「えーっと……」

 なぜか木嶋くんは明後日の方向に視線を逸らし口ごもった。何か後ろめたいことがあるらしい。木嶋くんだけならば気にかけたりはしないけれど、今は子供がいる。いくらよその子とはいえ、連れまわされる小学生を見過ごせないという妙な正義感がなぜかわいてくる。

 兄のほうが答えないのなら弟に聞くまでだ。私は隆太くんに顔を向け、無言の問いかけをした。すると例の不思議な瞳で兄と私を何度か見比べたあと、彼は素直に口を開いた。

「家にいられないから」

「いられない?」

「あー、いや! まあ、事情があって!」

 割り込んできた木嶋くんに眇めた目を向ける。不審感がまるごと綺麗に伝わればいい、と思いつつ。

「事情って何よ」

「まあ、その、いろいろ……。あのさ、俺もうバイト行かなきゃなんないから率直に言うけど」

「なに?」

 泳いでいた視線が、なにか覚悟のようなものに変わり、木嶋くんは真剣な顔で真正面から私に向き合った。拳を握った両手は膝の上だ。まるで告白かプロポーズでもするかのような気迫だった。思わず私も居住まいを正す。

 一瞬の鋭い緊張感。生唾を飲み込む。

 そうして木嶋くんは勢い良く言葉を発した。

「佐伯のところで一晩、隆太を泊めてくれない?」

「……はっ?」

「いや、いきなりおかしなこと言ってるのはわかってるんだけど! 今、佐伯しか頼める人いなくて! 事情を気にしてるみたいだからいっそのことと思って!」

 両手のひらを合わせて拝み倒す。拝まれるのなど初めての経験だ。私は呆然とその姿を見ていた。まくしたてるような木嶋くんの言葉は脳にとどまらず耳から抜けていく。

「え、ちょっと、なに?」

「バイト先には連れていけないしさ! 頼みの友達の都合もつかなくてほんと困ってたんだ!」

「待って、何の話? 泊めるの? なんで?」

 水飲み鳥のごとく頭を下げては合わせた両手を振る男と、混乱して浮かせた両手を左右に動かしてはあたりを見回す不審な女、そしてそれを静かに見守る男児。場所はスーパーのフードコート。他に客は少ないものの、店員を含め明らかに注目を集めていたが、そのことにはしばらく気づけなかった。それほどまでに何がなんだかわからなかったのである。

「ま、待って、ちゃんと説明して」

「時間ないから詳細は隆太に聞いてほしいんだけど、簡単に言えば、今日こいつを自宅に置いておけなくて、でも俺はバイトだしバイト先には連れていけないし、よく預かってもらう友達は都合がつかないしで困り果ててたんだ。いっそバイト終わるまでここに置いておこうかと思ってたところに佐伯が来て、三人で暮らせるような家に住んでるって言うし何やってるのかって首突っ込んでくるし、もうこれはお願いするしかないと……」

 わかったような、わからないような。

 つまり家にいられない事情があるからうちに泊めてほしいというわけだ。私は相変わらず困惑はしていたけれど、落ち着きは取り戻していた。

 しかし木嶋くんはまだおかしな水飲み鳥みたいになったままだ。

「ほんと、寝る場所だけ貸してくれればいいんだ! 飯は持たせてるし、俺は明け方にバイト終わるからすぐ迎えに行くし! ご迷惑はかけません!」

「迷惑とかはないけど……」

「お願いできますかね?」

「………」

 ここで「いや、困ります」などとは言えない空気だった。

 木嶋くんは本当にバイトの時間が迫っているようで、今にも飛び出していきそうに椅子から腰を浮かせている。私はちらりと隆太くんのほうを見やった。今ばかりは俯いて、両手をもじもじ動かしている。その姿を見たら急激に気の毒になった。彼らの事情はわからないが、小学生一人くらい家に連れ込んだところで何の問題があろう。手癖が悪そうにも見えないし、何より木嶋くんが本気で頼んでいるのがわかるから、拒否する理由が見つからなかった。

「……わかった。いいよ」

「ほんと?! マジ助かった! ありがとう、ありがとうございます!」

 今度こそお地蔵様か何かになった気分だった。こんなに有難がられて拝まれたのも初めての経験だ。あまり気持ちのいいものではないなと思った。そんな風にされるほどのことをしたわけじゃない。断れないから受け入れただけなのだ。

 木嶋くんが立ち上がる。エンジンをふかしているみたいだ。

「ほんと申し訳ないんだけどよろしくお願いします! 休憩時間こいつの携帯に連絡するし、詳しいことはまたそのときに! 隆太、おとなしくしとけよ!」

「うん」

「じゃあ佐伯、お友達にも申し訳ないって伝えておいて」

 私の返事も待たず、木嶋くんはアクセル全開で走っていった。人気の少ない静かなフロアに派手な足音が響いて、背中が角を曲がり、やがて遠ざかっていく。

「………」

「………」

 取り残された私たち。木嶋くんをただただ茫然自失の状態で見送って、あとに残ったのはほとんど見知らぬと言っていい会ったばかりの子供と大人だった。あまりにも唐突で激動の展開だったと思う。こうして台風が過ぎてみると、一体なぜこんなことになっているのか全くわけがわからず、妙な疲れが両肩にのしかかった。

 しかし。そっと隆太くんに視線を向けると、彼はまたおとなしく退屈そうにこちらを見上げている。

 ともかく怒涛の展開だったとはいえ、木嶋くんの話を受け入れたのは私なのだ。そもそも私たちの家は、居場所という名の楽園を求めて生まれた場所だ。目の前のこの子は小学四年生にしてすでに自宅にはいられないらしい気の毒な子供だった。うちに来て然るべきという気すらしてくる。その不思議な色をした目は頑なで、おそらくひどく苦労しているのだろう。無意識のうちに隆太くんに自分を重ね、同情心がこんこんと湧き上がってくる。

「じゃ、行こっか」

「うん」

 差し出した手を、隆太くんは素直に握る。

 そうしてから気がついたけれど、十歳の男の子はもう保護者と手をつながない年齢なのだろうか。自分が十歳の頃のことも、妹が十歳の頃のこともいまいちはっきりと思い出せない。でもとりあえず隆太くんは手をつないでくれたからいいとしよう。おとなしくついてくる彼の顔をちらと窺うも、表情に変化は見られなかった。思えば兄に向かって小さく微笑んだ以外、あまり表情の変化がない。

 フードコートを出て、子供用の遊び場やゲームコーナーの横を通り過ぎ、エスカレーターで階下へ降りる。

「隆太くん」

 呼びかけると、無言の顔がこちらを見上げる。ゆるく私の手をつかむ、子供のやわらかく熱い手。

「鍋好き?」

「鍋?」

「うん。これから餃子鍋やるんだ。あ、もちろん肉も入るよ。たぶん豚肉だとは思うけど」

「……好き」

「ほんと? よかった。隆太くんの飲み物も何か買っていこうね」

 少しの間を置いてから、言葉はなかったけれど、彼の頷く気配があった。

 もともと無口な子なのか、無口にならざるを得なかったのか。事情があると木嶋くんは言った。だからおそらく後者なのだろうと私は思った。それは半分くらい思い込みだったようにも思うけれど、たぶんそうだ。美咲さんと明ちゃんと暮らすことにしたときと、どこか似た空気がこの子からはする。

 二人はまだ買い物中だろうか。早いところ合流して、隆太くんのことを説明して、彼に何かジュースやお菓子を買ってあげたい。私はすでにさっき会ったばかりの見知らぬ子供をなかば仲間のように感じていた。



「ヤダあんた、警察呼ぶわよ」

 私と隆太くんを見た明ちゃんの第一声がこれだった。濃い茶色のベリーショートヘアがよく似合っている。

「誘拐じゃないから」

「誘拐じゃないならなんなのよ! あんたそういう趣味があるなんて知らなかったわよ」

「ないし、でかい声でやめて」

 美咲さんが困ったように笑っている。

「この子どうしたの? 迷子?」

「いや、ちょっといろいろあって……」

 私は事の成り行きを二人に説明して聞かせた。そもそも私自身が詳しい事情をわかっていないので、それはそれは骨の折れる作業ではあったのだが、苦労をして何とか伝えきれたとは思う。とは言え、明ちゃんも美咲さんも決して納得できたという顔ではない。どうしてとか何故とかいう疑問にはほとんどまともに答えられていないのだから当然かもしれない。

 食品売場のお惣菜コーナーの前でカートを囲んで私たちは長々と話し合っていた。人の少ない時間帯で本当によかった。

「なんであんた事情を聞かなかったのよ」

「聞く暇なかったんだよ。バイトに遅れるから後でって言ってすぐ行っちゃったから」

「まあ、あたしたちは構わないけどさ。本当に大丈夫なのかしら、よその子よ? 保護者もなしに連れ帰っていいのかしらね?」

「そうなんだけど、かわいそうじゃない。家にいられないって、私たちみたいなもんじゃん」

 私が必死にそう訴えると、明ちゃんも何も言えなくなってしまった。そうなのだ。何故、の部分はわからないにしろ、家にいられないという大きな大きな一点で私たちと隆太くんは同じだ。私たちが寄り集まって暮らし始めたように、隆太くんも集まってきたに過ぎない。

 明ちゃんと美咲さんは少し顔を見合わせてから、まあいいんじゃないのと言った。

「もう預かっちゃったんだから仕方ないわね」

「こんなに小さいのにかわいそうだもの」

 こうして隆太くんは一晩、見知らぬ女たちの家にひとり泊まることになったのだった。

 

 

 連れ帰った隆太くんは、家にあがると物珍しそうに部屋の中を見回した。何か気になったかと訊ねたら、うまく言葉にできないのか「なんかお店みたい」と言ったきり黙ってしまった。

「すごく古い家なんだけど、お店っぽいかな」

「……明るいし、いろんなものがある」

 隆太くんは固い響きで答えた。

 彼は、人見知りをしている様子もないのに本当に無口でおとなしい子供だった。遠慮して恐縮しているふうでもなく、私たちを拒絶しているふうでもない。なのに物静かでおとなしく、聞かれたことにだけ淡々と答える。そういう意味では良い子とも言えた。ただそういう子なのだと言ってしまえばそれまでだけれど、どことなく抑圧された歪みみたいなものも感じられる。こうしていなければいけないから、という彼の処世術なのだろう。

 木嶋くんに持たされたものだろうおにぎりをリュックから取り出して、それを食べながら私たちが次から次へとよそうお鍋の餃子や豚肉をたいらげる。それからひとりでお風呂に入って、歯を磨いて、リュックを片手に用意してあげた和室に入っていった。とても静かに襖が閉まる。パジャマを着た小さな背がその向こうへと消えていった。何も拒絶せず、けれど受け入れもしない空虚な背中。

「……なんだか心配になるわねえ」

 その背中を見送ってから少しして、明ちゃんがため息をついた。美咲さんも崩れるように両手で頬杖をついて情けない顔をする。

「何かしてあげられることがあればいいんだけど……」

 私はテーブルに並んだチューハイやビールの缶を見つめながら、車中でのことを思い返していた。

 スーパーから家へ帰るときのことだ。運転席には明ちゃん、助手席に美咲さん、そして後部座席には私と隆太くんが座っていた。

 私達は恒例のお楽しみの夜とあってはしゃいでいたけれど、隆太くんはつられることもなく静かなままだ。窓の外の流れる景色を見ているのか、それともただ顔を向けているだけかもしれない。

「隆太くん」

 その横顔に声をかける。ゆっくりと振りかえる姿に、子供らしさはなかった。見知らぬ大人に預けられている恐怖とか緊張とか、はたまた非日常的な空間に興奮したりだとかもなく、ただただ深く固く光の乏しい瞳が鈍くまばたきを繰り返す。

「どうしてお家にいられないの?」

 明ちゃんと美咲さんにわずかに緊張が走るのがわかった。

 すごく重要なことだけれどすごく踏み込みにくい部分でもあって、なんとなくみんなどうしようかと思いつつ先延ばしにしてきたが、訊ねないわけにもいくまい。なにより隆太くんを預かったのは私だった。木嶋くんは詳しいことは彼に聞くよう言っていたし、預かった以上は責任がある。

 すると隆太くんはそのまま真っ平な瞳でこちらを見たまま、気負いなく口を開いた。鍋が好きか尋ねて好きだと答えたときと同じように。

「父さんが暴力振るうから。僕も殴られたりしそうなとき、兄ちゃんが家にいれば外に連れてきてくれる」

 私たちは重い現実を暴露する子供を目の前に、情けないことに絶句したままだった。お気に入りアーティストの歌声だけがむなしく響き渡っている。

 いち早く立ち直ったのは美咲さんだった。美咲さんは親にではないけれど、恋人に暴力を受けていた。おそらく私たちの中でいちばん隆太くんに理解を示せる人だ。なにより美咲さんはとてもやさしい。

 何をどう言っていいのかわからないまま車は自宅へと辿り着き、各々気まずいまま車を降りた。バックドアから荷物を取り出している間、車のそばにぼんやり立っている隆太くんに、美咲さんはそっと近づいた。弱い風にゆるいウェーブの髪が揺れる。

「やさしいお兄ちゃんなんだね。かっこいいね」

「うん」

「あのね、お兄ちゃんは隆太くんのこととっても好きだから、やさしくもかっこよくもなれるんだと思うよ。隆太くんはもう十分すぎるくらい良い子だよ。だから、どんなにお家がうまくいかなくても、自分のせいだって思わなくていいんだよ」

「………」

 私と明ちゃんは手を止めてふたりの様子を見た。隆太くんが美咲さんを見上げている。それは今までとは少し違う真摯な視線だ。

 彼は何かを見つけようとするようにじっと美咲さんを見上げていたけれど、やがてこっくりと頷いた。私はそれで何かが変わるのではないかと期待したけれど、目に見えて何かが変化するということはなかった。隆太くんの背は相変わらず私たちを受け流すばかりだ。彼はすでにあらゆる事象を、ただただ通り過ぎるのを待つことで耐える術を覚えてしまっているのかもしれなかった。それは本当に悲しく惨いことだと思う、まだたった十歳の子供だというのに。

 静かな部屋に流れる深夜番組の笑い声がなんだか浮いている。

「……木嶋くん、留年してるって言ってた。もしかしてそれも家庭の事情でなんじゃないかな。大学行って、バイトして、弟も守ってるわけでしょ。大変すぎるんじゃないの?」

「負担はあるでしょうねえ。かと言って、あたしたちが首突っ込むわけにもいかないじゃない? よその家庭のことなんだし……でも虐待とかD∨ってことよね? 通報するべきなのかしら」

 明ちゃんが眉を寄せて身を乗り出してきた。私と美咲さんもつられてテーブルに体を寄せた。三人顔を突き合わせての話し合い。

「でも通報できるならもう木嶋くんがしてるんじゃないの? 勝手に私たちがしていいのかな」

「警察っていうより、隆太くんならまず児童相談所じゃないのかな」

「そうかもしれないわね。母親のほうはどうなのかしら」

「木嶋くんが連れ出して守ってるんだから、最悪お母さんも暴力受けてるんじゃないの……」

「お母さんのほうは女性センターだと思うけど」

 私と明ちゃんは真面目くさった顔をした美咲さんを見つめた。美咲さんは一時女性センターにお世話になったことがあるのだ。なんだか気がしぼむように落ち着いたので体を起こして座り直した。明ちゃんが咳払いをする。

「何にしろ、やっぱり木嶋兄と話をしなきゃだめね。とは言えあたしと美咲ちゃんは会ったこともないんだから、汐美、あんたがきっちり話つけるのよ」

「話つけるって……いや、話はするけどさ。そういや、バイトの休憩時間に連絡するとか言ってたな」

「あら、番号交換したの?」

「ううん、隆太くんの携帯に電話するって」

「え、隆太くんもう寝ちゃったんじゃない? 携帯鳴ったら起きるのかな、それもなんかかわいそうだね」

 美咲さんが立ち上がり、「ちょっと様子見てくる」と冷えた廊下へ出て行く。小走りの彼女が羽織る薄手のロングカーディガンがなびいて、尾のように揺れて消えた。

「……しかしまた、家庭に難アリの人間が集まるもんねえ」

 明ちゃんが缶ビールを煽り、立てた片膝を抱える。

「私、隆太くんに家庭の事情があるって聞いてからずっと勝手に仲間だと思ってるからね」

「ほんと勝手ね。それにしてもなんだかもどかしいわ、こうシュッとスパッと助けてあげられたらいいのに」

「シュッとスパッとね」

「シュッとスパッとバシッとよ」

 明ちゃんは情けない顔でビールを飲んでは指先でテーブルに円を描いていた。

 シュッとスパッとバシッと誰かを救えるのは物語の中のヒーローだけだ。近頃のヒーローなら、そんなふうに華麗には片付けられずに犠牲を出したりもするかもしれない。今どきはヒーロー界だって世知辛いはずだ。

 だからごくごく人並みで、平凡というにはちょっとうまくいかなかった私たちに、他者を華麗に救えるはずがなかった。自分自身を救うことですら持て余す。でも隆太くんのために何かをしてあげられたら、救ってあげられたらと願う私たちの気持ちに嘘はない。人はいつだって、したいことと出来ること、理想と現実の差に苦しみ、悲しむものなのだ。

 隆太くんの理想と現実の差はどのくらいあるのだろう。理想すら己の中を通り過ぎるのを待っているのだろうか。

 やがて美咲さんが携帯を片手に戻ってきた。安心子供携帯だ。

「隆太くん起きてた。まだ電話は来てないけど、そろそろ来るはずだって。電話鳴るたび起きるのもかわいそうだから、預かってきたよ」

 はい、とその丸いフォルムの携帯を手渡される。かわいいおもちゃのような水色だ。手の中に収まる小さな携帯。これは一体誰がどのような考えで隆太くんに持たせたものなのだろうか。この手のひらサイズの小さなものに、どれだけの思いが込められているのだろう。想像すると胸が締め付けられた。

 木嶋くんから電話がかかってきたのは、それから四十分ほど経ってからだった。

 安心子供携帯がおそらくプリセットのかわいらしいメロディを奏でる。

「あ、着信」

「あら、ようやっとね。早く出なさいよ」

 明ちゃんに急かされて着信ボタンを押す。美咲さんはこの四十分でずいぶん酔っ払ったらしく、赤く染まった頬でザッピングをしていたリモコンを放り出した。

「もしもし」

 電話に出ると、携帯の向こうで何かを言いかけた声が戸惑いに変わった。

「こちら隆太くんの携帯ですよ。もう寝てるから借りておいた」

『あ、ああ、佐伯?』

「そう。驚いた?」

『驚いたよ、ほんと驚いたよ。かけ間違えたかと思った。間違い電話かけるなんて六歳のとき以来だ』

「間違えてないから大丈夫」

『それもそうだね。ところで、隆太寝てるの?』

「たぶんね。もう部屋に引っ込んで四十分以上経ってるし。代わる? できれば起こさないであげたいと思ってるんだけど」

『いや、いいよ。ほんとごめん。いきなりのことなのに親切にしてもらって』

「たいしたことはしてないよ。部屋だってもともと空いてた部屋だし、気にしなくていいよ」

 こうして普通に話をしているけれど、他人の視線がある中での会話というのは妙な緊張感がある。しかも結構な熱視線なものだから落ち着かない。ともすれば気が散って木嶋くんの言うことを聞き流しそうになるのをなんとか堪えた。

「ねえ、それよりさ、今長話できる?」

『今? そうだなあ、あと五分ちょっとなら。でも今日早めに上がらせてもらえることになったから、長話なら終わってからのほうがいいんじゃない? あ、でも早めって言ってもあと二時間くらい仕事なんだけど……それからじゃあ遅すぎるか』

 時計を見上げると針は深夜零時近くを指している。

「こっちに着くのは何時くらい?」

『三時にはならないはず』

「うん、いいよ。私、起きてるから」

『ほんと? 俺、自分の時間感覚で言っちゃったから、無理はしなくていいよ』

「大丈夫だよ。夜型だし、次の日休みなら大抵そのくらいまで起きてる」

 夜更かしだなあ、と言って木嶋くんは笑った。

『じゃあ、なるべく急いで行くよ。いろいろありがとう』

「うん」

 それから最後に家の住所を伝えて、私たちの通話は終わった。明ちゃんと、少し眠そうな美咲さんが今にも私の肩を揺さぶりそうなほど身を寄せてくる。

「で、どうなったのよ」

「えーと……三時頃こっちに来て、それから話すことになった」

「三時は眠いよう、寝ちゃうよう」

「あんたずいぶん飲んだわね」

 駄々をこねるようにテーブルに突っ伏した美咲さんに、明ちゃんは楽しげな声を出した。あまりお酒に強くない美咲さんが眠くなるまで飲むことはあまりない。この際だからもっと飲ませようなどと考えているのだろう。

「私は起きてるからさ、二人は眠かったら寝ていいよ」

「私だって起きていたいよう」

「はいはい、じゃああたしと一緒に頑張りましょ。さ、飲んで飲んで」

 ぐいぐい飲まされる美咲さん。

 それからはいつもの休日前の日のように、お酒を飲んで深夜放送のB級映画を見て楽しく過ごした。

 

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