夏の叔父、仏間の叔父、X'sの一夜

目々

真夜中は別の顔

 中学二年の頃、学校に行けなくなった。

 明確な理由はなかった。しいて言うなら何もかもが面倒だったぐらいしか思い当たらない。何もやりたくないしできないのに、目的の曖昧なままに焦燥感だけが募っていく。それでも何をすべきなのかだけは皆目分からず、結果無力感だけが増していく。


 ヒネた子供にありがちなことだと、今なら思い返すこともできる。それでも愉快な思い出ではないし、ほろ苦い思春期の傷跡と感傷に浸るほど甘美なものでもない。


 生活リズムも睡眠時間もめちゃくちゃだった。

 生活することを放棄しているのだから当たり前ではある。両親と顔を合わせたくないのと真人間の話ばかりしている世間を見たくないのとで、夜に起きて昼に眠るような真似をしていた。誰にも顔を合わせずに済むし、何も聞かずに済む。一番負荷が低かったのだと、今更ではあるが納得できなくもない。


 ぐちゃぐちゃの生活だった。昼間から目を逸らし夜をただ無為に食い潰すだけの毎日だった。

 その最中のたった一夜、それが俺の致命傷になった。


 ひどい熱帯夜だった。

 喉の渇きに耐えかねて、階下に降りた。時計は一時を回っていたから両親が起きているはずはない。


 だから台所に明かりが点いているのも換気扇の唸りが聞こえるのも消し忘れだと思っていたので、居間のドアを開けた途端に台所に立つ人影を認めたときに叫び出さなかったのはたまたまだった。


「久しぶりじゃん、海斗かいと。俺んこと覚えてる? 智道ともみちおじさん」


 煙草片手に気軽に声をかけてきたその人が自分の叔父だと分かるまで時間がかかった。

 智道さんは年齢的にも血縁的にも、俺にとってのおじさんだ。父と幾つ年が離れているのかは聞いていない。外見から年齢を計ろうにも難しい。大体いつもフェス帰りの若者じみた恰好で、黒髪でこそあれ緩くウェーブのかかった髪をしている。年齢どころか職業が何なのかも分からない。それでも父さんや実家の親婆ちゃんとも別に険悪なわけでもないらしい。

 職業不詳、年齢不詳、コーヒーを淹れることがやたら上手いのと性別以外はおよそ分からない。そんな人間が、俺の叔父だ。


「何でいるんですか」

「ん、仕事が暇になったから旅行。ついでに兄さんに会おうと思って」


 仕事をしているのかと聞こうとして、自分の立場を思い出して口を閉ざす。何もしていない人間が聞くべきことではないだろう。


「今ド深夜だけど何してんの。寝れない? 俺は寝れない。暑いから」

「俺もそうですよ。クーラー入れると冷えすぎるし、寝づらいんです」

「あそう。嫌だよな熱帯夜。俺も苦手」


 叔父さんは何度か煙を吐いてから、


「じゃあコンビニ行こうか」

「は?」


 唐突な誘いに間抜けな声が出た。


「俺今アイス食べたいんだけど、人んちの冷蔵庫に手つけらんないじゃん。だから買いに行こう」


 そのまま車に乗せられて、近場の──といっても二十分はかかるのだが──コンビニに着いた。田舎のコンビニらしく馬鹿みたいに広い駐車場には叔父さんのやたら薄っぺらくて小さい車以外は見当たらず、熱気を孕んだ闇に虫の声が滲んでいた。


 買ったモナカアイスを、コンビニの外で二人並んで齧る。時折頭上の誘蛾灯が弾ける音がやたらと大きく響くような、そんなぼんやりとして生温い夜をただ眺めていた。


「夜に出かけるのってさ、また昼と違うなんかがあるよな」

「言ってることがふわふわしてません?」

「うまいこと言えないんだよ、頭悪いから……ただまあ、夜の方が俺は気楽だよ」

「気楽」

「うるさくない。人の目もない。こっちも向こうを見ずに済むからね、楽なのは好きだよ」


 俺の現状に当てつけているのかとも思ったが、そういうわけでもなさそうだった。

 もそもそと最中を齧る横顔からは何の意図も読み取れない。


「昼が嫌いなんですか」

「ん……そういうもんでもないさ。好きの反対が嫌いってだけでもないだろうし。ただ俺にはあんまり向かないってこと」


 横顔のまま、真っ黒い目が俺の方を向く。

 ぽつりと刺青のような黒子のある口元に滲む笑みが、薄青い誘蛾灯に照らされていた。


「合う合わないってだけだもんな。それだけで良くも悪くもない。簡単なことだよ」


 そんなことを言ってアイスを食べ切った叔父さんは帰りがけにアイスコーヒーを追加で購入していて、俺にもよく冷えたコーラを買ってくれた。

 帰りの車内で握っていたペットボトルはいつまでも冷たいままで、俺の指先だけが闇の温度の中でやけに冷えていた。


 次の日の夕方に目覚めたときにはもう叔父さんはいなかった。一泊だけの予定だったのだろう。あの人俺にアイスとコーラ奢っただけだったなと考えて、親戚のおじさんとしては破格の対応だったんじゃないかと思った。


 俺が学校へ行き出したのはその一週間後だった。

 劇的な転換点というわけでもなんでもない。あの夜から何だか色んなことがどうでもよくなったというだけだ。そもそもの動機すら曖昧なのだから、曖昧に再開したところで困ることも何もなかった。


 そうして何事もなく進学し第一志望に合格し、高校生も二年目を迎えた夏。

 久しぶりに父の実家に帰省した。


 俺の受験や諸々で帰るタイミングを逃していたのだが、高校にも無事進学し中だるみの二年生という暇な時期であることと、母が友人と旅行の予定を入れていたのもきっかけのひとつだった。何の予定もない俺としては喜んで帰省の車に乗り込み、古臭い洋楽をお供に深夜の高速を往くことにしたのだ。


 久々に帰った実家では祖母は未だに健在で、あの頃はあちこちをふらふらしていた叔父も今では大人しくこのだだっ広い一軒家に住んでいるようだった。


「ご先祖様さ挨拶しへ」


 相変わらずの有無を言わさぬ調子で祖母に言いつけられて仏間に行く。

 襖を開けた途端に度肝を抜かれた。

 見慣れていた大机は書籍に埋もれている。傍らには扇風機と、その風をまともに受けるであろう経路にPCが置かれている。部屋の隅に畳まれた布団が鎮座しているのが、ここで寝起きしている人間がいるということをどうしようもなく証明していた。


「作業部屋と仮眠部屋にしてんだよね、風通しいいから。あと回線がここが一番安定して取れるから」


 背後から聞こえた声に振り返る。

 見上げれば、予想通りで懐かしい顔があった。


「久しぶり。背、だいぶ伸びたんでない? 海斗」


 生きてたんなら何よりだとおよそ現代社会においては大袈裟でしかないことを言って、叔父はあの夜と同じように笑った。


 夏の帰省、久方ぶりの実家。そうなればおよそ起きるイベントなど予想がつくものだ。


 祖母は皺こそ増えたが背も曲がらず物言いも相変わらず苛烈で、しばらく顔を見せずにいた父と俺をひとしきり詰ってから寿司を注文しとっておきであろう梅酒と日本酒の瓶を出してから「今日はくたびれたから寝る」と自室に引っ込んでしまった。


 そこからは全く定型的な展開だった。

 父と叔父──兄弟は揃って酒を飲みながら方言で知らない話を続け、俺はふいに振られる脈絡のつかめない話に曖昧な返答を返す。食卓の寿司は食い散らかされ、その隙間を埋めるようにどこからか出されたつまみが次々と並ぶ。

 およそ酔っ払いの会話に素面で付き合わされるほど面白くないこともない。俺も祖母に習い、風呂に入って寝ることにした。どうせ起きていたってやることも行くところもないのだ。


***


 汗ばんだ額に髪が張りつく。被ったタオルケットに体温がこもる。シーツはとうに人肌と同じ温さになっていて、転がるだけで不愉快な代物に成り果てている。


 寒冷地とはいえ、このところの異常気象じみた暑さからは逃れられないのだろう。

 見事なまでの熱帯夜に、俺は寝付けずにいた。


 闇の中で探り取ったスマホの画面には午前一時の数字が浮かぶ。階下の父と叔父酔っ払い連中はまだ飲んだくれているのだろうか。

 どの道このままでは眠れそうもないし、これだけ汗を掻いていたら熱中症の危険もある。様子見がてら水分補給ぐらいはしてもバチは当たらないだろうと、俺は寝床から身を起こした。


 夜の廊下を歩けば、足裏に伝わる冷やかな板の感触でいくらか気がまぎれた。


 周囲は静まり返っている。居間も明かりが点いている様子はなく、恐らく父も叔父も酒宴を切り上げて割り当てられた部屋に戻ったのだろう。二階には気配がなかったから、恐らくは下の洋間だろうか。クーラーが設置されているからさぞ快適だろうと考えてから、酔っ払っていたら意味もない。少しだけ愉快な気分になった。


 そのまま居間に向かおうとして、ふと足元に伸びる光に気づく。


 仏間の閉じられた襖から僅かな光が漏れている。

 消し忘れだろうか。それとも叔父が作業でもしているのだろうか。もしかしたら酔い潰れてひっくり返っているのではないか──幾ばくかの心配と、単純な好奇心。人の私室を覗き込むという罪悪感からなるべく目を逸らしながら、俺は襖へと忍び寄る。


 仏間の襖、その隙間から覗いた光景。

 垣間見たその情景に俺は釘付けになった。


 叔父がいた。

 PCを前に、誰に見られていることも気づいていないだろう様子の、無防備な叔父だった。

 乾き切らない髪が照明に中途半端に光る。生白い肌は僅かに上気して、風呂上りそのまま、ろくに髪も拭わずにいたのだろうことは予想がついた。


 俺が覗き見を後悔したのは、その目を見たからだ。


 PCを前に、画面を睨む双眸。

 冷え切っているのにぎらつく黒い目──敵意と、悪意、そしていくばくかの興奮を混ぜ合わせた目に、俺は反射的に背を向けた。


 居間に駆け込み、ドアを閉め、どうにかキッチンの薄赤いランプだけを着ける。どくどくと鳴る心臓を抱えて、床に蹲った。


 ──あんな顔をするのか。


 垣間見た一瞬、その一瞬を幾度も反芻する。

 俺が見たこともない視線。あんな目をする人だったのかという動揺。先程の食卓で見た笑顔と、馴染んだ軽薄な口調を思い浮かべては、あの黒い目に全てが塗り潰される。


『夜はさ、いいよな。誰の顔も見なくて済むから』


 職業不詳、年齢不詳、趣味も経歴もろくに知らない。けれども、俺はあの夏の夜の叔父を知っている。

 誘蛾灯に照らされた叔父の微かな笑みとその口元の黒子。焼き付いて消えないいつかの夏の面影に、胸がざわついた。

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