「第二十九話」《回想》今も尚、疼く傷③
日が沈み始める空の下で、結ばれるべき二人を乗せた馬車が駆けている。一頭の馬が牽引するそれにはニンベルグ家の家紋が入っており、乗り心地は良いはずだった。
「……」
しかし、ソラはいい顔をしていなかった。寧ろ逆だ、とても苦しそうな、何かに怯えているような表情である。それは同乗しているジークにも分かることであったが、ソラは他人の目を気にしている余裕なんて無かった。──それよりも彼女は、膨らみ続ける悪い予感に震えていた。
「ソラ、大丈夫かい? 何かこう……僕が何かしちゃった?」
「急いで」
「え?」
ソラは身を乗り出すようにして、目の前のジークに言った。その様子は実に焦燥に駆られており、ただ事ではないという印象を強く与えた。
「嫌な予感がするの、お願い」
「……」
根拠もない、ただの「嫌な予感」でしかない。具体的に何なのか、どんな意味で言っているのかもジークには分からない。
「分かった、急ごう」
故に、ジークはソラを信じた。命の恩人であり、友人であり、最愛の妻である彼女の勘を信じたのである。彼は同じく不安に駆られ、剣士としての感覚を呼び覚ましつつあった。
馬の鳴き声とともに、馬車は加速した。
◇
土埃を立てながら、馬車はようやく屋敷に辿り着く。既に日は沈んでおり、辺りは暗く闇に包まれていた。夜が持つ静けさは、ソラの悪い予感をさらに加速させる。──そしてソラは、馬車の窓越しに何かを感じ取った。
人の声。──いいや、それは悲鳴だった。
騒がしい物音。──中で、何かが起きている。
「──っ!」
そんな訳がない、何かの間違いだと思いたかった。ずっとそうだった、この嫌な感じがする度にそう願ってきた。──だが、それはまたしても叶わない。予感は自分史上最悪の事実として顕現してしまったのだから。
「待って」
走り出そうとするソラの腕を、ジークは強く掴んだ。ソラはそれでも屋敷の方へと走ろうとして、しかし彼もまたそれを強く引き寄せた。抱きしめるような、羽交い締めにするような形でソラを押さえつける。
「離して、お願い! 分かるの、あの中でお兄様が戦ってる!」
「何を言ってるんだ、君が行ったところで何の解決にもならない! 状況も敵の数も分からない、おまけに自分の身さえ満足に守れないんだぞ!? ──だから」
ジークはソラの目を見ながら、その方を強く優しく掴んだ。彼の中での戦意と、それ以上の覚悟が練り上げられていくのをソラは感じていた。そして、これまで感じたことがないほどの恐怖を抱いた。
「僕が行く」
「……だめ」
「腐っても僕はニンベルグ家の『剣聖』なんだ、絶対に負けない。父さんも言ってたじゃないか、勝つだけじゃなくて守れるような強さを持てって……僕は、これから家族になる人たちを見捨てるような人間になりたくない。──君の伴侶として、恥じるような選択は嫌なんだ」
「だめ、ダメダメダメ! うまく言えない、うまく言えないけど駄目。行っちゃ駄目!」
既にあった予感の上に、更に重ねられた予感。それは居座っていた予感が可愛く思えるほど大きくて、重くて、叫びたくなるほどの恐怖をソラに叩きつけていた。それは未来か、はたまた極度の不安からなる幻覚なのか? 具体性を帯びてしまったそれは、遂にソラの頭の中に像を結んでしまった。
「──眠れ」
発狂寸前のソラを、とてつもない眠気が襲う。それは魔法だった、他の誰でもない、ジークがソラにかけた魔法だった。
(行かないで……)
「心配しないでよ、ソラ」
微睡む意識の中で、ソラは笑顔を見た。ジークの笑顔、自分を安心させようとする、彼のあったかい優しさだった。
(行っちゃ、駄目なの)
「僕は死なないし、誰も殺さないし死なせない。──真の最強とは、相手の誇りのみならず命をも尊重する。だから、信じて待っていてほしい」
その一言を最後に、ソラの意識は沈んでいく。穏やかな彼の笑みが、うっすらと見える惨状にそっくりそのまま重なっていた。
倒れる寸前にジークはソラを抱きかかえ、馬車の方へと歩いていく。扉を開けそうっと寝かしつけ、何の憂いもなく背を向けた時だった。ジークはその背中に寂しさと、悪夢にうなされているかのようなソラの声を受けた。──不完全な覚悟を確固たるものにするために、彼はその寝顔に口づけをした。
「……広く、強く笑う君が好きだった」
困惑している御者に持っていた金貨を数枚渡すと、馬車は勢いよく走り去っていく。段々と小さくなっていくそれを見送りながら、ジークはようやく覚悟を固めた。心残りなど消せるわけもない、この世への未練などありすぎて困る。
(だから、死なない。絶対に死んでたまるか)
虚空に叩きつけた拳、異空の亀裂から引き抜かれたそれは美しい剣だった。黄金の如き光を纏った鋼、古めかしさの中にある確固たる威厳。長さは彼の身の丈ほどあるその大剣は、神々しさをそのまま形にしたと思わせるほどの完成美を放っていた。──『聖剣』バルムンク。ニンベルグ家の秘伝にして、誇りの象徴。
ジークは己の死期を悟り、それでも尚覚悟を決めた。逃げるではなく立ち向かう、殺すではなく制す、勝つだけではなく守る。──欲張りに、そしてその先にある何かにさえ手を伸ばし続けて。
彼は、死地に赴いた。
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