嵐の前のしずけさ

 優しく、髪を撫でられる。遠慮がちに、そっと。壊れものに触れるように、慈しむように。

「あ、ごめんなさいっ。起こしてしまったわね……」

 エンジン音と、ほのかなジャスミンの匂い。

 莉花の頭を支えるのは、人の膝のようだった。視界の先に、すらりとした黒タイツの足がある。

「向島さんの車の中よ。莉花の家についたら起こすから寝ていなさい」

「膝枕やだ。起きる」

「無理をしないの」

 寝起きのせいか、視界がぐるぐる回る。頭もずきずきと、妙に痛い。

「あなた倒れたのよ? ちゃんとわかってるの?」

 なるほど、そのせいか。空手の試合で脳震盪を起こしたときと似ている。頭をぶつけたのかもしれない。

「……喉渇いた。お腹すいた。帰ってもご飯ないから、ファミレス行きたい」

「ねえ、うちに、くる?」

「やだ盗撮される」

「しませんっ!! ……さすがに、病人は躊躇うわ」

 知っている。自分が元気だったら、美月が変態行為を躊躇わないことは。

「おなか、すいた~」

 膝枕から起き上がって主張すると、運転席でくすくす笑っていた向島がウィンカーを出した。

「姫のお望み通り、そこのファミレスに入りますね。少し休憩しましょう」

「……すみません」

 時刻は十八時過ぎ。飲食店が込み合う時間帯だったが、団体客がちょうど出て行ったところで、広いボックス席に案内された。各々注文を済ませると、美月が莉花の分もドリンクバーを取りに行くと席を外そうとする。

「莉花ちゃんは、いつもどおり、甘いココア? ご飯食べるんだし、ハーブティのほうが良くない?」

「……ううん、ココア~ 甘いの好きだから」

 あったかくて、甘くて、幸せになれる飲み物。そう教えてくれた人がいた。

その人の優しい空気を思い出していると、向島が口を開く。

「大丈夫? さっきはひどく顔色が悪かったけど……」

「ご心配をおかけしました。ちょっと貧血気味で。ひ弱なんですよね~」

「いやっ! ……あんなものを見たら、気分を悪くして倒れるのは無理ないよ」

「えー、向島さんは大丈夫じゃないですか。美月ちゃんなんて、ケロっと、和風ハンバーグ注文しましたし」

「俺は男だから……あー、倉科さんは意外だったかな。あれを見た直後に、肉料理を頼むとはね。繊細そうに見えたんだけどな」

「女の子は強いんです。私だって、強いですよ~」

「……俺には、強がってるように見えるよ? 女の子なんだから、もっと頼ってくれればいいのに」

「あはは」

 私のなにを知ると、莉花は内心、せせら笑う。

 人はしたたかだ。どれほど弱々しく見えても、ご機嫌取りに嘘、打算的な友人関係は当たり前。時には自分の心すら騙して、生き残ろうとする。

 そう。

人は自分の心を守るためなら、都合のいいように記憶を書き換えることも珍しくないのだ。

 例えば、子供の頃に見た、鳴海由紀の遺影。

ユキの顔と違うと思ったけれど、優しいおじさんがユキを殺したと思いたくなくて、無意識の内に記憶を捏造した可能性は0ではない。誘拐犯を優しいと感じたのも、親に愛されない寂しい子供が、卑劣な犯罪者を美化して夢を見たのだと言われたら否定しきれなかった。

 常識と照らし合わせたら、そちらの可能性のほうが高いだろう。

 ……恐いな。

 河川敷の遺体の様子が、脳裏から消えなかった。

「……本宮さん? 気分悪い?」

「えー、なんかちょっとぉ、ぼーとしちゃって~。ここ、暖房効きすぎじゃないですか?」

軽く交わしながら、莉花は早く一人になりたいと思った。

 一人になって、何が変わるわけでもないけれど。胸の内がぞわぞわと落ち着かず、ともすれば叫びだしたいような、逃げ出したいような、妙な気分だった。

 ファミレスに寄りたいなんて、言わなければよかった……

 注文した中華粥をさっさと片付けると、莉花はココアの甘さを味わいながら、二人が食べ終わるのを待つのだった。


 ◇◆◇


 人は嘘をつく。

「栗林……なにか隠してないか?」

 最近移動してきた若い刑事に連絡してすぐ、倉科は違和感に眉をひそめた。

 気弱なところがある、二十半ばの男は、口ごもり、あれこれ言い訳じみたことをまくしたて、誘拐事件の被害者が遺体で発見されたことを白状した。こともあろうに、六時間以上前に、だ。

 いろいろな意味で、舌打ちをこらえることはできなかった。

 が、十二係の古狸の名が出てきたことで説教はやめた。

「次、古瀬さんに惑わされて情報止めたら、お前、丸刈りな……言ったからな」

「そんなぁ。僕も必死なんですよ。主任の別行動を、なんとか誤魔化したり。今日だって」

「今日は非番だ。俺がなにをしようと、とやかく言われる謂れはない」

「八年前の線はないって決まったじゃないですか。捜査方針に逆らって被害者遺族に会ったのがバレたら、ヤバいんですよ」

「なんだぁ、お前……俺を脅す気か?」

 犬歯を剥き出して笑む。真一郎たちの前では決して見せない刑事の顔。

ドスの効いた声に、ひっと息を呑む気配がしたが……

「っ……僕はっ! ……けっこう、リアルに心配してるんです!」

「………………」

 栗林はいい奴だ。しかし、いい奴は刑事にあまり向かないんだよなぁと、四十を過ぎた倉科刑事は、そっとため息をついた。

「なあ、栗林。キャリア試験をもっと真剣に受けろよ。こんな、毎日、泥みたいに駆けずり回ってないでよぉ」

「……なんで今の話の流れで、そうなるんすか? 可愛い部下に心配されて、涙ぐむところでしょ」

「野郎がてめえを可愛い言うな。それより遺体の状況は? 報告しろ」

「はい! 被害者は先月初めに誘拐された川島絵麻。十一歳。三番目の被害者です。検視官からの報告では、死因は失血死。被害者が逃げて倒れたところを犯人が馬乗りになって、鋭利な刃物で背中を何度も刺し、その後、衣服などを全て取り去って、河川敷に遺棄した模様。司法解剖は明日の午後を予定していますが、見立てでは死後三日だそうです」

「……そうか」

 刑事として生きていると、どうしようもなく哀しく、どうしようもない人の業を目の当たりにする。だいぶ感覚が麻痺してきても、子供が関わると胸を抉られた。

「出てきたのは、三番目の被害者か」

 一番目、二番目はどうしているのか、などについては話さなかった。手の届かないところで安否を気遣っても被害者は救われない。悲しみも憤りも呑み込んで、犯人の喉笛に喰らいつく糧にする。それが刑事だ。

「主任。これは本当に八年前の事件と関係があるんですか? 僕でも手が違うと思いますが……」

「さあ、知らん」

「知らないって」

「俺は何か確信して動いているわけじゃないんだ」

 ただ無性に気になる。だから動いた。それだけだ。

「……主任、僕をからかってるんですか?」

「心理学者のユングは、人は宇宙の一部であるから、宇宙全体を感じ取っていると言っている」

「はあ」

「つまり。この世には偶然というものはなく、全てが必然であり、自覚できないだけで無意識下では全ての真実を予測している。息をするように、人は未来を察知しているという」

「……あの。それ占いかなにか、ですか? そういうオカルト的なのは、ちょっと信じてないというか、嫌いというか」

「奇遇だな。俺もその手のものは嫌いだ。だが……」

 ときどき、どうにも気になることがある。その気になっていることを調べつくして、必ずしも犯人に繋がるわけではない。しかし、それを調べなければ行きつかなかった重大なことに当たる率は、空恐ろしいほどに高い。

「ま、今回はハズしたようだが。非番だから問題はないだろう」

「……主任ってマイペースだって言われません?」

「みんながずっと同じ方向を見ていたら見落としが生まれるだろ。一人くらい、こういうのがいたほうが、組織に柔軟性が生まれるというものさ」


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