第5話 勉強かい

 僕と烏山さんの身体が入れ替わってから、もう二週間が経つ。外身と中身が異なる人間として生活をすることに、ちょっとした問題は度々発生したけれど、案外どれもなんとかなっている・・・・・・ほとんど烏山さんのおかげだけど。

 彼女はとても機転が利いた。

 ・・・・・・けれど本音だけで言えば、そろそろ僕の身体を返してほしいとも思っていた。

 楡木悠の身体で小田原ゆきを攻略する、という烏山さんの提案に関しては、既に十分に達成していると捉えている。放課後にデートをしたことも勿論そうだし、今では烏山さんは、休み時間や移動教室の際にも小田原さんと自然に話せていた。

 情けない話になるけれど、むしろこれ以上小田原さんとの仲を進展されても困ってしまうと思う僕だった。この状況をゲームで例えるならば、僕のセーブデータを使って難しい面まで進められたあとに、ボス戦手前で急にコントローラーを手渡されるようなものだ・・・・・・即死しちゃうよ。

 それならどうして、身体の返却を烏山さんに求めていないかというと、<烏山なすのの身体で柳生邦彦と親しくする>という彼女からの依頼を、僕が達成できていないからだった。今にして思えば<攻略する>とか<親しくする>とか曖昧な表現を使ってきてしまったせいで、明確にどこまで進展させればお互いが満足するのかを、僕たちは共有できていないのが痛かった。そろそろ身体を戻したいんだけど――そんな僕の本音を、烏山さんにはいつ伝えればいいのかが読めない。

 一応僕だって、烏山さんの身体で邦彦と話をしたことは何度だってある。ただそれも、一日に一回とかそんな頻度だ。こんな<ただのクラスメート>程度の関係で烏山さんのOKがもらえるとは考えにくい。

 ・・・・・・僕も邦彦と放課後デートしなきゃダメかな?

 いや、そんなのは無理だ。だって相手はあの柳生邦彦なのだ。

 というかそれで言ったら、そろそろ烏山さんだって、邦彦の本性を知ったって良い頃合いだと思うんだけどなぁ・・・・・・あれさえ知ってくれれば、すぐにでも僕に身体を返してくれるに違いないのに。

 しかし、このままズルズルと、それこそ何か月間も入れ替わり生活が続くようでは、僕は本格的に彼女に身体の返却を談判しなければならない。せっかくこの二週間で、僕は烏山さんとそれなりに仲良くなれたのだから、そんなことで関係をギクシャクさせるのは避けたいんだけど・・・・・・。

 放課後。隣を歩く烏山さんをちらりと見遣る。いまは明日の家庭科の調理実習で、僕たちがどう立ち回るべきかについての打ち合わせを終えたところだった。烏山さんは手元の単語帳を伏し目がちにめくっている・・・・・・単語帳?

 そうだ、来週から期末テストが始まるんだった。烏山さんと身体が入れ替わってからのドタバタで、ついそんな当たり前の学校行事のことも、どこかに忘れてしまっていた。

「そういえば烏山さんって、勉強得意なの?」

「うーん。まあ、普通かな。このあいだの中間テストではたしか・・・・・・」

 続けて烏山さんが言った順位は、僕が前回取ったものと大して変わらなかった。僕はほっとしてため息をついた。

「よかった。これならお互いテストの順位が急変して怪しまれることもなさそうだね」

「いつもと同じ実力が発揮できれば、だけどね。楡木くんは慣れない生活が続いてるせいで、授業もあんまり聞けていないでしょう」

 と烏山さんは肩を竦める。意外と僕のことを見てくれているらしい。たしかに烏山さんの言う通りだった。僕は女装をしながら(というかスカートを履きながら)授業を受けることに、未だに気恥ずかしさを感じている。それがどうというほどでもないのだけれど、いつもより授業に身が入るかと言ったら、それは絶対になかった。

 授業についてもそうだし、さらにはテスト勉強についても不安は残る。今の僕は烏山なすの、つまりはぼっちの女子なのだ。

「いつもは邦彦に面倒見てもらってたけど、今回はそんなこともできないし、どうしたものか・・・・・・」

 はあ、と僕が嘆息を漏らすと、烏山さんが単語帳から目を上げた。そして僕の腕をがしっと掴む。

「それを早く言ってよ」

「それって?」

「あなた、テスト期間中はいつも柳生くんに勉強を教わっていたのね」

 と確認され、僕は首肯する。

 邦彦は常にテストの成績が学年上位だ。毎度彼の勉強時間を奪っている僕としては、彼自身の成績が下がらないか不安で、毎回テストの順位を本人に聞いているんだけど、これまでに邦彦が二ケタの順位を取ったことはなかった。クラス内順位で言えば二位とか三位しか取っていないほどの頭脳派だ。

「柳生くん、できるタイプだとは思ってたけど、まさかそれほどだったとは」

 と烏山さんが首を振った。その反応は、尊敬を通り越して少し引いているようにも見えた。意中の相手と自分との間に大きな差があると、恋愛感情が冷めてしまう人も少なくないって聞くけど、もしかして烏山さんにはその気があるのだろうか。

「それじゃあ今回は、楡木くんも含めた勉強会を開きましょう」

 すると、パタンと両手を合わせながら烏山さんが言った。

「僕、というか、烏山なすのさんを参加させるということ?」

「ええ。テスト前の勉強会だなんて、水泳の授業なんて目にならないくらいのチャンスだわ」

 僕が尋ねると、烏山さんは目をギラギラと光らせながらそう言う。

「ちなみに今回あなたには、水泳の授業とは違って、特別な働きを求めたりはしないわ。いつも通りにしてくれればOKだから」

 と続けられて、僕はそういえばまだきちんと烏山さんにあの時のお礼を言えていなかったことを思い出した。いけない。僕は改めて彼女に正対してから、頭を下げた。

「あの時は本当にごめん。烏山さんから借りている大切な身体を、あんな危険に晒すようなことしちゃって。人から借りた身体で溺れるだなんて、僕は最低だ・・・・・・」

「べつに、結局無事だったんだしいいわよ、そんなかしこまらなくても」

 さらりと、本当に何でもないことのようにそう言う声に、僕は顔を上げた。烏山さんは腕を組みながら、片方の手で短い髪の毛をクルクルと弄っていた。

「それに溺れているのが・・・・・・自分の身体なんだもの。そりゃ助けるわよ。ただ自分で自分の身を守っただけ」

「それでも僕は、烏山さんに助けてもらえたってわかった時、すごい嬉しかったよ。今更だけど、助けてくれて本当にありがとう」

「・・・・・・どういたしまして」

 と、烏山さんは、ぷいと顔を背けた。こちらに向けられたその耳はほんのりと朱に染まっている。これまでに一人ぼっちの学校生活を送っていた烏山さんだけれど、そうとは思えないほどに気が強くて面倒見が良い。そのくせ真正面から褒められることに、彼女は不慣れなのだった。そんなところがいじらしくて、ちょっとだけ可愛い。

 そんなにやにやとする僕の気配に気が付いたのか、烏山さんは咳払いをしてからこちらに向き直った。

「過ぎた話は終わりにして、テスト勉強の話よ。楡木くんは可能な範囲で柳生くんから勉強を教わってくれればそれでいいから・・・・・・そんで、できるだけ良い点数を取ってね」

「もちろん、なるべくテストは頑張るつもりだけど」

 僕がそう言うと、烏山さんは「分かってるわよ」と笑う。

「勉強会では、きちんとあなたのフォローもしてあげるから。投げっぱなしなんかにはしないわ」

「うん・・・・・・そうしてくれると、助かる」

 烏山さんが、楡木悠の身体を使って邦彦との勉強会をセッティングする。そこに最近親交が始まった烏山なすのを招く、というのは違和感のない動きだとは思うけれど、僕が烏山さんの身体を使って邦彦から勉強を教わるだけでは、邦彦からの好感度が得られるとは考えにくい・・・・・・恥ずかしい話だけど、僕はそんなに器用に動ける人間じゃないのだ。

 しかし、そこは烏山さんが間に入って僕をサポートしてくれるとのことなので安心だ。よかった、と僕は胸を撫でおろした。

「烏山さんって、なんだかんだ優しいし、面倒見いいよね」

「なんだかんだは余計。あとおかしな勘違いはしないで。あたしの本当の目的はあくまでも柳生くんなんだから。そのためには彼の親友であるあなたにだって取り入るってだけの話。あなたはあくまでもあたしに利用されているだけなのに、ったく・・・・・・お人よしなんだから」

 と、冷たい口調で僕をあしらおうとする烏山さん。

 けれど、そんな風に頬を緩めながら言われたのでは、そこに説得力は無いのだった。


 ■


<邦彦~。今回も力を貸してくれよ>

<良いぞ。人に教えるのも勉強になるからな。土曜の午後はどうだ? 場所はいつも通りうちで構わないが>

<ありがとう。じゃあ十三時に邦彦の家行くね・・・・・・そうだ、ねえ烏山さん。うん、君。よかったら烏山さんも一緒にどう? ねえ、邦彦も別に構わないでしょ? 烏山さんに教えるのだって勉強になるでしょ? そうそう。え、大丈夫? よかった。それじゃあ明日はよろしくね>

 そんなテンポの良いやりとりを烏山さんが展開したのが、昨日の放課後のこと。

 それから烏カァで夜が明けて本日土曜日。僕はお昼ご飯を済ませてから烏山家を発った。邦彦の家には何度も遊びに行ったことはあるけれど、この身体で行くのは初めてになる。

 邦彦の家は古色蒼然とした日本家屋だ。何畳の広さがあるのかぱっと見では分からないような大広間もあるため、参加人数がいつもより一人増えたところで、勉強会の場所は変わらず彼の家だった。

 邦彦の家に行く前に、烏山さんとの待ち合わせ場所に向かう。彼女は邦彦の家の場所を知らないので、僕が案内をする必要があった。そう考えると、どちらにせよ僕の参加がなくては、彼女は邦彦との勉強会の場はセッティングできなかったのかもしれない。

「お待たせ」

 待ち合わせ場所に到着すると、そこにはすでに烏山さんがいた。約束の時刻まではまだ十分はある。あいかわらずしっかり者だ。

 僕が挨拶をして手を振ると、彼女がこちらに気が付いた。

「こんにちは烏山さん」

 というセリフを、烏山さんが発した。

 いやいや、僕は烏山さんじゃなくて、君が烏山さんなんじゃないか、などと開きかけた僕の口が固まる。

 待ち合わせ場所に立つ烏山さんの隣には――小田原さんがいた。

 !

「やっほ~」

 こちらにお日様のような笑顔を向けながら、小田原さんはぶんぶんと手を振った。ベージュのキャミワンピの中に来た白いTシャツから延びる腕が眩しい。

 私服!? 可愛っ!

 ・・・・・・いや、そうじゃなくて、

「ど、どうして小田原さんが?」

「それがさ、昨日たまたま帰り道で一緒になって、よかったらどうって僕が誘ったんだよ」

 と烏山さんが応えると、隣の小田原さんが「そうそう~!」と頷いた。

「たまにはさ、いつもと違うメンツで勉強するのもいいかなあって。ふふ、いつもは山根たちとテスト勉強するんだけどね」

「そ、そうなんだ・・・・・・」

 と、僕は呟く。いや、事情は分かったけれど、それにしたって小田原さんが来るのなら、僕にひとこと連絡があってもいいはずだ。こっちにも心の準備というものがあるのに。

 いや、もし連絡があったとしても、それはそれで心の準備に手間取って昨日は眠れなくなっちゃってた可能性があるから、これはこれで僕は助かったのかもしれないけど!

「それじゃ烏山さんも来たことだし行こっか! 楡木くん案内よろしくぅ~!」

 と仕切りだす小田原さん。今日もテンションが高い彼女は、朗らかにそう言いながら烏山さんの両肩に手を置いた。

 !

 いま小田原さんに肩を掴まれているあの少年は本当に僕ですか・・・・・・?

 しかし烏山さんが柳生家までを案内できるわけもないので、僕が彼女の傍を歩きながら小声で指示を出して歩くことになった。道中、小田原さんに聞こえないように、小さな声で烏山さんに訊ねた。

「ねえ。どうして小田原さんを誘ったんだよ」

「あたしの身体で柳生邦彦と仲良くなるのも、あんたの身体で小田原ゆきと仲良くなるのも、一緒にやっちゃった方がお得じゃない」

「確かにそれはそうだけど」

「てか、昨日の放課後ちゃんと言ったじゃない。あなたのフォローもしてあげるって。もう忘れちゃったの?」

 昨日の放課後の、烏山さんとのやりとりを思い返す。

「・・・・・・そういえば言ってた、かも」

 あれってそういう意味だったのか。僕はてっきり、僕が邦彦に接触するのを、烏山さんがフォローしてくれる、という意味だったのかと・・・・・・。

 後ろを振り返ると、小田原さんが僕の視線に気づいて目をぱちぱちとさせた。

「ん~? どうしたの?」

 そう言って、こてんと首を傾げる――可愛かった。

 ここ最近色々なことがありすぎて忘れかけているが、こうしてすぐそばにあの小田原さんがいるということが、どれほどに幸せなことなのかを、僕は今一度噛みしめる。

 小田原ゆきさんはクラスどころか、学年を代表するほどの女子生徒だ。見た目や立ち振る舞いの華やかさもそうだし、交友関係も幅広いと聞く。彼女の存在を良く思わない存在も多少はいるけれど、それも有名すぎる故のアンチというやつだ。実際、お昼休みに彼女を求めて遊びに来る人たちに学年の隔ては無かったし、小田原さんの周囲にいる人たちは皆きらきらとしたリア充オーラが全開だったりと、僻みたくなる人の気持ちも分からなくもない。

 そんな人気者である小田原さんが、貴重な休日を僕たちと過ごすのに使ってくれるというのだ。もしかしたらそれはただの気まぐれなのかもしれないけれど、そうだとしても、僕のこの歓喜の気持ちは揺るがない。

 烏山さん、マジぱねえっす・・・・・・。

 僕は心の中で、彼女に手を合わせた。 


 そんなこんなで柳生家に到着した。木製の四脚門をくぐったところで、邦彦が僕たちを待ち構えていた。彼は僕たちの来訪に気がつくと、すぐにその顔を歪めた。

「どうして小田原もいるんだ?」

 いや烏山さん、邦彦に連絡してなかったの!?

 と思ったが、そもそも楡木悠のスマホは本来の持ち主である僕自身が持っているため、僕が知らなかった情報は、当然ながら邦彦にも共有することはできないのだった。 

「へへ、来ちゃった」

 とはにかむ小田原さん――可愛い。

「まあ、別に一人くらい増えたっていいが」

 しかしそんな仕草には目も向けず、邦彦は烏山さんを見てにっと笑った。

「悠は人気者だな。さあみんな、狭いところだけど上がってくれ」

 玄関だけでちょっとした子供部屋くらいの大きさがあるというのに、狭いところというのは、これが邦彦でなければ嫌味に聞こえてしまうだろう。

 大広間に向かう途中、南側に面する廊下から庭園が覗けた。それを見た小田原さんが、いつもよりも低い声でリアクションを見せた。

「うわ、でっか。なんか池とかあるじゃん」

「暑かったら入ってもいいぞ」

「いや誰も入らんし!」

 からかわれたと見て、小田原さんが児戯のようにがなる。そんな彼女を邦彦は一瞥してから、続けて烏山さんの方をみて薄くほほ笑んだ。当の烏山さんはと言うと、そんな邦彦の視線の意味がわからずきょとんとする。しかしその代わりに、僕は俯いてしまうのだった。

 僕は去年の十一月、邦彦と壮絶な言い争いになり、その結果というか過程というか、まあ色々あってあの池に飛び込む羽目になった。嫌な思い出とまでは言えないけれど、それでもあまり思い出したいものではない。きっと邦彦はアイコンタクトで<また入ってもいいんだぞ>と僕に伝えたかったのだろう・・・・・・誰ももうあんなまねしないっつーの。

 そして大広間に到着してからは、とくに雑談などを挟むことなく、勉強会はぬるっと開始された。烏山さんは邦彦から勉強を教わり、僕と小田原さんの女子ペアは、分からないところが合ったらその都度邦彦に尋ねる、という流れとなった。

「うーん・・・・・・」

 始まってから十分ほどで、僕は分からない問題にぶち当たり、頭を抱えた。すると、隣からすぐに声がかかった。

「か・・・・・・烏山さん。分からないところあるの?」

「あっ、うん。ここなんだけどさ――」

 と言って声のした方向に首を向けて、自らの顔のすぐ傍、息の当たるような距離に小田原さんの顔があることに、僕は絶句してしまう。

 近っ!?

 ・・・・・・そ、そうだ! つい勉強に集中して放念してしまっていたけど、僕はいま、あの小田原さんと一緒にいるのだった。さすがの彼女もTPOを弁えたのだろう。いつもとは異なりテンションの落とされた口調だったせいで、僕に声をかけたのが小田原さんだということにすぐには気づけなかった。

 ・・・・・・っと、いけない。こんな童貞みたいにキョドっていては、怪しまれてしまう。今の僕は、ただの根暗な女子なんだ・・・・・・と僕は自分に言い聞かせる。

 開かれた教科書の該当箇所を指さした。

「ここ、どうしてこうなったのかが分からなくて」

「んーとね。あー、ここは二つ前に出てきた公式を使ってるんだよ。ほらここ」

 と小田原さんが指し示した箇所に、僕が求めていた解法が示されていた。なるほど、そっちの方を使うのか。

「ありがとう小田原さん」

 と僕がお礼を言うと、小田原さんはにっと笑った。ふと彼女の手元のノートに目を遣ると、そこには可愛いらしい丸文字が整って並んでいた。そのノートを見ただけで、彼女の成績が優秀であることが察せられた。ちなみに余談だけれど、男子の場合はノートが汚いやつほど逆に成績が優秀であるという謎の傾向がある。(僕調べ)

「小田原さんって可愛いだけじゃなくて、勉強もできるんだね」

 僕が感慨深く言うと、小田原さんは被りを振った。

「そ、そんなことないよ? たまたま数学は得意なだけっていうか~・・・・・・・」

 女子特有の謙遜だろうか。僕、というか烏山なすのの様な日陰者から、そんな風に手放しに褒められては、さしもの小田原さんも居心地がよくなかったのかもしれない。彼女は苦笑いを浮かべていた。

 そうだ、と僕はひらめく。

「もしよかったら、邦彦も数学で分からないところあったら小田原さんに教われば?」

「・・・・・・ん?」

 と、邦彦が眉間に皺を寄せた。さらに烏山さんと、それから小田原さんまで、その表情を固めてこちらを見ていた・・・・・・あ。

 ――また邦彦に馴れ馴れしく接してしまった。

 今の僕は、烏山さんだというのに。

「あっ、ごめん! 楡木くんの口調が移っちゃって、それであたし、たははは」

 若干一名分の乾いた笑い声が、大広間に響く。

 冷や汗をかきながら、必死に誤魔化そうとする僕を見る烏山さんの目が三角に尖る――僕の表情筋ってそんな風に動かせるんだ。

「いや、それは良いんだが、どうして烏山は俺が数学が苦手なことを知っているんだ?」

 と邦彦から言われ、僕はまたもぎくりとする。

 邦彦は調子が良いときであれば、どの科目でも学年一位を取ることがあるのだが、どうしてか数学だけは一位を取れたことが無いのだという。そのことを邦彦はひっそりと気にしているのだけど、そんな秘密を知っているのは親友である僕くらいなもので、だから烏山さんがそれを知っているということを、邦彦は訝しんだのだ・・・・・・まずい。

 しかし、そこで烏山さんから救いの手が差し伸べられた。

「それは僕が教えたんだ」

「悠が?」

 うん、と烏山さんが頷く。

「烏山さんがさ、邦彦のことをやたらとヨイショするもんだからさ。柳生くんって完璧超人だよねーとかなんとか。だから、人間誰だって苦手なことくらいはあるし、完璧な人間なんてこの世にはいないんだよって、烏山さんの目を覚まさせてやったってわけ」

「そうか」

 と短く言って、邦彦はふっと息を吐いた。烏山さんの言葉は、この場を凌ぐための方便にすぎないものだったろうけれど、その発言は邦彦には刺さったはずだ。

 そんな僕の読みは当たっていたようで、

「悠らしいな・・・・・・うん、そうだな。それじゃせっかくだし、小田原に教わってみることにするか」

 と邦彦は相好を崩した。続けて、「この問題なんだがな」と問題集を広げて小田原さんに見せる。

「柳生くんに、私なんかが教えられることがあればいいんだけど」

 邦彦が秀才であることはクラスの人間ならば誰もが知っていることだ。そんな彼に頼られてしまい、小田原さんもさすがに緊張の面持ちを浮かべた。しかし、邦彦の指し示した問題に目を向けてしばらく考え込んでいた小田原さんは、やがてその表情をぱぁっと明るくさせた。

「あっ。ここはひっかけになってるみたい。実はここのところを、こうすれば」

「ん? ・・・・・・ああ! なるほど、そういうことか」

 邦彦も理解ができたらしく、彼にしては珍しく、小田原さんに対して柔らかな表情を向けた。

「ありがとう。助かった」

「あの邦彦でも分からない問題が解けちゃうだなんて、小田原さんは凄いね!」

 と、隣の烏山さんも小田原さんを褒めた。すると小田原さんは目を伏せながらこくこくと頷いた。

「へへ、そうかな・・・・・・どういたしまして」

「しかし失礼かもしれないが、小田原はあまり勉強が得意な方ではないと思っていたよ」

 邦彦のその発言は、さすがに小田原さんに対して失礼なんじゃないの、と思いもしたが、同時に同意せざるも得なかった・・・・・僕も、小田原さんは成績が悪いとは言わなくても、学年トップクラスの邦彦に教えられるレベルの生徒だとは思っていなかったからだ。

 そんな邦彦の正直な言葉に、小田原さんがぷっと噴き出した。

「なにそれ! 柳生くんってば真顔で超失礼なこと言うじゃん! でもまあ、えーと、そうだなぁ・・・・・・今日のために、昨日けっこー勉強してきたから、かな?」

 言いながら、みるみるうちに顔が赤くなっていく小田原さん。その顔を冷ますために、自分の手でパタパタと仰いでいる。

 小田原さんって、努力家でもあるんだ・・・・・・やっぱり凄い人だなぁ。


「・・・・・・失礼」

 それからカリカリカリカリと勉強をしているうちに、僕は催すものを感じて立ち上がった。この身体になってから、明らかにトイレが近くなっている。 

「烏山」

 廊下に出て右に足を踏み出したところで、邦彦から声がかかった。

「トイレの場所がよく分かったな」

「・・・・・・」

 心の中で、僕は深呼吸をする。これくらいのミスでは、動じなくなっていた。

「いや、ただ・・・・・・お手洗いって言いづらくって。ほんとは場所分からない、です・・・・・・」

 一か所から<嫌な気配>が発されているのを感じそちらを見ると、烏山さんが僕のことを睨んでいた。怖い。

「ああすまん。俺も先に説明しておけばよかったな。でも、分からないことがあったらなんでも聞いてくれていいぞ。よそよそしいな」

 友達だろう――と邦彦が気さくに言った瞬間に、小田原さんの表情がビタと固定されるのが見えた。

 彼女の視線の先には・・・・・・邦彦?

 しかし、そんな風に背後から小田原さんに見られていることにも気づかず、邦彦は僕の方を見ながら続けた。

「廊下を右に突き当たった先の左奥だ」

「・・・・・・ありがとう」

 勝手知ったる親友の家ではあるのだけれど、僕は誰に見られてもいないというのに、おずおずと不慣れな足取りでお手洗いに向かった。

 大広間に戻る途中、角のところで烏山さんと鉢合わせた。彼女は僕の顔を見るなり、ジトっと睨んだ。

「ポカミス魔人」

 う。

「確かに色々やらかしちゃったけど、それでも今のところなんとか誤魔化せているからいいじゃないか」

「ま、それもそうか。あの柳生くんから、友達認定もいただけたことだし、細かいことは不問にしましょう」

 友達認定、か。確かに邦彦のあの発言には友人であるこの僕も驚いた。邦彦とはこの身体を使ってしばしば会話もしていたけれど、それでも精々が一回三~四分程度の会話だ。そんなので邦彦が気を許してくれるものだろうか――それともこうやって休日に家に招いたことが大きかったのかな? 

 しかしまさか、あの邦彦が女の子を相手に友達だと呼ぶ日が来るだなんて、彼も丸くなったものだ。友人としてはとても嬉しくなる・・・・・・烏山さんは僕以上に嬉しくなっているようだけれど。

 いつにも増して寛容さを見せる彼女を、今度は僕が咎めた。

「というか烏山さんの方こそ、僕の身体でちょいちょい小田原さんから勉強を教わるのはやめてよ」

 そんなことを言われるのは心外とばかりに、烏山さんは目を丸くした。

「どうして?」

「勉強ができないと思われるなんて恥ずかしいじゃないか」

「なんだ。そんなことか」

「そんなことかって・・・・・・勉強を教えるのならともかく、勉強を教えてもらう側だなんて、格好がつかないだろう」

 と僕が言うと、烏山さんはそれを鼻で笑った。

「はっ。そこが男の浅ましいところね」

 そこまで言うか。

「人間関係においてはね、誰かを支えたり助けたりすることだけが、価値なわけじゃないのよ」

「どういうこと?」

「つまりは、誰かに助けてもらうよりも、誰かの助けになれたことを喜ぶ人だっているって話よ」

 そんなことあるのかなぁ、と考え込んでいると、烏山さんが指を立てた。

「例えば楡木くんに彼女ができたとする。その彼女があなたのために無理をしてくれたときに、あなたはそんな彼女に<無理させちゃってごめん>って謝っちゃうタイプね」

「そうだなぁ・・・・・・うん。そう言うと思う。てか、それが普通じゃない? ほかに何か言い方ってある?」

「<僕のために無理してくれてありがとう>よ」

 やたらとキザな声色で烏山さんが応えた。なんだかヒモみたいな口調だった。

「そう言われた方が嬉しくなるタイプもいるってこと?」

「ええ。意外と多いわよ。誰かに尽くすことに喜びを見出すタイプ。そういう人を相手にするときは、言い方を選ばないとね」

 と言って、烏山さんの目が鈍く光る。かつて烏山さんは、自分は女ウケを熟知しているとかなんとか言っていたけど、これに関しては殆どジゴロのテクニックのように思えた。

 と、そこで烏山さんの肩がぶるりと震えた。今は真夏の真昼間だ。日の当たらない廊下と言えど、寒気を覚えるような室温ではない。

「どうしたの?」

 僕が問うと、烏山さんは大仰にため息をついた。

「あのね。あたしがどこに向かっている途中で、楡木くんとの長話に付き合ってあげているのか、見当がつきそうなものじゃない?」 

「・・・・・・あ」

 なるほど。僕がトイレから戻る道中で烏山さんと鉢合わせたということは、当然ながら彼女もまたトイレに用があったのだろう。彼女はそれを今まで我慢してくれていたらしい。

 しかし、男の僕の身体で、内股になりながら年季の入った女子言葉で喋る烏山さんの姿がおかしくて、つい意地悪をしてしまいたくなった。僕は自然な微笑を称えて烏山さんの肩にぽんと手を置いた。


「烏山さん――僕のために我慢してくれてありがとう」

 足を蹴られた。


 ■


「えー! ユキいつもよりめっちゃ点数高いじゃん! どうしたの!」

 テスト返却日。小田原さんの席に集まっていた女子たちがガヤガヤと騒いでいた。そのうちの一人、山根さんがそう叫ぶと、そこに烏山さんが近づいていった。いつの間にか、楡木悠が小田原さんたち女子グループの輪に交じるのは、このクラスでは当たり前の光景となっていた。

「僕も、小田原さんから教えてもらえたおかげで、いつもよりいい点数が取れたよ」

「いえいえそんな。どういたしまして!」

「げー、なんだよにれぎゅう、お前ユキに教えてもらったのかよ。ずっちぃ~」

 ――え、今僕ってあの辺の派手な女の子グループから<にれぎゅう>って呼ばれてんの?

 山根さんやその他の女子に小突かれながら、にれぎゅうが近くを通りかかった邦彦にも声をかけた。

「ね。邦彦もだよね」

「ああ。ありがとう。小田原に教えてもらったところが丁度テストに出たから、助かったよ」

「げー、なにユキ。柳生くんにすら教えちゃってんの!?」

 小田原さんは僕たちとのテスト勉強会のことは、グループの友達には話していなかったらしい。小田原さんにペコリと頭を下げる、クラス一の秀才である邦彦の姿を見て、その場にいた全員が目を丸くしていた。

 そんな光景を遠巻きに眺めながら、ますます小田原さんの存在が遠くに行ってしまったように感じられて、僕はため息をついた。あの日勉強会に参加したメンツの中で、現在僕(というか烏山なすの)だけが、あの賑やかな一角に加わっていなかった。さすがに烏山さんのような目立たないタイプが急にあの輪に交じるのは不自然が過ぎるだろう。

 そんなことを思っていると、不意に小田原さんと目が合った。

 ・・・・・ん? どうして僕の方を?

 小田原さんはニコッとほほ笑むと、それからその顔を、傍にいる邦彦や烏山さんたちに向けた。

「まあねー! この小田原ゆき様にかかればチョロいもんよー!」

 Vサイン。


 今日でテスト返却日も最終日だった。邦彦や小田原さんは勿論のこと、僕や烏山さんも無事に、人に見せられるような点数を全科目に渡って取ることができた。その栄光を称え合うんだかなんだかで、烏山さんの提案により後日また四人で集まって打ち上げをすることになった。一度の企画で出来上がったグループを、なるべく解散させないよう働きかけるというのは、いかにも女子らしい。

 けれど結局、その打ち上げの計画は頓挫してしまうのだった。

「身体、元に戻そっか」

 テスト返却が終わった次の日、烏山さんは僕にそう言ってから、力なく笑った。

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