第4話 プール・シンド・パニック

 先日、烏山さんから体育の授業においてはバントをしてはいけないという叱咤をいただいた僕ではあるけれど、その反省はしかし反省のままで終わってしまった。あの日でソフトボールのカリキュラムが修了したからだ。これで<次の授業は野球ですよ>とでもなればその反省は存分に活かせたかもしれないけれど、来週からの体育の種目はなんと――水泳だった。

 裸になって、水着を着て、泳いで、また裸になる、あの授業だ。

 現在女子の身体の中に入っている僕としては、ソフトボールで例えるならばバントはおろか打席に立つことも、勿論ネクストバッターズサークルに入ることも許されない状況といえる。

「お互い見学を申し出ようか」

「バカじゃないの」

 しかし学校からの帰り道、烏山さんは僕からの提案を速効で却下した。

「こんなチャンスを活かさないでどうするのよ。あなたもそろそろ柳生くんに興味を持ってもらえるよう働いてよね。男なんてどうせ女の子の身体しか興味ないんだから、それを相手に見せつけないでどうするの。いい? 水泳の授業で楡木くんは、その身体でなるべく柳生くんと接触しときなさい」

 <女の子の身体しか興味ないんだから>って・・・・・・。

 その決めつけもさることながら、その言い方では、烏山さんの意中の相手である邦彦に対してもそれが当てはまることになってしまうんじゃないのかな。

「その目はなに? 言いたいことがあるなら、はっきりと言ってよ」

「いや、べつに?」

 僕はお茶を濁した。烏山さんの気を悪くさせても良いことなんて一つもないことが分かっているからだ。

 先週、烏山さんが小田原さんとの放課後デートを成功させた後に、彼女から<楡木くんもそろそろ、あたしに協力してくれる気になったでしょ>と言われてしまった。

 烏山さんが僕の身体を使って小田原さんと仲良くしてくれているのは、もとはと言えば僕からの協力を得るためのサービスに過ぎない。

 <柳生くんをよく知る親友である楡木くんには、あたしの身体を操作して柳生くんとの距離を縮めてほしいのよ>と烏山さんはかねてより僕に打診していた。他人の身体に乗り移って友人と接するような器用なまねをできる自信はなかったけれど、先に向こうが小田原さんとの関係でかなりの結果を出してしまった以上、もう僕には協力しないという道は残されていなかった。

 楡木悠という人物を、あの小田原ゆきさんとデートができるような関係にまでフックアップしてくれた烏山さんには頭が上がらないんだけど、とはいえやっぱり女の子の身体を使って男に取り入るのって、抵抗があるんだよな・・・・・・僕は改めて、自らの現在の身体に目を向ける。

「僕が邦彦に対して・・・・・・こんな体でねぇ」 

「最低。変態」

 烏山さんの眉間に皺が寄る。

 いや、僕としては<女の子の身体で>という意味合いで呟いた言葉であって、決して<こんな慎ましやかな肉体で>というニュアンスを含めたつもりは無かったんだけど・・・・・・。

 烏山さんは「分かったわよ」と言って、ため息をついた。


「代わりにあたしも、水泳の授業中にはこの身体であの巨乳にいっぱい接触しておいてあげるから」

「それは絶対にダメ!」


 この女の子はいったい何を言い出すんだ。

 接触、という言葉にどれほどの物理的側面を持たせての発言かは明らかではないけど、それがどれほどライトなものであっても、水着の男が水着の女に行っていいものではないと思う。

 しかも彼女の言ういっぱい接触が、紙一重の誤りでおっぱい接触になってしまった暁には、僕の人生はぐっばいだ。

 烏山さんに変態だと思われるのは百歩譲っていいとしても、万が一にでも小田原さんにそんな風に思われてしまったら、僕はもうダメになってしまう――最低でも不登校にはなるはずだ。(最高だったら、一周回って登校はするかもしれない)

「不登校なんて、大げさ」

 僕に白んだ目を向ける烏山さんを見て、はっとする。

「というか、巨乳っていう言い方しちゃダメだからね。人の事を身体的特徴で呼ぶのは失礼だ」

「・・・・・・分かったわよ。ほんと細かいんだから。でもまあ、そんな色仕掛けとかじゃなくて、ちゃんと具体的なプランも考えてあるから安心してよね」

 僕にやんわりと叱られた烏山さんは、少しだけしゅんとしたものの、すぐに自慢げな態度を取り、そう言った。

 よかった。烏山さんは異性への偏見が激しいことを除けば、あとは非常にしっかりとした頭脳を持つ策士だ。しかも策を立てるだけでなく、それをすぐに実行に移せる行動力も持っているというのだから驚きだ。彼女のそういった並外れたスペックによって、先には小田原さんとの放課後デートという偉業まで成し遂げられている。

 僕は安心して、彼女のプランに耳を傾けた。

「何事もね、長所を活かすべきなのよ」

 なんだか啓発セミナーじみた物言いに聞こえないこともなかったけれど、僕は黙って彼女の続ける言葉を聞いた。

「楡木くんのキャラの場合には、その誠実さをアピールするべきね」

「・・・・・誠実」

 そう言うということは、つまりは少なくとも烏山さんは、僕の事を誠実な人間として思ってくれているということだ。

 まさか自分で自分のことを誠実だと言い張ることはできないけれど、それでも不誠実な生き方はしていないとは言い切れる。言い切れるようには、生きているつもりだ。

 僕のそんな姿勢が、実際に烏山さんからそのような印象を持たれていることに繋がっているのだと思うと、にやけてしまいそうだった。僕は頬のゆるみを誤魔化すように口を開いた。

「でも誠実さって、アピールしようとすると、むしろ逆効果になりそうな気がするんだけど」

「普通はね。でも水泳の授業というシチュエーションがそもそも普通じゃないのよ。年頃の男女が半裸で一堂に会するだなんて、改めて考えてみるまでもなく非常識極まりない不埒なイベントよ」

「す、すごい言い方」

 そこまで言う?

 ・・・・・・なにか烏山さんには水泳の授業に嫌な思い出でもあるのだろうか。一年生の時には普通に出席していたような気がするけれど――と、僕は自分の胸元に視線を落とす。皺のないブラウスは首元からすとんと真下に落ちており、見晴らしよく足元が見えた。

「なに見てるのよ」

「ごめん」

 目ざとく指摘され、僕は急いで顔を上に向けた。烏山さんと僕との身体が入れ替わってから既に十日ほど経っていて、だから烏山さんのこの身体は僕にとっては幾らか見慣れたそれにはなっているのだけれど、それでもそうやって本人から咎められると、見てはいけないものを勝手に見ているようなやましい気持ちになってしまう。

「そうよ。<そう>するのよ」

「<そう>?」

 言われ、頭を前に向ける。見れば烏山さんは、僕の顔のあたりを指さしていた。

「あたしはね、この楡木くんの身体で水泳の授業中に、女子の方を一切見ずに授業を受けるわ。それも頑なに見ない」

「頑なに・・・・・・見ない」

 どういうことだろうか。烏山さんの言っている内容を想像してみる。

 授業中。プールサイドに立っている楡木少年が、周りの友人らと話をしている。しかしその顔は友人の方にすら向かず、明後日の方向に向けられている。絶対に視線の先には女子の姿が映らないような方向を。そのまま友人らと会話を続ける楡木少年。

 うーん。

「なんだか不自然じゃない? 露骨っていうか」

「それがいいのよ。そんで、もしあたしが露骨にそうしている姿をあなたが見つけたら、きょに・・・・・・小田原、さんがあたしの方を見るように誘導するの。そうすると」

「そうすると?」

 僕がオウム返しをすると、烏山さんは「んんっ」と喉の調子を整えてから、身体でしなを作った。

「やっぱり楡木くんは水着を着ている女の子の恥ずかしい気持ちにも理解があるんだな~。ああやってこっちに気を遣って見ないようにしてくれているなんて優しすぎるんだけど! ヤバぁ~! 岩槻とは大違いだね。でもさぁ・・・・・・くすっ。あんなに露骨に顔を背けなくてもいいのに。ああいう誠実なところが、ほんっと可愛いんだよねぇ・・・・・・」

「・・・・・・」

 ――小田原さんのモノマネだった。

 男である僕の声帯を用いているから、声の高さや質感こそ似てはいないものの、声色だとか口調だとかがかなり似ていた。もしかして烏山さんって、日頃から彼女に向けた憎まれ口を叩きつつも、かなり小田原さんのことを意識してるんじゃないの、と邪推してしまう。僕の身体を使うまではまともに小田原さんと口を利いたこともなかっただろうに、一体これまでにどれだけ観察をしてきたんだよ・・・・・・。

 もしも烏山さんが自らのバストにコンプレックスを持っていなければ、案外今ごろ彼女と小田原さんの二人はそれなりに親しい仲になれていたのではないか・・・・・・という想像も邪推だろうか。

「でも、そんなに上手くいくかな?」

 小田原さんのモノマネをする中で、ちゃっかり僕の友人である岩槻のことをディスっていたことには触れずに、僕は首を傾げた。

「いくわよ。間違いない。というか普通に、スクール水着姿を男子に見られて喜ぶ女子なんていないんだから、見ないに越したことはないの」

 と言われては、男子である僕としてはなにも反論ができなくなる。確かにその手の観念は、女子特有のものかもしれない。女子である烏山さんがそう言うのなら、その通りなのだろう。

 烏山さんの表情を見る。腕を組んでいる彼女の顔には、これでもかと言わんばかりの自信が満ちあふれていた――この顔つきなら信頼ができる。僕は心の底から安心を覚えた。

「良かったよ。これで水泳の授業は無事に迎えられそうだね」

「うん。大船に乗った気持ちでいなさいよ」

「学校のプールごときで大船とはこれいかに」

「それもそうね」

 あっはっは!

 僕たち二人は笑い合った。

 やっぱり烏山さんは頼りになる。賢い彼女に任せていれば、大体のことは上手く運ぶんじゃないだろうかと思えてくる。

 けれど、僕は何かを見落としているような気がするのは、どうしてだろう・・・・・・?


 ■


 そしてとうとうやってきた水泳の授業当日。その授業前のことだ。

 僕はプール脇の更衣室――勿論女子更衣室だ――に訪れていた。烏山なすのさんの身体を拝借しての日常生活には(お風呂やトイレだって)いい加減緊張しなくなっていた僕だけれど、さすがにこれは身構えずにはいられなかった。

 おそらく部屋の構造そのものは、去年利用した男子更衣室となんら変わらないように見受けられるけれど、そこに広がる光景のインパクトたるや、筆舌に尽くしがたいものがあった。鼻につく塩素の臭いすら、この場においては妙な情緒を生み出しているというのだから恐ろしい。

 もちろんキョロキョロと辺りを見渡すようなマネが僕にできるはずもなく、常に俯きながら脱衣に取り掛かることとなった。それでも心臓はばくばくと高鳴りを止めず、変な息苦しさが僕の胸の奥に圧しかかり続けた。耳に入るクラスメートらの声や衣擦れの音は、直接脳を掻きむしられるようにすら感じられた。できるだけそれらの音を脳内で処理しないように、僕は無心で更衣に集中する。

 とそんな風に、<女子更衣室を利用する>という人生初の体験に、ちょっと頭がおかしくなっちゃうくらいにどぎまぎする僕だったけれど、しかし更衣そのものは問題なくスムーズかつシームレスに終えられた。

 ・・・・・・。

 ここで一応名言しておくけれど、勿論僕はこれまでの人生でスクール水着なんて着たことが無い。言ってしまえば、烏山さんの身体がビギナー向けの構造をしていたものだから、すんなりと水着姿になれたということに過ぎない。もしかしたら思慮に深いあの烏山さんのことだから、僕がこの身体を操作するときのことを想定して、このようにホスピタリティ溢れる体形に仕上げてくれていたのかもしれない。

 きっと、そうに違いない。

「長居は無用だ・・・・・・早くプールに行っちゃおう」

 と、水泳キャップを肩のところに挟んでから、僕がようやく俯いていた顔を上げたら――やや、目の前に迫力のある画が飛び込んできたではないか。

「わぁっ!」

 思わず嬌声が漏れ出た。

 それも<わぁっ!>である。

 <わ!>の次が<わぁ!>で、さらにその上の感嘆語というのだからお手上げだ。

 眼前のソレを眼で見て理解するよりも早く、なにか見た者の正気を奪うような壮絶な力が、ソレから僕に向けられていることを感じた。


「んしょ・・・・・・っと」


 しかし、迫力のあるものが迫力のあることをしていると思ったが――それはただ水着に着替えているだけの小田原さんだった。なるほど。こちらの正気を奪うような壮絶な力、という僕の所見に間違いはなかったらしい。

 小田原さんは「んんっ」と息を漏らしながら、随分と慣れない感じで着替えをしていた・・・・・・体形のせいだろうか? スクール水着の構造に明るくない僕だけれど、それでも烏山さんのこの身体と、小田原さんのあのような身体では、水着に着替える難易度に山と谷ほどの差があることは想像に難くない。

「あれ、ゆき今年は見学じゃないんだ」

 そこで、今しがた更衣室に入ってきた山根さんが、小田原さんの姿を見つけるなりそう言った。その言いぶりから察するに、小田原さんは一年生の頃は水泳の授業を見学していたらしい。道理で着替え方に不慣れさが出ていたわけだ。まさか小田原さんと言えど、中三の頃から今のような更衣難易度を誇る体形をしていたわけではないだろう。

 小田原さんが山根さんに向けて、薄くはにかんだ。

「うん。ちょっと最近太ってきちゃってさぁ・・・・・・」

 太って、という言葉を聞いて、僕は小田原さんの身体をちらりと一瞥する。特別彼女が太っているようには見えない。けれどまあ、女の子ってすぐに自分は太ったとか言うイメージあるし、小田原さんもその例に漏れない子なのだろう。

 小田原さんのその言葉を受け、山根さんはわざとらしく肩をすくめた。

「またまたー。肉が付いたのはお腹だけじゃないくせに」

「え、なんのこと?」

 きょとんとした顔を浮かべる小田原さんに、山根さんはがばりと抱き着いた。

 !

「うりうりー! わざとらしくノロノロと着替えやがってこいつぅー!」

「べっ、べつにアピールしてたわけじゃ、やっ、んあっ、ちょダメだって」

「んん~? 何がダメなのかなぁ?」

 ――いったい、何がダメだったというのでしょうか。

 その答えを、けれど僕が聞くことは叶わなかった。

 なぜなら、自らの理性が飛んでしまうことを恐れて、僕は一目散に更衣室から脱出していたからです。

「あんなの見てらんないよ!」

 少なくとも、あんなものを僕が間近で見続けるのは、ダメだろう。


 ■


 授業開始までは数分を残していた。まだ男子もちらほらとしか着替え終わってはいないようだ。さらには授業開始ギリギリまで外に出る気は無いのだろう、女子で更衣室を出ている生徒にいたっては僕一人だけだった。

 烏山さんの身体を日焼けさせるわけにもいかず、僕は更衣室の裏手の日陰に身を置くことにした。すると、何人かの男子生徒がこちらの方向に近づいてくる気配を感じた。

「ねえ邦彦」

 それは僕の、つまり楡木悠の声だった。現在中には烏山さんが入っている。

 瞬間、僕の頭に先日の烏山さんとのやりとりが想起された。水泳の授業に参加する際の作戦について話しあったときのことだ――あのとき烏山さんは、僕のためになる作戦は立てていたのに、自分のためになる作戦を立ててはいなかった。そんなことあるはずもないのに。

 元々彼女は、プールの授業に出席する旨味は、女子が男子に身体を見せつけられるからという旨の主張をしていた。それなのに烏山なすのを邦彦にアピールするための策を練らないはずがないのだ。賢くて利己的な彼女が、僕に前もって何も話してくれなかったということはすなわち――僕に事前に聞かれては強い反対をされる策を実行するためということに他ならない!

 建物の陰に隠れる形で、烏山さんたちのことを盗み見る。

「なんだ悠」

「これから水泳の授業が始まるわけじゃん」

 しかしこうして見ると、僕の身体ってかなり貧相だよなぁ・・・・・・。隣にいる邦彦の身体が、男子の僕から見ても惚れ惚れとするくらいに引き締まっているものだから、よりそう思ってしまうのかもしれないけど、それにしたって・・・・・・。

 まあ、それでも烏山さんは悪くないスタイルって言ってくれたし、そんなに気にする必要はないのかな、そう自分に言い聞かせながら邦彦たちを観察する。二人が水泳の授業に関する雑談を続けていく中で、烏山さんが「ところで」と言いながら邦彦と肩を組む。ニヤリと口角が上がった。


「女子の水着楽しみじゃね?」


 あー!

 なにが<長所を活かすべきなのよ>だ! これでは他人に誠実な男ではなく、自分の欲望に誠実な男になっちゃうよ!

「そ、そうか? 俺はあんまりそうは思わんが」

 ほら、邦彦も引いてるじゃないか!

 しかし、そんな僕の訴えが届くはずもなく、烏山さんは引こうとしない。

「別に変な意味じゃないよ。芸術的観点で言ってるだけ。肉体美っていうのかな。水着はほら、身体のラインがそのまま出るから素晴らしいんだよね。とくに普段の制服や体操着の上からでは分かりづらいようなスレンダーな子とかは、水着だと魅力倍増だよね」

「肉体なんて、健康的ならあとは言うことなくないか?」

 取り付く島もないとは、まさにこのことだろう。烏山さんの話に、邦彦は驚くくらいに食いついていなかった。普段はどれだけくだらない話題を僕が投げても<ふむ。そうだな・・・・・・>と自論の構築に取り掛かってくれるあの邦彦が、だ。

 烏山さんは、男子だったらみんなそんな話で盛り上がれると思っていたのだろう。分かってはいたけれど、男子への偏見の激しい子だ。

「・・・・・・」

 がっくりと肩を落とす烏山さん。よし。これでもう<男なんてみんな女の身体にしか興味がないんでしょう!>みたいな主義にもヒビが入ってくれることだろう。

 そこで、烏山さんの後ろから彼女に近づく影があった。

「かーっ! 楡木お前マジで分かってんなー!」

 岩槻!

 バカお前、せっかく烏山さんをつまらない呪縛から解き放てそうなチャンスだったのに! 男子の嫌らしい部分だけ残しました、みたいなお前なんかが来ちゃったら・・・・・・。

「い、岩槻ぃ!」

 烏山さんの瞳に光が宿った。まばたきを数度繰り返して涙を退かせた彼女の背中を、岩槻がばしばしと叩いた。

「でもさあ、ぶっちゃけただ痩せてる子よりも、おっぱいデカい子の方が普通によくね? 俺は、っぱ小田原さんのスク水楽しみだわぁー!」

「・・・・・・はぁ~、バカって好みも単純なんだな。ダサっ。お前キモくね?」

 と言って、すっと身体を岩槻から遠ざける烏山さん。いや当たり強っ!

 そのまま彼女は顔を邦彦の方へと向けて、再度アタックをしかけた。

「ねえ邦彦。こうやって岩槻みたいにさ、みんなきょ・・・・・・今日も小田原さんのことばっか気にしてるけどさ、僕的にはそれこそ、烏山さんみたいなタイプの女子こそスクール水着が似合うんじゃないかと、そう睨んでいるんだよね」

 男子が女子の水着を睨むな。

「普段前髪で隠れている素顔が、水泳キャップによって白日の下に晒されるのとか、フェティシズムを刺激されないかな?」

 というか今更だけど、烏山さんは僕が邦彦にどう思われてもいいと思っているのかな?

「悠、お前」

 邦彦が烏山さんの言葉を受けて、じいっと彼女の顔を見つめた。

「・・・・・・熱中症か?」

「・・・・・・」

 正気を疑われていた。

 僕のこれまでの邦彦に対する行いが、彼からここまでの信頼を獲得していたのかと思うと嬉しくなるし、烏山さんに対してはざまあみろと言ってやりたくなる。

 黙り呆ける烏山さんに、邦彦は言った。

「岩槻みたいなのに話を合わせてやりたいというお前の優しさは尊敬に値するが、そんなお前らしくもない話題をわざわざ・・・・・・俺にまで振らなくてもいいんだぞ」

 ピーーー。

 そのとき、プールサイドに立つ体育教師がホイッスルを吹く音が聴こえた。それは授業開始の合図だった。

 けれど、僕にはゲームセットのホイッスルに聴こえたのだった。


 授業中、隙を見て烏山さんに、

「何やってるのさ、ほんと」

 と呆れながら言ったところ、

「男子なら、あの手の頭空っぽな話題でなんとかなるのかと・・・・・・」

 と、珍しく落ち込んだ様子で烏山さんは応えた。そこには言い訳の一つもなかった。

 烏山さんは男子を侮りすぎなんだよ・・・・・・僕たちをなんだと思っているんだか。まあこれで、懲りてくれるといいんだけれど。

 そしてそれからの授業時間において、なんと烏山さんは本当に例の作戦を実行していた。

 ふと烏山さんの姿が目に入るとき、彼女はいつだって真上とか真下とかに顔を向けていた――女子の方を頑として見ない姿勢を貫く、というやつだった。

 どうやらあのプランはプランで、本当に彼女としては意味のあるものとして立案していたらしい。あれだけしょげていながらも、僕のためになる作戦は実行してくれるだなんて、つくづく責任感は強い子だと感心する。

 けれど、本当に効果なんてあるのかな・・・・・・えっと、なんだっけ? ああやってる姿を見かけたら、それを小田原さんが見るように仕向けるんだっけ。

 今は水泳部の生徒が、様々な泳ぎのお手本を僕たちに見せてくれているところだった。彼の綺麗なフォームを、僕たちはプールサイドから遠巻きに眺めている。小田原さんはどこだろうか、と小さな動きで首を回していると、少し離れた位置にいた彼女と目が合ったので、僕はすぐに目を背けた。

 ん?

 いま、どうして目が合ったのだろう?

 好きな女の子と不意に目が合って、急いでそれを外したとなると青春っぽくはあるけれど、しかしいかんせん現在僕は烏山なすのなのだった。これでは向こうからしたらこちらは、授業中に謎のアイコンタクトを送ってきた女子生徒(しかもぼっち)となる・・・・・・変に思われちゃわないかな。

 そして、そんな僕の不安は的中した。なんと、小田原さんが他の生徒たちには気づかれないようなさり気ない動きで僕の近くまで来るではないか!

 小田原さんが僕にむけて、ぼそりと耳打ちをした。

「どうかしたの?」

 ひゃあ!! 近い近い近い!

 しかし烏山さんの身体でそんな童貞みたいなリアクションをするわけにもいかず、僕はええいままよと男子たちの固まっている場所に指を向けた。

 えっと、烏山さんは・・・・・・げ。

「?」

 どうしたの? と小田原さんは小首を傾げる。そんな姿もとっても可愛らしくて、もうずっと見ていたいくらいだけれど、そうはいかなかった。

 僕は自分の指さした方向へと改めて目を向ける。そこには邦彦と話す楡木少年の姿があって、彼は身体の向きやジェスチャーは話相手の邦彦に正対しているというのに――その首から上だけは真後ろを向いていた。

 首の骨が折れていることに気づいていないゾンビみたいだった。

 それも海パンしか着ていないのだから、気味が悪かった。しかしここまで小田原さんを引き付けてしまった以上、僕はもう進まずにはいられない。クラスで孤立している女子が、自分とは真逆のヒエラルキーに属するリア充女子を相手にするときって、こんな風に喋ればいいのかな、と想像しながら口を開いた。

「ア、アレ、スゴイネー」

 言いながら、どう考えてもハロウィンの渋谷ですら浮いてしまいそうなあんな姿が、女子ウケの良い姿なはずがないことは分かった。僕に今回のプランを説明する際に、烏山さんはプロ顔負けのモノマネで、小田原さんのリアクションを予測していたけれど・・・・・・さて実際はどうなるものか。

 いや、そんなことも少し考えればわかる――普通にキモがられて終わりだ。

 心の中でぐすんと泣きながら、僕はちらと小田原さんを見遣る。彼女は僕の指の先にある光景を見たかと思うと、すぐに顔を俯かせた。それから掌で顔を覆い隠した彼女の首から先が、みるみる赤らんでいく。

 再度、小田原さんと目が合う。指の隙間から、潤む瞳で僕を見た彼女は小さく頷いた。

 

 え!? アレ本当に効果あるの!?


 ■


「最後に全員一回ずつ25メートルなー」

 という体育教師の気だるい合図で、僕たちはスタート台の前に並んだ。

 結局僕は、授業中は水着姿の女子たちを直視することができず、端っこの方でヘリに掴まりバタ足の練習ばかりをしていた。男子と女子でプールを縦に二分割して使うため、当然ながら僕の周りには女子たちがうようよと漂っていたため、それは仕方のないことだった。

 烏山さんは小田原さんのモノマネをする上で、誠実な楡木くんは女子の恥ずかしがる気持ちが分かってるから~みたいに言ってくれていたけれど、そもそも僕は、露出の多い異性の姿を平然と見られるほどの度胸は持っていないのだ。

 ちなみに僕たちの高校は25メートルプールだ。端まで泳ぎ切れた生徒はそのタイムを先生に教えてもらい、逆に途中で足のついてしまった生徒は何メートル泳げたのかを先生に報告して、各自解散となる流れだ。しかし泳ぎ終わった生徒も、友人らが終了するまでは更衣室には戻らずに、プールサイドで談笑を続けていた。

 やがて僕の泳ぐ番が回ってきた。僕は8つあるレーンのうち、4番レーンのスタート台に立つ。プールサイドに近いと、嫌でもそこに溜っている女子たち(主に小田原さん)のことを意識してどぎまぎしてしまいそうだったので、僕は最も男子たちに近いところで泳ぐしかなかった。普通に泳げさえすれば、小学生の頃にスイミングスクールに通っていた僕には25メートルくらい朝飯前だ。

 ピー。

 ホイッスルの音がなり、僕は入水する。本当は気持ちよく勢いづけて飛び込んでやりたかったけど、先日烏山さんにソフトボールでのバントの件を指摘されたこともあり、目立たない女子としての、下手な入水を心掛けた。

 そして、僕がバタフライで泳いでいると、すぐに異変に気が付く。明らかに泳ぎの進みが遅かった。しかし納得もまたすぐにできた。今の僕の身体は烏山なすのさんのそれなのだ。

 手足は枯れ枝のように細く、その色も真っ白だ。日頃から運動をする習慣なんて無いに違いない。魔術師としては健全と呼べるかもしれないこの身体だけど、普通の人間としては充分に不健康な部類だろう。そんな身体をいつもの男子の身体のように扱っても、同じような成果が得られないのは道理だった。

 身体が入れ替わってすぐの頃、クラスの平均的な男子と肩がぶつかっただけで弾き飛ばされてしまったことを思い出す。あの日以降、女の子としての身のこなしを意識してはいたけれど、それは陸上に限った話でもなかったらしい。授業中はバタ足の練習で時間をつぶしていたから気が付かなかったのだ。おまけにそのバタ足のせいで、足に疲労が溜ってすらいる。

 烏山さんの身体、運動不足だなぁ・・・・・・。

 結局僕は、十五メートルも泳ぎきることができないのだった。烏山さんのこの身体は筋力だけでなく体力もまた極めて少なかった。一度の息継ぎで得られる酸素が、一度の水中で消費される量を下回っていた。これしか泳いでいないのに息を切らしてしまうのはいつ以来だろう。人の身体とはいえ恥ずかしくなる。何が朝飯前だ──しかし、さらに恥ずかしいことは連続する。

 足を水底に着けようと伸ばしたところで、その足が攣ってしまったのだ。

「痛っ!」

 これでは高校生の身体を使っているのか中年の身体を使っているのか分からないな・・・・・・と僕はもう片方の足を水底に伸ばしながら苦笑する。


 その瞬間――プールの水位が僕の頭の上まで急上昇した。


 なっ!?

 海でもなければ川でもない、ただの学校のプールで大波も小波もあるはずがない。さらにタイミングの悪いことに、その現象は僕が息を整えようと、空気を吸い込んだ瞬間に発生した。自然、僕は大量の水を飲み込むことになる。

「がっ、がぼっ、がぼっ」

 苦しい。鼻からも入った水が、肺にまで入りこむ。身体の反射でむせてしまうが、むせた先も水中だった。脳の裏当たりがツンと痛んだ。

 ピンと硬直している片足を手で押さえながら、ぼくはちかちかとする視界の中で、状況をとらえようと必死に水中を観察した。しかしそこにあったのは――普通の学校のプールだった。

 そして僕が抑えている自分の足は、普通の学校のプールの底にまですら、届く長さを持っていなかった。

 僕は馬鹿だった。

 体力や筋力だけじゃなくて――身長も足りていないんだ、この身体は。

 僕が女子の目を避けて選んだ四番レーンは、最も水底が深いレーンなのだから。こんな小さな身体で泳いでいいコースではなかった。

 すぐに苦しくて目も開けられなくなる。むせ込んだ身体は、結局僕の内側にあった最後の空気まで全て吐き出してしまった。それで一瞬だけ楽になったけれど、すぐに今まで以上の苦しみ――いや、もはや痛みと呼べるそれが僕の気管と頭を襲った。

 プツンと、そこで全てが途絶えた。


 ■


 夢を見ていた。

 それが夢だとはすぐに分かったのだけど、そのせいか、見ている傍からその記憶や印象が散り散りと崩壊していくことに気が付いた。見ている景色の輪郭がずっとボロボロだ。

 でも、それが夢ではありつつも、同時に僕の思い出であることにも気が付いた。

 あの日、他に誰も居ない教室で僕だけが苦しんでいた。夕日なのか朝焼けなのか分からない複雑な色をした日差しが、教室を照らしている。

 僕はその光の中で唯一の影だった。ぽつねんと独り佇む僕に、手を差し伸べる存在があった。そのひとの着ているジャージには黒い丁寧な字で<小田原>と書かれていて、その相手が彼女だということを、僕は夢の中で知る。

 ああ、そうか。これはあの日の記憶か・・・・・・。

 そのことを悟ると、急激に視界の隅に黒い幕が降りた。やがて視界全体が暗闇に覆われると、次第に激しい頭痛がやってきた――痛っ! 

 痛み? どうして・・・・・・あれ、そういえば僕は。

「大丈夫!? ねえ!」

 身体を激しく揺さぶられている感覚が、そういえばさっきからずっと続いていたことを、そのときようやく思い出すことができた。背中にザラザラとした触覚がある。骨ばった部分が地面に当たるのか、一部だけ妙に痛かった。けれどそれとは対照的に一部分――頭と床の接地面だけは妙に優しい感触に覆われていた。

「ねえ、ねえってば!」

 自分が目を開けていないことに気が付き、僕はゆっくりと瞳を開いた。そうして開けた視界を覆っているのは、こちらに向けて苦悶の表情を浮かべている小田原さんの顔と、紺色の何かだった。視界がぼやけている。

 あれ、また小田原さん・・・・・・?

「ゆめ・・・・・・?」

「あ、起きた! 夢じゃないよ! しっかりしてよぉ、もう・・・・・・よかったぁ」

 良かった、と言っているくせに、小田原さんのその顔は晴れることがなく、どころかはらはらと涙を零す始末だった。

 そうか、僕はさっきプールで溺れてしまったんだ。そこを小田原さんに助けてもらったということだろうか・・・・・・そのせいで、あんな夢を見ていたのかもしれない。

 僕は痛む喉を震わせて、小田原さんの目を見た。そこでようやく、視界を覆っていた紺色が、彼女の着用しているスクール水着の胸部だったことに気が付いたが、さすがに余裕がないからか、意外にも僕は動揺しなかった。

「大丈夫、だよ・・・・・・おかげさまで」

「ほんとに? よかったぁ・・・・・・死んじゃうかと思ったんだからぁ!」

 僕の身体に力なく手を降ろしながら、小田原さんはすん、すんと鼻を啜って泣き出してしまう・・・・・・良い子だな、本当に。

 こんな状況だし、今はあくまでも自分は烏山さんではあるのだけれど、それでも自分の身を案じて涙を落としてくれる小田原さんに胸がきゅっとした。

「あはは、そんな、泣かなくても・・・・・・小田原さんはむしろ、ぼ・・・・・・あたしのこと助けてくれたんだから」

「違うよ。私は助けてない」

 え?

 小田原さんの潤んでいた瞳が、そのときはじめて僕から外された。彼女が見た先を確かめるために、僕は上体を起こす。そこで、それまで自分が小田原さんに膝枕をされていたことを知ったのだけれど、どうしてかそのことにも何も感じなかった。今はそんなことよりも――。

 小田原さんが目を細めて言った。


「――楡木くんが助けてくれたんだよ」


 小田原さんと、そして僕が見た先では楡木悠――つまりは烏山さんが、邦彦や岩槻、その他男子たちに囲まれているのが見えた。

 邦彦が上気した頬で烏山さんの肩を叩いていた。

「悠、やっぱりお前は只者じゃないな。あんなとっさに助けに動けるだなんて」

「あはは。気付いたら勝手に動いてただけだよ」

 そう言って笑う烏山さんを、隣に立つ岩槻が小突く。

「楡木ってばマジでやるわ~。俺もこれからはスレンダーな女子にも、目を光らせておごっ――目がぁぁ!!」

「大丈夫だよ岩槻。目なら洗い放題だから」

 岩槻の眼孔に突き刺した二本の指を抜き取りながら、烏山さんがほほ笑む。その姿を見てだろう、近くにいた女子生徒らが囁き合うのが聴こえた。

「楡木くんヤバくない? 超紳士じゃね?」

「ねー! てかぶっちゃけ、ずっと結構格好いいって思ってたわ」

「え、優佳も? 私も思ってたわ!」

 おい大丈夫かぁ、と頼りない声を出しながら体育教師が養護教諭を連れてプールサイドまでやってきた。彼らは意識を取り戻した僕の姿を見て、分かりやすいくらいにほっと胸をなで下ろしていた。

 その時、ぽつりとか細い声で呟かれた声は、いつもの彼女のそれとは違っていて、まるで素っ気ない、素朴で質素な声色だったものだから、一瞬誰が発したものか分からなかった。けれど、この距離で聴こえる声なのだから、それは小田原さんが発したもので間違いがなかった。

「楡木くん・・・・・・か」

 どうやら僕は、またも彼女に頭が上がらなくなってしまったようだった。

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