孤独

nununu_games

第1話

1 男、一冊の本


 男は一冊も本を持っていなかった。

 書店で手に取ることはあっても決して所有する事をしなかった。図書館で本がずらりと並んでいる様子をみると、そこに息づく知の巨大さに気圧されるような気がしたのだ。それを手元に置くことが怖かった。 


 ある朝男が目覚めると、枕元に一冊の本が置かれていた、革表紙に金属製の鍵がかけられた古めかしい本だ。鍵以外に細工はなく、タイトルすら印字されていなかった。


 男は訝しく思いながらも本を持ち歩くようになった。装丁が気に入ったというのもさることながら、鍵がかかって中がわからないというのもよい、中身を想像する楽しみがある。


 その日から男は奇妙な夢を見るようになった。


2 夏、初恋


 海へとつづくだらだら坂を自転車部のロードバイクが下ってくる。真夏の陽光でアスファルトには陽炎が立ち込め、自転車のか細いフレームはゆらゆらと蕩け始めているように見えた。少年は海へと坂を登りながら、彼女の言葉を思い出していた。


「私には需要がない」


 彼女がなぜそんな風に思うのか不思議でならなかった。15歳という多感な年齢にありがちな自己憐憫に過ぎないのかもしれないと思った。

 少年は坂をゆるゆる登りながら缶ビールのプルタブを押し込みグイと煽った、冷たい塊が胃の腑へ落ちていった。


「需要のある人間なんて、この世にいないんじゃないかな?」


 僕は有り体な同情をしてみせることでしか彼女に寄り添えないと思った。本当は彼女への仄かな好意を伝えたかった、だが機敏な彼女に失望されるのが怖かった。


「今朝私が死ななくてもよい理由を考えたんだけどね、ないの、理由」


反芻しながら坂を登る、ビールはあっという間に飲み干してしまった。



 死ななくてもよい理由なんて、考えるだけ無駄だ、死にたがりの構ってちゃんにありがちな問いじゃないか。彼女はメンヘラ気質があるからすぐヤレるという評判が立っていた。たぶん事実そのとおりなのだろう。


 少女が少女でなくなるのが破瓜ならば、彼女が弄んでいる存在意義の在処という問いはもうすでに少女でなくなってしまった彼女には稚拙で意味を持たない問題なのではないかと思った。


 坂を上りきると一気に視界が広がった、海と空、水平線、波消しブロック、申し訳程度に砂浜、あまり綺麗な海とはいえない。


「あんたなんか産まなければよかった」少年の母は言う。

「俺の需要ね」


少年は自分が少年でなくなるにはどうしたらよいか、という問いを立てた。堤防に腰掛けて、波頭を見つめながら思案してみたが考えはまとまらなかった。苛立ちまかせに缶を蹴り飛ばした。ひしゃげた缶と靴が放物線を描き落下し、しばし漂った後、波間に消えていった。


バチンと音がした。男はぼんやりと枕元に置かれた本をなでた。留め金が開いている。男は浅いまどろみから覚め、本を開いてみた。4~500頁はあろうかという厚さの本を、パラパラと捲ってみたが男の期待に反して中身は白紙であった。


 ただ一ページ目に「夏、初恋」と書かれていた。フンとため息を付いて男は本を閉じた。その翌日もまた夢を見た。


3 猫、死


 少年には影のように付き従う小さな存在があった。

 それは柔らかな体を擦り寄せゴロゴロと喉を鳴らす。なでるとサラサラの毛の下にゴツゴツとした頭蓋骨の感触があった。それは撫でてみるごとに固いともやわらかいとも表現できた。


 輪郭のはっきりしないそれを少年は"ねこ"と名付けた。

 猫、ねこ、ネコ、気品高く背筋を伸ばして座る様子はネコのよう、丸まって寝息を立てる様子はねこのよう、太い足や耳の軟骨、後ろ足の節などは猫のようだと感じた。


 猫は少年によく懐いたが、ある夏の日急に姿をくらましてしまった。猫は死に場所を選ぶという、だが少年は猫が自分を裏切ったのだと思った。こんなに心配しているのになんて薄情なのだろう。


 数日後、少年は土砂降りの裏路地で息絶えた猫を見つけた。濡れてすっかり小さくなった猫は抱き上げると自重に逆らえずにぐったりと身を捩った。猫を抱いて少年は少しだけ泣いた。


 男は目覚めると本を開いた、そこには「猫、死」と書かれていた。男は訝しく思いながらも印字されているのを見逃していたのかもしれないと思い。それ以上深く考えることはなかった。


4 再会、虚像


 翌日男はまた夢を見た。巨万の富を得たことによって友人達が友人でなくなっていくという夢だ。本には「金、嫉妬」と書かれていた。


 男は夢の中での体験が本に記されていっているのだと気がついた。


それから毎夜欠かさず夢を見た。数ヶ月も経つと本には無数の言葉が印字されていて、読み返すと「夏」には「儚さ」が「死」には「悲しみ」の感情がリアルに呼び起こされるのだった。実体験と遜色ない力がこの本にはあるようだ。


 ある日男は同じ本を持った女を見かけた。

 その女は夢の中で「私には需要がない」と語った少女によく似ていると思った。男は女を呼び止め、自らの本を見せ夜毎の不思議な体験について語った。


 女ははじめ面食らったようだが男の話を聞き、自らにも同じ現象が起こっていることを打ち明けた。それから、互いに本を交換し記されたエピソードを語り合うようになった。


 そして話すほどに、二人が名付けたエピソードが必ずしも一致しないことがわかってきた。女は「母」を「同士」と名付け、男は「憎悪」と名付けた。その不一致もまた興味深く、二人は答え合わせに夢中になった。


だがどれだけ打ち解けあっても互いの名が本に記されることはなかった。

 やがて二人の本の背表紙に「孤独」と、タイトルが浮かび上がった。

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