私と貴女の演奏を

RinRinRintaman

第1話

「私ね、アメリカの大学に進学しようと思うの。」

「え…?」

 

 あの時の言葉を今でも鮮明に覚えている。

高校から帰り道、沈む夕日で白い制服が橙色に染まる中で、私の幼馴染はぽつりと言った。あまりに唐突なその言葉に、私は思わず耳を疑った。

 

 桜井葵ちゃんは私の大切な幼馴染。中学までの私と貴女はいつも一緒だった。玄関を開けたら貴女がいて、肩を並べて登校して。昼休みには学校の中庭で一緒にご飯を食べて、放課後には一緒に寄り道して。人見知りであまり友達が居なかった私にとって、貴女と過ごす時間はとても心地良くてかけがえのないものだった。そしてそれはこれからも続いていくと、そう思っていた。


「お父さんの知り合いに海外でオーケストラのメンバーをしてる人がいてさ、私も吹奏楽を頑張りたくて…」 


 その後幼馴染の口から紡がれた言葉は私の耳を右から左へ通り抜けていく。いや、受け入れたくなかったからなのかもしれない。それだけ私にとって衝撃だったのだ。

どうして行っちゃうの?一緒に同じ大学に行こうって約束したじゃん。今からでも変えたらいいじゃん。私の頭の中で沢山の言葉が駆け巡った。貴女が遠くへ行ってしまう事実を変えたくて説得する言葉をいくつも考えたけれど、貴女が最後に私に問うたことに答えを出すことが出来なくて、その言葉たちはどこかへ散っていってしまった。


「千夏ちゃんはさ、夢はある?」


 私はすぐに答えを返すことが出来なかった。

 葵ちゃんは幼い頃からクラシックが大好きで、小中で吹奏楽部に参加していて高校生になった今でも奏者として部活で活躍している。家に行くとよくフルートを演奏してくれて、その時の楽しそうな様子を見ていると私の方まで嬉しくなってくるほどだった。一度、葵ちゃんのお誘いで家族ぐるみでオーケストラを聴きに行ったことがある。その時に「大きくなったらあの舞台で演奏するんだ」と目を輝かせながら話していた貴女はとても印象的だった。きっと私が思っていた以上にずっと昔から強い信念を持っていたに違いない。そんな貴女が今自分の夢の為に新しい一歩を踏み出そうとしている。

 じゃあ、私はどうだろう。別に得意なことがあることがあるわけでもなければ特別打ち込んでいる趣味もない。貴女が吹奏楽部でいない時は一人でふらりと家に帰るだけ。私がただ楽しい時間に甘んじている間に、大きな差が開いてしまったのではないだろうか。貴女との間に、大きなスケールの違いを感じる。私は一緒にいる時間が一番大切だったけれど、でもそれは貴女にとってはどうだったのだろう。もしかしたら私には貴女の隣で肩を並べる資格がなかったのかもしれない。ふとそんなことを考え始めたら怖くなって、でもそれを確かめるのが怖くて。そんな臆病な自分を変えることが出来なくて、その答えを得ることが出来なかった。 


 私はその日以来、葵ちゃんと少し距離を感じるようになってしまった。登校の時や放課後に一緒に帰ったりするのはいつもと変わらなかったが、どことなくぎこちなくなってしまう。こんな風にしたいわけじゃないのに、何故だか今までのように接せなくなった。私の様子がおかしいことを葵ちゃんも察して心配してくれていたが、私は笑ってそれを躱していた。元々葵ちゃんも次のコンサートに向けた吹奏楽部の練習や大学受験の勉強が忙しかったのだろう。私が距離を置こうとする姿勢に比例して、気づいたら会う頻度までも減ってしまった。このままでは駄目だと自分でも分かっている。なのにどうしても心の整理が出来なくて、気が付いたらズルズルと一か月が経っていた。






「夢、かあ…」


 ある日の昼休み。私は一人机で頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。外では授業を終えた他の生徒たちが移動教室から戻ってくる姿が見える。和気藹々としたその様子に対して、私の心は霧がかかったように蟠っている。教室ではクラスメイトが各々友達と集まって弁当を広げているが、私にはそんな友達はいない。葵ちゃんは吹奏楽部の昼練習があって授業が終わった後そのまま音楽室に直行してしまった。

 

 葵ちゃんと距離を置くようになってから一か月、私は孤独の日々を過ごしていた。別々に登校して授業を受けて、放課後は部活に勤しむ葵を横目に帰路に着く。今までずっと二人で居た時間を一人で過ごすのはとても寂しくつまらなかった。お母さんの作ってくれた弁当をぼそぼそと口に運び、参考書を片手に手を動かす。ただそれだけの動作しかできない今の自分がとても惨めな気がした。

 私って何だろう。考えたことのなかった問題はいまだ私の頭をかき乱している。葵ちゃんは素敵な人だ。自分の明確な目標に向かって頑張っている。向日葵みたいな素敵な笑顔の持ち主で。肩まで伸ばした髪はサラサラでいつもおしゃれで。成績も良いからきっと大学にも合格するだろう。そんな子の隣に私は居ていいのだろうか。私は人見知りで友達が少なくて、成績は普通で特別何か得意でも無くて。しかもちんちくりんだし。葵ちゃんの良いところを挙げるほど自分のスペックの低さを感じて自信を失ってしまう。こんなネガティブさも私の欠点なのだろうか。


「はあ、次の授業の教室行こう…」


 私は教科書を鞄につめて席を立った。昼休みはまだ十分ほどあるのでクラスメイトたちはまだ教室に残っている。いつもなら「千夏ちゃん、次の教室早く行こう?」と誘ってくれる葵ちゃんの姿は無い。楽しそうに話す面々を横目に私は足早に教室を出た。


 次の授業、情報基礎の授業は別館にあるコンピュータ室で行われる。私はそこへ向かう渡り廊下を歩いていた。すると脇の柱へと歩く見慣れた後ろ姿が見えた。たくさんの生徒が闊歩する中でもはっきりと見分けられる、その生徒は。


「葵ちゃん?」


 人目に付かない別館の裏へと歩いていくその生徒は間違いなく桜井葵その人だった。なにか難しそうな顔で歩くその姿がどこか気になってしまって、気づけば私はその後ろをこっそりと付いて行っていた。

 そこに居たのは葵ちゃんと、五人ほどの見慣れない女の子たちだった。後輩だろうか。来てくれてありがとうございますと敬語で話す真ん中の子の表情はとても真剣で、強いまなざしで葵ちゃんを見つめていた。そして次の瞬間彼女から発せられた言葉に、私は思わず息を飲むこととなった。







 「葵ちゃん」

 「…千夏ちゃん?」

 

 彼女らが話し終わってその場を去った後、その場に立ち尽くしていた葵ちゃんに私は思わず話しかけていた。

 

「千夏ちゃん、なんだか久しぶりね。話しかけてくれて嬉しい…」

「今の話、どういうこと?」

 

 よそよそしく笑って言葉を紡ぐ葵ちゃんを遮って、私は問う。強気に問いかける私が珍しかったのか、葵ちゃんは少し驚いたように目を見開く。


「そっか、聞いてたんだね。今の話」

 

 困った顔をして聞く彼女に、私は首を縦に振る。

 

「どうして、どうして葵ちゃんがコンサートの出場辞退を迫られてたの?」

「それは…」



キーンコーンカーンコーン



 葵ちゃんが話しかけた瞬間、午後の授業開始を知らせるチャイムが鳴った。

 

「ほら千夏ちゃん、次の授業始まっちゃったよ。怒られる前に早く、行こう?」


 





 結局、授業開始のチャイムに邪魔されてはぐらかされてしまった。教室に向かうまでの道中、早足で少し前を歩く葵ちゃんは一度も私に顔を向けてはくれなかった。その様子はまるで何かに焦っているようにも思えた。しかしその時点では彼女の事情も心情も聞く余裕には私には無かった。

 

「どうして葵ちゃんが降板しなくちゃいけないんだろう。凄く上手なはずなのに…」

 

 私の知っている桜井葵の演奏は、それはもうとびきり上手かった。彼女がフルートを吹く姿はとても可憐で、それが奏でる音色はまるで小鳥のさえずりのように素敵で、優しい風のように耳に届き聞いているみんなを魅了していた。昔から何度もコンテストを受賞していたし、腕は確かのはず。かく言う私も幼い時から彼女の演奏が大好きだった。一か月前も次のコンサートに向けて張り切って練習していると言っていたのに、それが一体どうして…?

 

 その放課後、私は気付けば音楽室の前に居た。背伸びしながらドアの小窓を覗くと、中で吹奏楽部が練習しているのが見える。みんな教壇に居る指揮者に向かって座っているため、その反対側にあるドアからは背中しか見えないが、それでも彼女を見つけるのは容易かった。楽団の最前列の中央でフルートを奏でる見慣れた後ろ姿。間違いない、葵ちゃんだ。

 しかし、どうも様子がおかしい。指揮者に何度も指摘を受けているのだ。指摘を受ける度に他のメンバーが肩を落とす様子も見てとれる。どうやら葵ちゃんのせいで演奏が止まっているようだった。もう少し様子が見たいな、と私は更に姿勢を伸ばす。

 

「そこで何をしてるの?」

「ふえ!?」


 突然後ろから声をかけられて思わず肩が跳ねる。背伸びしていたせいでバランスを崩しぺたんと尻餅をついてしまった。振り向くとそこには一人の女生徒が腕を組んで私を見下ろしていた。おそらく先輩であろう彼女は眼鏡の奥から私を見つめ、凛とした態度で私に問いかける。

 

「吹奏楽部に何か用かしら?用件があるなら私が聞くけれど」







「葵ちゃんがスランプ…ですか?」

「そうなの。最近の桜井さん、なんだか演奏の切れが無くて…。」

 

 私に声をかけたのは幸運にも休憩中だった吹奏楽部の先輩であった。私が葵ちゃんの幼馴染で仲が良いと聞くと、彼女は快く質問に答えてくれた。

 先輩曰く、葵ちゃんは次回のコンサートでフルート奏者として最前列で演奏する予定だったらしい。しかし最近になって急にミスや演奏のムラが目立ち始めて、遂に昨日後輩からも出場の座を代わるよう言われるまでになってしまったというのだ。


「コンサートも来月に迫ってるからメンバーもみんな仕上げにかかって、そんな中ミスが多い桜井さんはどうしても目立ってしまって…。」

「そんな…。葵ちゃんが……?」


 私は耳を伺った。あの完璧なパフォーマンスを持つ葵ちゃんがスランプ?いつも楽しそうに演奏する彼女の姿を知っている私にとってそれは信じられないことだった。


「あの、それっていつからのことなんですか?」

「そうね…。コンサートに向けての練習が始まってすぐの頃だから、大体一か月前ぐらいかしら。」

「一か月前…」


 一か月前。それは私が葵ちゃんと距離を置き始めた頃。それってつまり、私のせいで?


 居ても立っても居られない様子の私を見て、先輩は提案する。


「今日の部活は六時に終わるわ。よかったら貴女から桜井さんに話してくれないかしら?」








「葵ちゃん!待って!」

  

 午後六時、部活を終えて足早に校門を出た葵ちゃんの背中を呼び止めた。その背中はいつもよりも明らかに落ち込んでいて、とても元気なようには感じられない。私は振り向いてくれない彼女の手を取る。


「…千夏ちゃん?どうしたの一体?」


 突然のことに葵ちゃんは驚いたような、困ったような顔で私に問う。


「いいからこっちに来て!」

「ちょ、ちょっと!?」


 困惑して声を上げる葵ちゃんを無視して私はその手を引いて走り出す。その手を離さないように、強く握りしめて。








「ここは…」

 

 私が葵ちゃんを連れて走ったその先は、私たちの家のすぐ近くにある小さな公園だった。もう遅い時間だからかそこに人の姿は無く、夕日に照らされて遊具が赤く照らされている。私は風でかすかに揺れるブランコに腰を掛ける。


「それで千夏ちゃん、こんなところまで私を連れてきたのって…?」

「…聞いたよ、葵ちゃん。最近演奏の調子、悪いんでしょ?」

「っ……。」

 

 私の言葉に葵ちゃんが言葉を詰まらせ、俯いてしまう。


「それは、その…」

「ごめんなさい!」

「え…?」

 

 私はブランコから勢いよく立ち上がり、葵ちゃんに頭を下げた。葵ちゃんは驚いたように目を見張る。


 「私、葵ちゃんを困らせるつもりはなかったの…!」


 驚く葵ちゃんを横目に、私は続ける。


「ただアメリカに行きたいって言う葵ちゃんの話を聞いてたら、葵ちゃんの隣に居ていいのかなって思うようになっちゃって…。」


 捲し立てるように言葉を紡いでいたら、段々と涙声になってきてしまった。

思えば私は葵ちゃんにしてあげられたことなんて一つも無かった。幼い頃からいつだって手を引いてくれたのは葵ちゃんで、私はそれに引かれて甘んじていた。葵ちゃんが居ない私は一人ぼっちで何もない、つまらない人間。そんな人間が葵ちゃんのような人の隣にいていいはずが無かったんだ。

 私のせいで葵ちゃんを困らせてしまったのだから。私のせいで葵ちゃんは良い演奏が出来なくなってしまったのだから。だからケジメを付けなければならない。


「だから私、もう葵ちゃんの邪魔をしないようにするから…。葵ちゃんも私のことを気にしないでコンサートに…。」

「やめて、千夏ちゃん!」

「……葵ちゃん?」


 葵ちゃんが私の言葉を止めた。


「違うの、違うの千夏ちゃん。私の調子が悪いのは千夏ちゃんのせいじゃないの…。」

「でも、良い演奏が出来なかったのって私が変に距離を取って葵ちゃんを困らせたからで…。」

「そうだけど、そうじゃないの…。私のスランプは千夏ちゃんのせいじゃなくて、私のせいなの!」


 葵ちゃんは私の握りこぶしを解き、両手を取った。私は驚いて顔を上げる。

 葵ちゃんは目に涙を浮かべていた。


「千夏ちゃん、私ね。最近バイオリンを弾いていても全然楽しくなかったの。どんなに練習して、どんなにコンサートに向けて頑張っても。」

「それは私が…。」

 

ううん、と葵ちゃんは首を横に振る。


「確かに千夏ちゃんがしばらく私を避けてた時はとても寂しかった。でもきっと千夏ちゃんは一人で何か考えたいのかなって、そう思って私も一人で頑張ってみなきゃって、そう思ったの。でね、その時に気が付いたの!私は自分だけで楽しんでたんじゃないって」

「それって…」

 

 葵ちゃんは涙をぬぐい、改めて私の両手をぎゅっと握りしめる。涙で濡れたその手はとても暖かくて。


「私は千夏ちゃんに聞いてもらうのが嬉しくて、バイオリンを弾いてたんだって!」


 その時の葵ちゃんの笑顔は今まで見た中で一番素敵で、とてもまぶしくて。

 

 「だからね、私にとって千夏ちゃんはとっても大切な存在なの…。だから千夏ちゃん自身でそんな寂しいこと言わないで…!」 


 沈む夕日に照らされ私たちの体が橙色に染まる。


 「…私なんかでいいの?」


 葵ちゃんはまっすぐ私の見つめて言った。


 「千夏ちゃんだからいいのよ」



 

 

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