空賀綺羅々の生存戦略①

 空賀くが綺羅々きららはいつもの朝と同じように、そっけないコンクリートの階段を降りて駅を出た。


 道路に踏み出そうとして、一旦足を止める。時々見かける小学生二人組が、今日はやたらとぴょんぴょん飛び跳ねながらすぐそばを通過しようとしていたからだ。彼らは必死にまだ発達しきっていない足を伸ばし、跳ね、よろけて無理な体勢になりながらも、かたくなに白い線の上だけを選んで進んでいた。


「あっ、やば!やばい!!」


 ぐらりと大きく揺れた茶色のランドセルの少年が、わたわたと手を振ってバランスをとりながら叫ぶ。今の彼らには白い線だけが安全地帯で、他はマグマや二度と這い上がれない断崖か何かなのだろう。綺羅々も小さい頃に散々そうやって遊んでいたので、よくわかった。


「ろっちゃん耐えろ!」


 少し先を行っていた黄色いランドセルの少年が、友人を救出しようと線上を駆け戻る。手を取り合った二人は、


「ファイトぉおおー!」

「いっぱぁああーつ!!」


 と、某栄養ドリンクのCMよろしく雄叫びを上げながら、なんとかバランスを回復した。


 彼らが危機を無事に回避し、ひょこひょこと去っていくのを見送った綺羅々は、何の気なしに側にあるカーブミラーを見上げる。そこには長い黒髪に白いメッシュを何本も入れた、派手な見てくれの女子高生が映っていた。


「……」


 つまるところ、この装いは彼らの白線と同じなのだ。いくつ歳をとっても相変わらずその延長線上にいるらしい自分に、なんとも言い難いものを感じながら綺羅々は歩き出す。


 駅前のこの辺りは、朝といえどもそれなりに人通りがあった。綺羅々と同じ学生服を着た少女たちや駅に向かう通勤中の人々が足早に行き来し、それぞれの靴音が朝の空気に混じり合う。


 道の向こうから歩いてきたスーツの青年が、思わずといったように綺羅々に目を向けた。気づきはしたが、視線を返すようなことはしない。ただ淡々と前だけをみて、通り過ぎる。異質な色に向けられる視線の多さに最初の頃こそ戸惑ったが、この一年ほどですっかり慣れていた。


 綺羅々はもとから派手好みだったわけではない。小学校中学校と、とにかく地味を極めていたくらいだ。服も持ち物も主張の薄いものばかりを選ぶようにしていたが、結局肝心の目論見もくろみの方はうまくいかなかった。それで仕方なく、もう一歩踏み込んだ手を取ることにしたのだ。


 高校の入学式前の春休み、美容院で三度もブリーチをかけてもらい、長い黒髪に太い真っ白なメッシュを何本も入れた。ピアスの穴を開け、それだけに飽き足らずイヤーカフやイヤークリップまで動員し、銀やキラキラしたアクセサリーを耳にいくつもつける。アイメイクははっきりめに、眉はあまり細くせず意思を感じさせるように。持ち物もできるだけエッジが効いたものを。


 派手さの選択肢としてはギャル系とも迷ったのだが、万が一ギャルやギャル男に寄って来られても困るので別系統のものを選んだ。そうして、モード系とヴィジュアル系を足して二で割ったような見てくれが完成したのである。


 もののひと月で異星人かというくらい変貌した娘に、両親は何事かと口をあんぐりさせていたが、「こういう思いきったの、実は一回やってみたかったんだよね〜」と綺羅々は笑って誤魔化し、ただの若かりし興味ということにしておいた。本当のところは、突然ファッションに目覚めたわけでもなければ、大人への青き抵抗をしたくなったわけでもない。けれどその真意を、母と父には説明しづらかった。


 これは盾。そう、盾だったからだ。


 もしくは異質とエセの自己主張による、不可侵の標識だろうか。あるいは白い線の安全地帯。熊避けならぬ、人避け。


 気弱そうな人間には憂さ晴らしでぶつかっても、気の強そうな相手は避けていくような人間は一定数いる。そしてそういう類ではなくとも、一見して主張の強い者には人は絡みにくいものだ。そのための変貌、そのための装いだった。


 空賀綺羅々にとって世界は怖いもので溢れていたが、中でも一番恐れていたのは人間だったから。


 こんな内実を明かせば、人は呆れるかもしれない。けれどそれが高校生活をなんとか無事に乗り切りたい、彼女の精一杯の生存戦略だった。


「チッカちゃん、はっけーん!」


 軽快に綺羅々を追い越していった同じ制服の少女が、友達に飛びつくようにして合流する。


「おお、おはよ。ほんと朝から元気だよね、テルテルは」

「元気ですとも。太陽照る照るテルさんだからね。ところでチッカちゃん、一限の数学の宿題やった?」

「あー、まぁ一応は。あんま自信ないけどね…」


 恐らく、先月入ってきたばかりの一年生だろう。まだ傷も少ないピカピカのローファーと、真新しさの滲む制服を着た二人はどこか初々しい。


 自分も去年はあんな瑞々しい若芽のようだったのだろうか、などと考えながら彼女たちの後ろを歩いていた綺羅々は、うっかり吹き出しそうになって慌てて唇を噛む。あまりに強そうに見えたのか、入学オリエンテーションでは同級生はもちろん先輩方まで軒並み遠巻きになっていたのを思い出したからだ。そんな人間に、初々しさなどあるはずもなかった。


「さすがチッカちゃん!ありがとう!!」

「いや、なに勝手に見せてもらう方向で話を進めてるの!?そのご自慢の元気で自力で解かんかい!なんのための活力よ?」


 チッカちゃんと呼ばれた少女は、友人の腕を思いきりはたいてつっこんでいる。


「努力はね……努力はしたんだよ……?教科書とノートを開いて、椅子に座るとこまでは努力したの。でもね、私はその時悟ってしまったんだ、チッカちゃん。この溢れんばかりの元気は、人と絡むためにあるんだって。君たちのためのものなんだ。印字された文字なんかのためじゃないんだよ」

「いやいやいや、いい話風に言ったところで、宿題の答えを人にたかってるっていう事実は揺らがないからね!?一ミリたりとも変わらないからね!?」

「私三列目だから今日当たるかもなんだよ〜!美味しいはちみつをあげるから!ね、ね、お願い!」

「それで私が懐柔かいじゅうされると!?黄色いクマに頼めよ!!」


 少女たちの楽しげなやりとりは、しかし一年以上同じように学生生活をしているはずの綺羅々には、まるで無縁のものだった。はなから求めるつもりはなかったとはいえ、それでもこういう気心知れた会話を耳にすると、その近しさを羨ましく思わないわけではない。


 けれど自分の護りを捨てて他者に歩み寄るのは、あまりにもリスクが高いと綺羅々は思っていた。人というのは移ろうものだ。今日笑い合っている隣の彼女が、明日そっぽを向く可能性は決してゼロではない。


 ——————私の最優先事項は、誰とも深入りせずに自分を守ること。それもできれば完璧に。


 そう目的を確認し直した綺羅々は速度を上げ、いまだじゃれ合っている二人を足早に追い越した。


 小さな商店街を抜け、住宅地を十分ほど歩くと、やがて学校が見えてくる。


 綺羅々が通う空乃女子高等学校は、大正の終わり頃に開校された、それなりに歴史のある進学校だ。


 幾度も増築や改築が行われた校舎は広くて立派だが、かなり年季も入っている。時代の流れで使われなくなった部屋も多く、一年以上ここに通っている綺羅々でも、視聴覚室などは前を通り過ぎるばかりで中に入ったことがない。そもそも視聴覚室というのが、一体なにをするための部屋なのかもよくわからなかった。


 そんなわけで、いよいよ本校舎の建て替えが検討されているらしい。二年生になったばかりの頃にクラスメイトのやり取りを漏れ聞き、綺羅々はそれを知った。ただ、物が物で動く金額も大きいだろうから、ここ一、二年で急に工事が始まるなどということはないだろう。だから綺羅々をはじめとする在校生たちにとっては、あまり関係のない話ではある。


 ちなみにその時クラスメイトたちの関心が集まっていたのは、校舎自体の建て替えよりも、それに伴い制服が一新されるかどうか、という点だった。


 開校以来デザインがほぼ変わっていないこの上下セパレートのセーラー服を、古臭くてダサいととるか、レトロで可愛いと感じるかはそれぞれだろう。綺羅々としては、成績がある程度高い位置で維持できれば、髪色や制服の着崩しについてごちゃごちゃ言われないこの環境には満足していた。


 堂々とした構えの校門を通り過ぎ、ぞろぞろと女生徒たちが吸い込まれていく昇降口に向かう。


「おはよ」

「おっはよ〜」


「もー、本当だるいわぁ」

「なに、まだ五月病?」

「いや、これが病なら、五月だけじゃなくて、きっと六月も七月も病気なんだろうね、私は」

「なんだ通常仕様か。心配して損した」


「おはよー」

「…おはよ…ねむい…しぬ…」

「あっ、待って待って!寄っかかって寝ないで!起ーきーてー!今日一限小テストだから、今寝たらマジで死ぬって!!」


 そこここで交わされている朝の挨拶に、綺羅々が混ざることはない。自分から声をかけることも、誰かから声をかけられることもなかった。昨日も今日も明日も、ただ淡々と誰かと誰かの関わり合いのその傍らを、通り過ぎるだけ。


 それが入学した頃から、そして卒業するその日まで、決して変わることのないだろう日常だ。綺羅々はそれを確信していた。


少なくとも、今この時までは。

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