七分七十七秒のゆくえ

 もう逃げられない——覚悟を決めて唾を飲み込む寸前、自分とは別の力で体が傾いだ。

「おねえさん、いそいで」

「わ」

 詰まるはずだった喉元から代わりに息が溢れ、閉じようとしていた口は開いたまま間抜けな発声になる。咄嗟のことに手から離れた通路への扉が閉まり、揺らいだ視界の端に出口で青年が固まっている姿を捉える。

 逃走本能だろうか。体は考えるより前に均衡を求めて引っ張られた腕の方へ向き直り、そちらへいつの間にか足が動いていた。視界の下の方でさらさら揺れる黒い髪が目に入る。

「はやく!」

「えっ、ゆうちゃ」

 ふいと一瞬だけ振り返ったゆうちゃんは私がついてきているのを確認すると、すぐに手を離して駆け続ける。しかし急いでという割に不恰好な前傾だ。

「あっ、あまのがわはずれちゃだめ!」

「天の川?」

 訳がわからないまま先導者の後につくが、目線は下を向いたまま、小さな体はまっすぐ進まず妙に右へ左へ跳ねていく。

 その危なっかしい足元を見ると、ゆうちゃんは床に描いた天の川の筋を見事に踏んでいた。

「たいむ、りみっとまで、あと、すこし」

 私が歩幅の小さいゆうちゃんについて行くのは余裕だが、彼女は全力疾走らしい。壁に時計を求めるように、ぐるんと展示室を仰いで切れ切れに呟く。

 無数の星々にパンプスを着陸させながら、腕時計をチラ見する。星型の印で時間が区切られた文字盤の上で、星座線のような二本の針がかちりと動いて直線を作る——七時五分。

「ゆうちゃん、これって私……」

「おねえさんとゆうちゃんがいっしょじゃないとだめなの」

 走りながらこちらに首を回したゆうちゃんの上気した顔は、展示ライトに照らされていっそう明るい。

 ——もしかして。

 色とりどりの流れが目指す先は、七月の特別展示室。星物語をたどりながら作った七夕特別のイベントには、織姫と彦星の二人の逢瀬に想いを馳せた。

 二階フロアを抜けて入る最後の階段は、天体観測室に続いている。

 ゆうちゃんのスカートがひらひら跳ねて、小さい足が金銀を散りばめて作り出された天上への梯子を昇っていく。

 胸の鼓動が耳にまで聞こえてくる気がするのはヒールで走る息切れのせいか、それとも信じきれない推測のせいか。

 星辰瞬く星図が消え、突然あたり一面が真っ暗になる。

 だがもう、迷いなどない。

 暗幕で作ったブラックホールを加速して突き抜けると、途端に目が眩んだ。

「とうちゃーく!」

 ゆうちゃんの嬉々とした叫びと一緒に私の視力が回復してくる。暗闇から抜けた目に飛び込んできた鮮やかな光の粒が、深い藍色の地をところ狭しと埋め尽くしていた——満点の星空だ。

「ゆうかちゃん、ダメじゃないの突然飛び出しちゃあ」

「ああスズちゃん、まだ残っていてよかったわ」

 ゆうちゃんのお母さんと星歌さんの声が同時に起こった。見れば駆け寄ってくるお母さんには構わず、ゆうちゃんは一目散に星歌さんの元へ走っていっていた。

「おねえさん、ゆうちゃん、間に合った!?」

「はい、確認します」

 星歌さんは勿体つけて袖を引き、時計を確認する。今日はイベント最終時間に星巡り案内人に扮した彼女は、時計の文字盤に人差し指を当てると、うん、と大きく頷いた。

「確かに七時七分六十秒です。それではゆうちゃん、これから七分七十七秒の旅にご同行願うのは、彼女でよろしいですか」

 星歌さんはさっきまでの朗らかな笑いを消して、真面目腐った顔でゆうちゃんに向き直った。

「はい!」

「了解。それでは我がスペース・ドームのスズさん、ご準備はよろしいですか」

「え、待っ……だって、七十七秒の旅は……」

 幸あるようにのラッキーセブンと引っ掛けて、七夕イベントの特別クイズで「七十七秒」の謎かけをしたのはこの私だ。人間の物理的時間にはあり得ない七十七秒と、織姫と彦星の出会いを繋げて今日の日のために作り上げた。

 でもそれは、恋人たちの幸せにぴったりなようにと……

 その場に立ち尽くした私の手が、くいっと引っ張られる。

「おねえさん、一緒に来てください! ゆうちゃん、おねえさんとがいいの!」

 どこまでぼんやりしていたのか、なぜか手に握りしめたままだった受付帽のターコイズ・ブルーの布端が、小さな指の中に絡め取られていた。

 ぼやっとした耳に星歌さんの涼やかな言葉が流れてくる。

「いつも笑顔でキリリとかっこいい受付さんは、ずっとゆうちゃんの憧れだそうですよ、スズ隊員。ゆうちゃん、七十七秒の星巡りは、スズちゃんとじゃないと行きたくないそうです」

 流れるような言い回しは常の星歌さんだが、柔らかな微笑みが滲むような声が、私の強張りを解いていく。それをゆうちゃんのお母さんが継いだ。

「ごめんなさいね。この子、スズさんに憧れて憧れて、いっつもここの受付さんになるんだって」

 じっとこちらを見つめているゆうちゃんの視線が熱い。

 受付はお客様を送り出し、そして帰還を迎えるだけ。その場の印象は大事でも、解説員と比べて深く記憶に残りはしないと思っていたのも本当だ。妙な客以外には。

 それでもいたのか。いつもあそこに立っている私を、私のままに見てくれている存在は。

 あどけなく何の含みもない、真夏の一等星みたいに強い瞳が私を見上げる。

「おねえさん、いいですか?」

 瞳に熱いものが浮かんでくる。けれどもすぐさまそれを擦って消した。

 受付は常に美しくきりりと。そして笑顔でなくてはならない。

「喜んで」

 この世にはあるはずのない七十七秒。そこにこめた意味は、人の力の及ばぬ悠久の時が流れる世界。

 お客様への謎かけは、七夕の星空観察、天体望遠鏡ブースへの入場条件だ。

 ——七月七日、七分七十七秒の星巡りへ一緒に行きたい人を、選んでください。

 七十七秒の星巡りは、この世の時間の限りなく、大事な人と共にいられる旅になりますように、と。

「行きましょう。悠久の星巡りへ」

 大事な人と。地上の時を忘れて。

 膝を折り、ゆうちゃんの小さな手を包み込む。それからターコイズ・ブルーの帽子を広げて、瞳を輝かせた少女に被せた。

 すると幼い救世主は一瞬だけ目をまんまるにすると、ピシリと背中を伸ばす。

 そしてよく通る声で、いつもなら私が言う送り出しの文言を、一字一句違わず朗々と述べる。

「さあ、星巡りのはじまりです! あなたの旅がかけがえのないものになりますように!」

 ブラックホールの出口からフロアの中央へ向かって天の川が流れている。

 握りしめた彼女の手に引かれ、私は星屑の川へ一歩踏み出した。

☆☆☆☆☆☆☆

 End.


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七月の七分七十七秒のゆくえ 佐倉奈津(蜜柑桜) @Mican-Sakura

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