3 男たちが知ること

「外に出てくる」

 最後の羊毛を詰め終えると、私は母にそう言い置いて畳んで椅子の上に置いてあったマントを掴んだ。しっかりと体に巻きつけ、私はフードに髪をたくしこむ。すっぽりと青に覆われた私は、真っ白な雪の中でさぞかし目立つことだろう。


 軋む扉を引き開けると、冷たい北風が吹き込んできた。わずかに雪が混じったその風は凍るように冷たく、私は目を閉じる。寄り集まるようにして立ち並ぶ小さな家々は、どれも黒と白に包まれていた。人の気配はなく、古びた煙突から立ち上る煙だけが、北風に揉まれて流されている。本格的な冬が訪れれば森も村も、全てが白に染まるのだろう。


 私は薄く目を開き、うっすらと雪に覆われた階段を下る。半分水になった重い雪を踏みしめながら、私は村の中心に向かった。

 人とすれ違うことはほとんどなく、時折山羊や羊の鳴き声がかすかに聞こえてくるだけだった。普段ならむっとにおう獣臭も、この寒さの中ではなりを潜めている。徐々に道が広がり始め、踏み固められた土の地面はひび割れた石畳に変わった。つるつると滑りやすい石に、ブーツのかかとがぶつかる音が鈍く響いている。やがて行手に細い煙が見え始めた。傾きかけた家の裏口に樽を転がしていく少女の姿をみとめ、私は足を速めた。


「エミリア!」

 声をかけると、少女は樽を転がす手を止めて顔を上げた。長い間外にいたのか、彼女の頬は真っ赤に染まっている。

「ルビーじゃない」

 私はエミリアに近寄り、くいっと顎で酒場の窓を示した。曇ったガラスの向こうから、静かなささやきと人の気配が感じられる。

「みんないるわよね?」

「え? ええ、男たちは相変わらずいるけど。店の中で変なことしないでよ」

 眉を寄せるエミリアの口から、白い息が細く漏れた。私は思わず笑ってしまう。二つの小さな煙が、冷たい空気の中で絡まり合っていく。

「変なことなんてしないってば。お邪魔するわね」

「表から入ればいいのに」

 いぶかしげにこちらを見ているエミリアを置いて、私は裏口の扉を開けた。ぎい、と低いうめきをあげて、扉は開いた。シードルやエール、葡萄酒の匂いが混じり合った乾いた空気が、ふんわりと鼻腔を覆った。裏口を入ってすぐのこの空間が、この酒場の倉庫になっているのだ。細い通路を抜ければ、カウンターの中に出る。マントを翻し、私は樽の間の細い通路を抜けた。

 男たちのざわめきが近くで感じられる。安い葡萄酒とエールの匂いが強くなり、私は鼻に皺を寄せた。カウンターに出ると、男たちが思い思いに椅子やベンチに腰掛けて酒をあおっていた。暖炉のおかげで十分に暖かかったが、煙がすこし逆流しているところをみると、煙突が詰まっているのかもしれない。

「何する気なの?」

 後から追いついたエミリアが、呆れたように私に声をかけた。

「家でやることがなくて。今だけここで働かせて。昼間っからこの賑わいじゃ、どうせ手が足りないと思ったの」

「また。やることがないわけがないじゃない。おばさんの手伝いがめんどくさいだけでしよ」

 それには答えず、よく磨かれたグラスを棚から下ろした。

「言っておくけど、お給金はないからね」

「わかってる」

 そう言って笑顔を作り、マントを脱いだ時だった。私にちらちらと視線が向けられているのを感じ、客席の方に目を向けた。その視線の主を見た瞬間、私の喉から声が漏れた。

 エミリアが悪戯っぽく笑い、私の顔を覗き込んだ。

「ジャックがいるなんてめずらしいわね。手伝いはいいから、行ってきなさいよ」

「いい。手伝うわ」

 ジャックが視線を向けてくるのを無視し、私はグラスを磨き続けた。ジャックはあまりこの酒場に来ない。酔った中年の男たちの間で、ジャックは彼らに次々と酒を飲ませていた。なにかひそひそと話しているところを見ると、彼も私と同じことを考えていたらしい。


「ルビー!」

 不意に声がかけられ、私は顔を上げた。見ると、暖炉に近い席の男が空のジョッキを大きく振り回しているところだった。

「エールを持ってきてくれ!」

 私は磨いていたジョッキをくるりと回し、後ろに並べられた樽を振り返った。どの樽にも、エミリアの几帳面な文字で、酒の名前が書かれたラベルが貼り付けられている。私はエールと書かれた樽の栓をひねり、エールをジョッキに注いだ。

「待って。少なめにしてね、あの人飲み過ぎだから」

 エミリアがそう言い、私は栓を閉める。カウンターから出て、テーブルの間を縫って暖炉のそばへ向かった。ちょうどジャックの席を通り過ぎようとした時、不意に袖を掴まれた。

「シードル」

 ジャックがそう呟き、私はうなずいた。視線を交わした瞬間の、彼の無言の訴えに、私はちゃんと気づいていた。

「大丈夫よ」

 そう言い置き、私は素早くその場から離れた。やらなければならないことくらい、ちゃんとわかっている。大丈夫、うまくやれる。

「昼から飲み過ぎじゃない?」

 あきれたように言いながら、私は彼らのテーブルにエールを置いた。

「余計なお世話だ」

 そう言いながら、彼らは豪快に笑う。

「ここを黒字にしてやってるのは俺たちなんだからよ。飲みすぎるくらいでちょうどいいんだ」

「奥さんに怒られないくらいでやめておいてね」

 私は浅く息を吸い、さりげなく話題を変えようと試みた。

「そういえば、前の感謝祭でも同じことを言わなかった?」

 感謝祭、という言葉を口にした瞬間、彼らの顔つきが変わった。無言でエールのジョッキを持ち上げると、大きく一口飲み込む。私は彼らの返答を辛抱強く待った。

「感謝祭があんなふうだったから、神様はきっと怒っていらっしゃるよ」

 一人がそう言い、さざなみのように同意の声が広がった。

「恐ろしいよまったく。これからどうなることやら」

 中年の男が言った。

「俺の父ちゃんの子供の頃は、感謝祭の時にまであれが村に入ってくるほど、ひどくなかったって聞いてるがな」

 指の間がさっと汗で濡れた。この言葉は、とても大切な気がした。私は気持ちの高ぶりが外に現れないように細心の注意を払いながら、なにげなく口にした。

「へえ。お父さんの時代から、あれはこの村を襲ってたのね」

「ああ」

 それ以降、誰も口を開かなくなった。ここで一旦話題を変えるしかない。私は明るく飲み過ぎを注意すると、素早くその場から立ち去った。

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紅の贖罪 木村比奈子 @hinako1223

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