第9話

第??話


【鬼ヶ崎藤side】


「お兄ちゃん」


脳裏でいたいけな少女が笑う。


黒く艶やかな髪が顔にかかっていたのを、彼女は不思議そうに見ていたっけ。


……まだ覚えてるよ。


呪いか祝福か、僕の頭にはその声も一挙一動も焼き付いていた。


「私ね、守りたい人が出来たの。

……守り続けていたい人、かもしれないけど」


かつて少女だった少女は言う。


いつしか来るかもしれない、その別れを告げる。


「……そうなんだ。

良かったね」


ここで僕が止めていたら、べには___たった一人の義妹いもうとは、彼女は夢喰いを殺すだなんて危ない道に行かなかったか。


紅が死ぬことはなかったのか。


……聞いた話によると、彼女のおかげで救われた命が沢山あったらしい。

紅が死ぬ間際に殺した夢喰いから、助かった人たちが沢山いたらしい。


時々僕の元にもお礼の言葉が届いていた。


でも、そんなことどうでも良いんだよ。


紅が生きてくれていれば、そんな事どうでも良かったんだ。


誰かを守らないで、僕に守られていても良かった。


僕が夢術管理協会に入ったのは、この中学校に調査に来た理由は___紅を幸せな世界で生きさせたかったからなんだよ。


もう彼女がそれを知ることはないのだけれど。


「ごめんね、紅」


誰もいない部室。


学校の中だというのに、ここは誰の声も聞こえやしない。


誰かの笑い声も、鼓動も何もかも。


……で生きてるのは、もう一人だけなんだな。


否が応でも、そう考えてしまう。


おもむろに立ち上がった僕は、掃除用具入れに近づいた。


灰色に濁ったその扉に、手を触れる。


「ごめんね、死んじゃって」


……そして生きている一人は、僕じゃない。


扉の向こうから、微かに蠢く何かを感じた。

固い鉄板を介した感触が、自分の掌を揺らす。


死んだら紅の元に行けるかもしれない。


そんな淡い期待の結果が、この有様だった。


……ここは舞台の上だ。


劇は既に始まっていて、僕らはシナリオ通りに動いている。


何度も上演される劇の中で、僕らは糸に吊られている。


卒業式前の1週間ほど。


その演目を、僕は死んでもなお演じさせられていた。


は僕達。


は、この掃除ロッカーの中に。


獏___そんな巫山戯ふざけた名前の監督は。


僕は扉からそっと手を離した。

指紋が扉に残ることはない。


そして僕は右手を扉の凹みに差し入れた。


これが僕に出来る精一杯だ。


この劇のを解放すること。

……それは即ち、この日々を終わらせるということだ。


それは即ち、僕が本当に死ぬということだ。


いまだに離れない、酸素が途切れる感覚。

首元に染み付くロープ、虚しく窪む喉、詰まる鼻腔。


紅が死んでから5年が経ったあの日。


既に4年半劇を続けてきた僕は、一本のロープに身を預けた。


……一高君達が来る前に、やらなくては。


僕は感傷を振り切って、扉を開けた。


軋む扉は一瞬だけ酷く抵抗する。

だが、次の瞬間には全開になっていた。


中から溢れるように落ちる黒。


それは常に形を変え続けている。

濁った黒と濃い灰色が渦を巻いた。


そして、部室の床を浸していく。


「……本当は君も救いたかったんですけどね」


僕はそっと手を伸ばした。


は、僕を許してくれないみたいだった。


息を止める。


これでやっと、終わりだ。


きっと後のことはどうにかしてくれる。

なぜなら死者は生者に勝てないから。


いつの間にか黒いソレは、膝まで侵食していた。


溶ける。


意識も、願いも、過去も、未来も。


ただ混沌とした思いだけに、飲み込まれていく。


……やっぱり、紅の元には行けそうにない。


僕は膝をつく。

ついたのかは分からないが、そんな気がした。


「ごめんね」


______トプン。




呆気ないほど簡単に、一人の演者は取り込まれた。

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