麻疹(前)
一学期から第5話(前)と、
第17話くらいまで。
クラス委員、小林早紀ちゃんのお話です。
**********
分かっていた。
麻疹のような、淡い憧れに過ぎないことは。
まとめにくいクラスだと知りながら、
私がクラス委員を強く断らなかったのは、義務感と、役得。
クラス委員であれば、
クラス内の誰に対しても、自然に声を掛けられる。
男子にも。そして、双谷君にも。
双谷流都君。
秋の新人戦で、一年生ながらレギュラー入りし、
県大会の上位に食い込ませた、バスケットボール部のエース。
日々の練習で磨き抜かれた細マッチョな肉体美、
少女漫画から飛び出たような甘いマスクと、
水晶が入っているような輝きを放つ瞳。
歯並びの良い白い歯と、清涼感のある声。
造物主の寵愛を、一身に浴びた双谷君は、
存在自体が、生ける神のようだった。
神に近づこうとする衆生達を阻んだのが、
双谷君の幼馴染、沢名葉菜ちゃんと、真矢野留美ちゃん。
薄いブロンドの髪が靡く葉菜ちゃんは、
栗色の愛らしい瞳と、天使の声色としか言いようがない癒し声に、
男子達の心はすっかり囚われてしまった。
その横に、制服を校則ぎりぎりで垢抜けて着こなし、
アクセントにセンスの塊のようなアイテムを備えた留美ちゃんは、
明るい笑顔と絶妙な話芸で男女問わず周囲を魅了し続けていた。
神を護る、鉄壁の天使達。
神話のような世界だった。
絵に描いたような地味キャラの私だが、
一応、小学校の頃から、顔見知りではあるので、三人から、警戒はされない。
それでも、クラス委員の肩書が無ければ、近づけもしなかっただろう。
*
家の中が、荒れはじめた。
一年の時、父が亡くなった。
叔父夫妻が、私達の生活に色々と口を出してきていた。
男の子がいない私達の家に。
父がいれば、絶対に言ってこなかったことを。
厳格で寡黙な父が、陰に陽に私達を護ってくれていたことを、今更ながら知った。
長女である私は、心労が深まる母を、支えなければならなくなった。
*
五月の体育祭。
双谷君が、クラスを団結させようと放課後練習を提案し、
葉菜ちゃんや留美ちゃんを含め、七割くらいのクラスメートが参加した。
運動が得意ではない私は、遠慮したかった。
でも、クラス委員として、出ないわけにはいかなかった。
練習時間は平日2時間に及び、クラスメートからは薄い不満が漏れていた。
体育会に属している子たちでさえ、部活に支障が出ると言い始めた。
私は、名和座君と一緒に、クラス中を宥めて廻らなければならなかった。
私達の中途半端な気持ちが反映したのだろうか。
体育祭は、労力に見合う最良の結果とは言えないものだった。
雰囲気が悪くなりそうになった時、
留美ちゃんは、鮮やかにガス抜きをしていった。
打ち上げを企画し、20分ごとに席を交代して、
普段双谷君に近づけない女子達に、近づくチャンスを与えていた。
私には、考えもつかない方法だった。
名和座君や障子屋君も、場をうまく盛り上げてくれた。
私は、クラス委員として、二人と会話する機会が増えた。
中でも、名和座君は、近づきがたい双谷君と違って、
男子達をうまくまとめてくれていた。
*
妹が補導された。
街の悪所に出入りしていると言う。
妹のスマホは、家族をブロックしていた。
叔父は母を責め、母は私を責めた。
私の中に、昏い種火が燻った。
*
クラス委員として、私は、
様々な揉め事の処理に当たらなければならなかった。
男子に抑えが効かない私は、名和座君や、留美ちゃんを頼らざるを得なかった。
それは屈辱だったが、有難くもあった。
そんな時、だった。
「小林、さ。」
彼のことは、顔よりも、声で知っていた。
葉菜ちゃんと一緒に、放送委員を務めていた男子。
野智真人君。
落ち着いた、説得力のある声で、女子に密かに人気があった。
二年でも、当然続くと思っていたのに。
野智君は、精悍な顔つきで、目力が強い。
一見、近寄りがたい感じがする。
でも、話してみると、柔らかく、あたたかい目をしてくれる。
深みのある落ち着いた声に、不思議と、心が凪いでしまう。
その、野智君から。
「ちょっと、頼まれてくれるか。」
一人の女子を、私のグループに入れて欲しいと。
客観的に見て、妥当な選択ではあったと思う。
葉菜ちゃん達のグループには入れっこないし、
真下さんのグループには、キャラが合いそうにない。
雨守郁美さん。
モブの私から見ても、暗い子だった。
ぼさぼさな髪が眼鏡を覆い、顔中にニキビがあって、
制服も清潔とは言えない子だった。
私は、野智君への返事を保留しながら、
一日だけ、雨守さんを観察した。
あぁ。
この子、野智君のこと、好きなんだ。
髪、ぼさぼさで、目、分厚い眼鏡で見えないのに、
野智君の顔を見てる時、話を聞いている時、全身に感情を震わせてる。
絶対に叶わないときめきが、身体中から、伝わってくるようで。
私が雨守さんをグループに入れたのは、
同情と、憐憫、ほんの少しの応援の気持ちだった。
*
「婚約、ですか。」
叔父の言葉は、現実感を持たなかった。
「そうだ。
お前ももう、十七だろ。遅すぎるくらいだ。
まったく、自覚が足らんな。兄さんが甘やかすからだ。」
二十一世紀になって、そんなことがあるなんて。
「凡百の家じゃない。血を絶やしていい家じゃないんだぞ。
小林家の歴史の重みが、分からんとでも言うのか。
それとも何か。私の息子を跡取りにしてもいいのか。」
できっこなかった。
叔父と一哉君は、実質的な戦争状態にあった。
それを知らない母は、そうなることを恐れていた。
自分が、叔父の手で、小林家から放逐されることを。
「相手はこちらで考える。」
私も、怖かった。
叔父は、平気で暴力を振るってくる。
父が亡くなってからは、歯止めがなかった。
「お前は、覚悟だけはしておけ。」
鉛を呑んだような鈍い感触が、全身に流れて行った。
*
雨守さんを、郁美ちゃんと呼ぶようになった頃、
私達のグループに、衝撃が走った。
「郁美ちゃんって、賢かったんだね……。」
一学期末考査の結果。
学年、三位。
「あ、あの、
た、た、た、
ただの、ま、まぐれですから。」
圧倒的な好成績を全学年に見せつけたにも関わらず、
少し高い声で、ぼさぼさの髪で、
眼鏡を上下させながら縮こまっている郁美ちゃんは、ギャップがありすぎた。
私達のグループ内では、
郁美ちゃんの恋心の先は、共通了解だった。
「しょ、奨学金をって、
野智君が、ですね。
そのっ。」
叶わぬものなのに、恋の力は凄まじいと実感した。
*
最悪の夏休みが明けた後、私を待っていたものは。
「……ほんとに、郁美ちゃん?」
滑らかな、指通りの良い黒髪。
碧く輝く大きな瞳と、窪み一つない滑らかな頬、
柔らかく塗られたリップクリーム。
なにより、制服からでもわかるグラマラス・スタイル。
郁美ちゃんは、とんでもないものになっていた。
存在自体が、女性の敵のような。
ただ、話してみると、なにも変わっていなかった。
野智君との関係をちょっと揶揄われるとあわあわする。
ぼさぼさの髪と、分厚いレンズの眼鏡を掛けてた頃と
何も変わらない、私達の郁美ちゃんだった。
この子を、護らないといけない。
私は、強く思った。
グループ内の子達も同じだったようで、
男子の目線や、クラス内外の女子の敵対心から、巧妙に郁美ちゃんを護っていた。
私達の中に、奇妙な団結心が生まれていた。
「いやー、郁ちゃん、
マジで化けまくったねぇー。」
クラス全体をよく見ている留美ちゃんが、さりげなく探りを入れてくる。
私は、苦笑しながら頷いた。
次の瞬間、
「早紀ちゃんには言っとくとさー、
野智君、葉菜も狙ってるからねー。」
鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。
あの沢名葉菜ちゃんが、特定の男性を、狙っている。
単語同士が、どうしても、繫がらなかった。
思い返してみると、葉菜ちゃんは、野智君に声を掛けていた。
それは、知り合いへの親しみ以上のものではなく、
ただの挨拶に過ぎないと思い込んでいた。
「葉菜もさー、
時間を掛けるつもりだったんだよー。
でも、そうも言ってられなくなったって。」
雲の上の存在と思っていた葉菜ちゃんが、郁美ちゃんを、警戒している。
情報の処理が、追いつかなかった。
そこまで言っておきながら。
「ま、あたしは中立だけどねー。
にゃはははは。」
明るい声で笑う留美ちゃんは、
相変わらず掴みづらい子だった。
*
二学期に入って、名和座君と話す機会が増えた。
部活に専念し続ける双谷君と比べて、
名和座君は、なにかと、話しやすかった。
清潔感があって、責任感がある。
目元も爽やかなスポーツマンの名和座君は、
双谷君ほどではないが、当然、女子に人気がある。
(お前は、覚悟だけはしておけ)
叔父の言葉が、ちらついて離れない。
嫌だ。
叔父が選んだ人となんて、嫌だ。
言えるわけが、ない。
(しょ、奨学金をって、
野智君が、ですね。
そのっ。)
……私も。
誰かと恋をすれば、変わるのだろうか。
叔父に、母に、逆らえるようになるのだろうか。
*
神と天使の戦争。
「……なんだよ。
ふたりとも、僕に、隠してたってことかよっ!?」
それだけの言葉で、
地上は、一夜にして黙示録の世界と化した。
真下さんのグループに正面から反抗された時。
非協力的な男子から卑猥な言葉を投げかけられた時。
留美ちゃんも、名和座君も、
私を護ってはくれなかった。
安心感が、日常が壊れた世界の恐ろしさを、
私は、思い知らされることになった。
私は、父の存在を思い出していた。
父がいる間は、家庭内に揉め事は無かった。
母も妹も笑顔で、叔父夫妻は、私の世界に存在していなかった。
高森先生に、報告もできなかった。
分かってもらえるとも思えなかった。
何を、どう伝えれば良いと言うのだろう。
私は、自分の引出を総動員して努めて明るい声を出し、
心を押し殺しながら、撥ねつけられ、
心が折られ続ける日々を送った。
そんな時でも。
「すまん。
すっかり忘れてた。」
野智君は。
「めんどくさいんだよな、大学の名前書くの。
進学、って出すだけならすぐなんだけど。」
なにも、変わっていなかった。
それどころか。
「お前も大変だな。
クラス内、ちょっと剣呑としてるからな。」
私を、気遣ってくれた。
優しい声で。穏やかな瞳で。
留美ちゃんにも、名和座君にも、
母にも、妹にも、誰にも気遣われなかった私を。
「第一派閥で裏から抑えてた真矢野が使えなくなったからな。
第三派閥の長としては、なかなかしんどいだろ。」
驚いた。
短い言葉で、状況を、これ以上なく適切に把握していた。
クラスのことなんて、関心ないと思ってたのに。
「……でも、葉菜ちゃんの許嫁の話、
どこまでほんとなの?」
三人が、喧嘩をした理由。
葉菜ちゃんに許嫁がいることを、
葉菜ちゃんと、留美ちゃんが、双谷君に隠していたこと。
幼馴染なのに、なんでも話しているわけではないことが、
クラス内に知れ渡ってしまった。
「俺に聞かれてもな。」
どちらだか、分からなかった。
私は、ちょっと揶揄いたくなった。
「葉菜ちゃん、野智君の元カノでしょ?」
思った以上に、明るい声が出た。
「ちげぇよ。」
葉菜ちゃんを嫌ってはいないはずなのに、
心底嫌そうな顔をする野智君が、おかしかった。
*
クラスの雰囲気がどうにか落ち着いてきた頃、
天上界から、特大の稲妻が落ちた。
「愛してるよ、まーくん。
一年の時から、ずっと、ずっと。」
耳が、理解を拒絶した。
葉菜ちゃんが、野智君に、
万座の面前で、直接、告白をするなんて。
予め留美ちゃんから聞いていなければ、
目の前で起こった事でなければ、
脳が、情報を遮断しただろう。
直後。
あの郁美ちゃんが、低い声で、神を、真正面から糾弾した。
それだけでも驚くことなのに。
「これ以上、貴方の美麗な幼馴染たちに、私の彼氏を弄ばせないでください。」
郁美ちゃんが、神を経由して、葉菜ちゃんに放った一言は、
クラス中を、文字通り凍り付かせた。
高森先生が引き戸を引かなければ、
メデューサ―に呑み込まれた村人のように固まり続けただろう。
宣戦、布告。
火蓋は、はっきりと切られてしまった。
私の、目の前で。
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