序詞(後)
「お前の親、再就職したんだろ?」
「う、う、うん。」
「奨学金、お前の口座に直入させて、
しっかり自分で管理してるな?」
「うん。」
「じゃ、バイトしろ。」
恥ずかしい言葉だった。
高一の時に、考えなしに応募して、落ちた。
当たり前だ。あんな昏い子、雇いたくないだろう。
「夏休みだろ?
カネ稼ぐにゃ、もってこいだ。」
「……海の家、とか?」
できそうにないけど。
「バカ。カネ稼ぐにゃ、つったろうが。
あんなもんは双谷の廻りにいるような連中がやりゃいいんだ。
なんのために成績取ったんだよ。」
……ぇ?
「俺を、誰だと思ってるんだ?」
*
高校生の時給は、千円を超えないと思っていた。
「ま、こんなもんか。」
放送委員会の先輩から紹介して貰ったという、
富裕層向けの通訳ガイド業。
カジュアルジャケットのような制服を無償貸与され、
正規の賃金だけで、月、十二万円。
それよりも。
チップが、十五万円。
「カネは、財布の緩いやつから貰うんだよ。
向こうからすりゃ、有難い話なんだからな。
旅先で気分良く散財してんだから。」
正規の賃金と合わせれば、
二十七万円。
たった、一か月で。
「ほ、ほ、ほんとにいいのかな?」
「いいか悪いかっつったら、グレーだけど、
向こうだって、申告されても困るだろ。
歌舞伎町のホストなんて、
下らねぇ理由つくってシャンパンタワー作らして、
三十秒そこらで三百万消さしちまうんだから。」
さ、さんびゃくまん……。
「緩い財布ってな、そういうもんだ。
腹が立たねぇわけでもねぇけど、一応それで経済廻ってる。
ため込まれるよか数倍マシだ。
って、こんなの、お前に言ってもしょうがないな。
すまん。」
「う、ううん。」
「ま、それだけ気に入られたってことだ。」
ただ、必死にやっただけ。
「お前、ホントに大したもんだ。
すげぇ奴だよ。」
失敗も、恥ずかしさも、すべては。
「……えへへ。」
「じゃ、使うぞ。」
!!
つ……
使、う?
「バカ。
カネなんて、使うためにあるんだよ。」
「で、でも。」
「言ったろ。
親の借金は、お前には関係ない。
経理、分けてるんだから気にすんな。」
「……うん。」
「私営の奨学金ってな、国のカネじゃねぇ。
やること、ちゃんとやってりゃいいんだよ。
ああ、一応言っとくけど、
口座の暗証番号はこまめに変えとけ。
親子関係、完全に切りたきゃ別だけどな。」
「うん。
分かった。」
「よし。
じゃあ、行くぞ。」
*
「こっ……!?」
この薄いシャツ、たった一枚で。
「一万五千か、まぁそんなもんだろ。」
千円を、超えたことがなかった。
一番よくて、三千円。
「洋服は現代の戦闘服だ。
安いの着てるやつは、それだけで舐められる。
人に見えねぇ下着なんてな、〇ま〇らだっていいが、
人に見られる部分で見すぼらしいと、
自分の気持ちから折れっちまうんだよ。」
それは、わかる。
ものすごく。
でも。
「……。」
「わかんなきゃ、気に入ったマネキンぜんぶ買え。
最初のうちは、そうだな、上下小物込みで十万くらいでまとめろ。」
じゅ、じゅうまん、えん…。
「元々泡銭だろうが。気前よく社会に返してやれ。
それでバイトしてる売り子の奴らが喜ぶんだから。」
ぁ。
そういう、発想するんだ。
「ただ、おだてられて着道楽になるなよ。
あれは、無限の沼だ。」
「そ、そう、だねっ……。」
*
「ま、この順番だな。」
自分好みの服を買ってから、髪を切る。
初回限定、特別キャンペーンで半額、それでも八千円。
「自分で切ってたなんて余計なこと言うな。
不利なことは言わなきゃいい。
高ぇカネ取ってるとこは、プロだからな。
余計なことは訊かねぇんだよ。」
ほんとにそうだった。
シャンプーの撫で方が、優しくて。
気持ちよくて、ぐっすりと寝てしまった。
*
「一回限定もんだからな。
こんなもんだろ。」
キラキラと輝く百貨店で、
お試しの基礎化粧をして貰って。
「お、さすが入れ替え期間、叩き売ってんな。
とりあえず、これとこれ買っとけ。
高校のうちは基礎化粧要らねぇとか言う奴がいるが、信用すんな。
そういう奴は化学わかってねぇんだから。」
「う、うん。」
*
「コスメとかは、小林にでも聞け。
きっと詳しいぞ、あいつ。
真矢野とかでもよさげだけど、んー。」
「双谷君?」
「……言うようになったじゃねぇか。」
「あはは。」
嬉しい。楽しい。
心の底から。
終わって欲しくない。
世界中の時を止めて、
ずっと、このまま、二人だけでいられたら。
*
「……ほんとに、郁美ちゃん?」
二学期デビューは、
無限の哀しみを連れてきた。
「席替えするぞー。」
わたしは、窓際の、奥に。
真人君と、反対の際に。
「お、おれ、コウノヨシト。
よ、よろしくな。」
安心、できない。
戻りたい。帰りたい。
四つ前の席で、眉目秀麗な幼馴染達と話しながら、
なぜか、寂しそうな横顔をする沢名さんが、気になった。
必死につなぎ合わせているわたしとは比べ物にならない、
生まれながらの光輝く可憐さを持っているのに。
「おーい、
郁美ちゃん、こっちこっち。」
律儀な小林さんが、廊下側に私を手招きしてくれる。
ただ頷いているだけで、会話の中に入れる。
一学期と違って、わたしは、孤独ではなくなった。
*
「あーまもーりさんっ。」
真矢野留美さん。
沢名さんと並んで、クラスの中心人物だけど、
わたしなんかにも、たまに、声をかけてきてくれる。
「そのコスメ、いいよねー。
どこのやつ?」
ブランドを言ったら、驚かれた。
高校生がするものとしては、かなりお高いらしい。
「うわー、基礎化粧に全振りしてんだねー。
あー、でも、肌負けするっていうからなー。
ま、そんだけ肌白いんだったら、それでもいいのかー。」
それしか、化粧品を知らないだけで。
「その髪型、可愛いよねー。
どこでやってもらってんのー?」
詰められても、答えようがなくて。
「えー、街までいってんだ。ちゃんとしてんなー。
どれどれー、んー、あー、賞貰ってるトコじゃん。
これ、わりと有名なトコだ。
あはは、いいとこでやってもらってんねー。」
ひとつしか、美容院を知らないだけで。
再現性高く、二か月に一度で済むなら、それでいいんだって。
「あー、この顔、弄りてー。
タダでいいからさー、
ちょっとだけ、やらしてくんない?」
息が近づくほど詰められたのに、
嫌な感じはしなくて。
「ねー、郁ちゃんって呼んでもいーいー?
あたしのことは、留美でいいからさー。」
*
募る寂しさを積分したら、
とてつもない勇気が産まれた。
「ん?
なんだ、どうした?」
朝、真人君のマンションで、出待ちをしてしまった。
「お、おはよう、野智君。」
噛んでしまった。
何十回も練習したのに。
「あ、あぁ。
ほんと、どうした?」
「通り道だから。」
少しだけ、遠回りだけど。
「あー、
まぁ、そうか。
そういやそうだな。」
変わらない声に。纏っている空気の懐かしさに。
涙が、出そうになる。
「声の練習、してるか?」
「……うん。」
グループの他の人と、話せるように。
虐められないように。
講師の紹介まで、してくれて。
「そっか。
じゃ、そろそろか。」
優しさの中に、ほんの少しだけ、隙間を感じた。
その予感は、正しかった。
*
「雨守さん、だよね?」
その人は、
この世の存在とは思えなかった。
「は、はいっ。」
可愛さと儚さと美しさを兼ね備えた瞳。
亜麻色の髪が揺れるたびに、光源がついてくるようで。
沢名葉菜さん。
去年の校内放送で、男子生徒から絶大な支持を受けた、
唯一無二のヒーリングボイスの持ち主。
女子からは、容姿の凄まじさも相まって、
羨望と嫉妬を超越した敬意を持たれている。
そのひとから、
「んーと、よかったら、
わたしと、お友達に、なってくれませんか?」
言われたことが、信じられなくて。
「留美ちゃんともお話してたし、
わたしとも、いいかなぁ?」
「は、はいっ!
よろこんでっ。」
舞い上がりそうになる心とは裏腹に、
どうして、そんなことを言ってくれたのか、
わたしには、嫌になるほど分かっていた。
*
「えぇ? 沢名がなぁ。
真矢野なら分かるんだけどな。」
本当に、分かってない。
葉菜ちゃんは、きっと、真人君のことが好きで。
でも、なにか、どうしても付き合えない理由があって。
わたしを、見定めに来た。
そんなこと、考えなくてもいいのに。
わたしは、たぶん、
いや、間違いなく、棄てられる。
隣にいる。
わたしのほしい人が、ゆっくりと吐息を漏らしている。
誘いたい。
やさしくされたい。
めちゃくちゃにされたい。
誘っても、断られるだけ。
そんなことを匂わせたら、それだけで、すべてが終わってしまう。
わかってるのに。
真人君は、わたしなんかに、
恋愛感情を持ってくれっこない。
そうだと、分かっているのに。
「ま、凄いことだよ。
一学期のお前を考えると。」
その声に、その力強い瞳に。
底抜けの優しさに、溺れたくなる。
騒めく心さえ厳重に蓋をすれば、傍にいられる。
秘められている限り、真人君の息遣いを、優しく力強い匂いを、
一番近くで、感じられる。
わかってる。
その日は、必ず来る。
一日でも、一秒でも。
この瞬間を止めて、永遠に引き伸ばし続けたい。
*
「その子、誰?」
貴方から見れば、
路傍の石よりも軽いものなのだろう。
「えー? るーくんってば。
いーちゃんは、おんなじクラスだよー?」
「そうなのか? 済まない。
体育祭の時にだいたい覚えたつもりだったが。」
瘡蓋を抉られるような気がした。
分かってる。悪気のないことくらい。
葉菜ちゃんの、大切な幼馴染なことくらい。
「葉菜の友達になってくれてありがとう。
じゃ。」
人工的なほどに整った校内一の美男子は、
わたしには、何の関心も示さなかった。
それは、わたしも同じで。
「んー、
その、ごめんねー。」
一挙手一投足。
首を傾げる仕草も、溜息の音色でさえも。
「大会が近いからさー。
るーくん、ほかのこと、見えてないんだー。」
葉菜ちゃんは、なにをしても、すべてが、可愛い。
どうしようもない不条理に、ただ、打ち震えるだけで。
「……ううん。
ありがとう、葉菜ちゃん。」
*
その日。
真人君は、おかしかった。
「……だいじょうぶ?
顔色、あんまりよくないけど。」
土気色で、生気がない。
まるで、世界の破滅を見たような顔。
わたしがはじめて見る表情だった。
「また遅くまでゲームしてたの?」
違うと、分かっていた。
話を、繋がないと、なにかが切れてしまいそうで。
「いや、そうじゃないんだが…。」
あの日の顔に、近かった。
淋しさと憂いと焦燥を満ちさせた顔。
こんな顔。
絶対にさせたくない。
わたしは、永劫にも似た刹那の躊躇いのあと、
愛するの人ために、優しい微睡を壊す覚悟を決めた。
「じゃあ、なに?」
序詞
了
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