獣道の向こう側
「あの獣道から外れちゃ絶対にあかんぞ」
僕が小学生になる前、祖父はそう言った。その時僕は小さな森の入り口付近で、彼に連れられて虫取りをしていたのをよく覚えている。早朝、カブトムシを取りに行く時の僕は、眠い目をこすりながら祖父の大きな体について行った。ミンミンゼミが鳴く前の時間帯、ただただ朝陽が眩しかった。
あれから七年。祖父は眠るようにして亡くなった。元々二、三年前から病気を患っていたが、最後は看護師さんに見守られながら、入院先の病院で息を引き取ったのだそうだ。結局、最後まで獣道から外れてはいけない理由は聞けなかった。普段から気難しいことと、殆ど喋らないせいだろう。だからあの時は単純に嬉しかった。ちょっとした冒険をしているようでワクワクしたから。
そんな僕は、小学三年生の時に花守島から本土の粟穂市に引っ越してきた。生まれ故郷の島とは違い、人も店も多い。交通の便はそこまでいいとはいえず、最寄り駅までは徒歩ではなく車で行くことになるほど遠い。バスやタクシーもあまり来ないし、人通りも少ない。小学校時代は歩いて四十分の学校に通っていたが、今は違う。中学生になったので、自転車を毎日漕いで学校へと通っている。
ある夏の日、僕のクラスで一枚のプリントが配られた。見ると、『サマーキャンプのお知らせ』と書かれている。日付は今から三週間後で、場所は花守島。懐かしい場所だな、と思いつつも僕はプリントに書かれた文章に目をやった。
『自然豊かな島で過ごしてみませんか?』
『青い海!白い砂浜!緑と青空のハーモニー!』
「サマーキャンプねえ……」
三週間後は夏休みだから、必然的に家にいる時間が増える。自分の時間を有意義に過ごす為にも、楽しく遊ぶ為にも、僕はサマーキャンプへの参加を決意した。ただ、この時はまだ理解できていなかった。祖父の言葉を。
キャンプ当日、僕は朝六時から起きて支度をしていた。しおりに書いてある持ち物は前日、前々日から用意していた。海パンはまだしも、ハンカチとタオルはお気に入りのものを。ティッシュは街頭で配っていたものや、スーパーで買ってもらったものを。お小遣いを入れた黒い財布の中には、飲み物や軽食を買う為の小銭がいくらか入っている。筆記用具は必要最低限のシャーペンに黒いボールペン、それと消しゴムとメモ帳。最後は必要ないとは思うが、念のため入れておいた。それと昔好きだったアニメキャラのストラップがついた携帯電話。それらをまとめてリュックに詰めてから、僕は階下で朝食を済ませた。
玄関で靴を履いていると、母が、
「大丈夫?忘れ物はない?」
と問いかけてきた。
「大丈夫!ちゃんとしおり確認したからさ!」
「ならいいんだけど……」
「それじゃあ、行ってきます!」
僕はドアを開けて、集合場所である栗原中学校へと向かった。
自転車ではなく、今回はバスで向かう。幸い、学校から二、三分のところにはバス停があり、クラスメイトの中にはバスや電車で通う人も結構いた。丁度バスが来たので乗り込むが、夏休みとはいえ今日は平日。時間帯も通勤ラッシュで、クールビズとはいえ背広を着たサラリーマンやOLが多い。僕は太ったおっさんに潰されそうになりながらも、何とか優先席へと向かった。
バスから降りると、学校の近くだった。校門の付近には人だかりが出来ている。僕と同じで、キャンプに行く子や引率の先生だろうか。僕は人だかりの方へ駆けていった。
数時間後、僕達はフェリーに揺られながら、窓から海を見ていた。
「大輝、あっちにカモメが飛んでるぜ!」
「あっ、ホントだ!いっぱいいるね。でも、こうして海を見ているだけでもいいね」
「でも早く海であそびたいな。泳ぐの大好きなんだよな、オレ」
そんなことを話しながら、僕とアキは島でのキャンプを楽しみにしていた。
花守島に着いたのは午前十一時。やはり海だからか、海で泳ぐのはもちろんのこと、魚釣りや素潜りなどのアクティビティがメインだった。一時間泳いだ後はバーベキューが待っていて、魚や野菜を焼く時の香ばしい匂いがこっちにも漂ってきた。一番美味しかったのはとうもろこしと、焼き魚。なんの魚かはわからないが、食べ応えがあってとても美味しかった。そのあとは夕方まで海で過ごし、夜はコテージで寝泊まりをすることに。
その夜、僕たちは肝試しをすることになった。みんなで懐中電灯とペットボトルを持ち寄って。二人一組になって行動することになり、僕は幼馴染のアキと一緒だ。
「なあ、大輝知ってるか?あの森の向こうには幽霊が出るらしいぜ。なんでも、戻れなくなった人の霊らしい」
「そんなことあるのかなあ……。行って帰ってくるだけでしょ?僕あんま幽霊とか信じないし」
「マジかもよ?だって、あの森から生きて出た人はいないみたいだし」
正直言って、幽霊など僕は信じてはいない。が、森の近くまで来た時、僕は祖父の言葉を思い出していた。獣道から外れてはいけない。その言葉を、僕は身を以て知ることになる。
懐中電灯のスイッチを入れ、暗い森の中を照らす。アキは先に行きたそうだが、
「帰れなくなったら困るでしょ」
「はあ、奥に何があるかなあって思っただけなのにな……」
「地元の人でさえ滅多に入らないようなところだし、それに……」
「大輝?」
「獣道から外れるな、って昔言われたんだ」
「獣道?そりゃなんでさ?」
「僕も詳しいことはわからないけど、獣道を辿れば迷子にならないのは確かだし……」
「ふーん……」
だいぶ深いところまで行った時、隣を歩いていた筈のアキの姿がなかった。先にどこかへ行ってしまったのか、それともはぐれたのかはわからない。懐中電灯の電池も有限だし、携帯電話の充電だって無駄にしたくはない。それ以前に電波が届かないのか、圏外になっている。
「アキー!アキ、いたら返事くらいしてくれよー」
僕は必死にアキを呼んだ。だが返事は来ない。仕方なく、僕は獣道を外れることにした。
道を外れて五分くらい歩いただろうか、そこには小さな小屋があった。暗くてよく見えないが、廃墟のようにボロボロなのに、何故か明かりが点いている。恐る恐る近づき、ノックすると、中から恰幅のいいおばさんが出てきて、
「あらこんばんは。どちら様?」
「あ、こんばんは……。僕は大輝って言います。あの、友達を探しているんですが……」
「あらまあ、可哀想に。お友達とはぐれちゃったのね。この森は迷いやすいからねえ。いいわ、丁度夕ご飯の時間だもの。夕食にしましょう」
そう言うと、僕を中に入れてくれた。
小屋の中は、畳の床にちゃぶ台と、その上に座布団がある。座布団は全部で五つ。それと古めかしいテレビがある。テレビの前には見覚えのある少年が座っていた。
「アキ、アキじゃないか?探したんだぞ?」
「大輝か……。邪魔しないでくれよ、今いいとこなんだからさ……」
アキはテレビの方を向いたままそう言った。しかし、テレビには砂嵐しか映ってはいない。それに、どうも様子が変だ。
「アキ……?」
「……ったく、なんだよもう」
振り向いたアキの顔は腐り落ちていた。おばさんの方を見ればおばさんの顔も。おじさんや、娘さんらしき小さい女の子の顔も。
「ぎゃあああああああ!」
「何よ、大きな声出して……」
「そうだぞ、近所迷惑だ」
「なんで、みんな、顔、腐って……」
「何言ってるの?お兄ちゃん。もうご飯の時間だよ」
「さ、みんな、今日はご馳走よ。腕によりをかけて作ったからねえ」
『わあい!』
そう言っておばさんが台所から持ってきた料理は虫がたかり、腐っていた。しかも、沢山の髪の毛や目玉まで入っている。僕は、怖がりながらも口にすると、これが病みつきになる程美味しかった。アキも美味しそうに食べている。もう僕もアキもこの家の家族になってしまったのだ。
結局僕とアキはあの小屋から出られないまま、ただただ月日だけが流れていった。日中は毎日森の中を駆け回り、夜は砂嵐しか映らないテレビを見ながら時間を過ごす。僕の身体は、そうした生活を続けるうちにアキと同じくらい腐り落ちていった。
小屋の話 縁田 華 @meraph
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