箱庭のなかの夢

名束やおね

『メアリー』になった日


「貴方は今日からメアリーよ。よろしくね、メアリー」


 それは私という存在が塗り替えられた日。

 無邪気に微笑むラミリア様の口元からは真っ白な牙が覗いていた。



◆◇


「ラミリア様、こちらが本日よりお世話をさせていただきます――」

「アリア・ステイシーと申します。ラミリア様のために全てを捧げ、お世話させていただきます」


 相手の顔を見ぬまま、自分のつま先しか見えないくらい深く腰を曲げる。

 少しだけ視線を動かせば、ピカピカに磨き上げられた靴が目に入った。


「顔をあげて。可愛い顔が見たいわ!」


 砂糖を煮詰めたような甘くて、愛らしい声が頭上へ降り注ぐ。

 恐る恐る折れ曲がった身体を戻すと、真紅の瞳が私を見ていた。

 月光をそのまま絹糸にしたかのような艷やかな髪。陶器のように滑らかな肌。薔薇の花弁のように赤く、ぷっくりとした唇。長く、美しくカールした睫毛。ぱっちりとした瞳。

 私ごときの語彙力では全てを表す事ができない、この世でもっとも愛らしく、光り輝く存在が目の前にあった。

 彼女の名前はラミリア=コニファー様。この国に存在する吸血鬼のお1人だ。


「ラミリア様、あとは全てこの者に。それでは失礼いたします」


 私がラミリア様の可愛さに言葉を失っている間に、箱庭の案内人がラミリア様に向かって丁寧に頭を下げて部屋から出ていく。

 コツコツという靴音が消えた頃、私はようやく忘れていた呼吸を再開した。


「あの、ラミリア様。私は何から……」

「メアリー」

「え?」

「今日から貴方の名前はメアリーよ。少なくとも、私は今からそう呼ぶわ」


 無邪気な声がいとも容易く私の名前を奪う。

 あまりにも理不尽。けれども、それなのに腸が煮えくり返るような怒りも、名前を失ったという喪失感もなかった。

 それよりも心臓がドクリと音を立て、頬を火照らせる。

『メアリー』という名前がまるで最初から私のものだったように身体に馴染んだ。まるで生まれ変わったようだった。

 私は今日からアリアではなくメアリーとして生きるのだ。


「今日からよろしくね、メアリー」


 唇の端をほんの少しだけあげ、ラミリア様が微笑む。瞳には私だけが映っていた。幸せだ。


「はい、ラミリア様……っ!!」


 私は感動のあまり胸の前で手を合わせると力強く返事をした。

 これが私とラミリア様の出会い。


 この国には吸血鬼と人間の2種類の生き物が存在している。

 吸血鬼は国から愛玩生物に指定され、絶滅しないよう『箱庭』と呼ばれている施設で保護されていた。

 そのお姿が世間に公開されて以来、私たち人間は吸血鬼に目を奪われた。

 人間には備わっていない美しさや可憐さは私たちを夢中にさせたのだ。

 そんな中、国から箱庭でのお世話係の募集がかかれば、国中の人間が応募したに違いなかった。もちろん私も箱庭で吸血鬼――ラミリア様のお世話係に選ばれるために血の滲むような努力をしてきた。

 憧れである吸血鬼様のお世話をする。それはまだ15年しか生きていない私の1番の夢だった。

 そして、それが今叶っている。


◇◆


「メアリー。髪を梳かして欲しいわ」

「はい、ラミリア様」


 幸福な人生の始まりとも呼べる日から早10年。私はその間、全てをラミリア様へと捧げてきた。

 与えられた私室で過ごすことはほとんどなく、ラミリア様が起きている時間以外も部屋の掃除に努めたり、お部屋を彩るための花を用意したりと働いた。

 自ら進んで召使いのようなことをするなんて信じられないと思うだろうが、全くといっても苦ではない。

 それもラミリア様のためだからだ。


「メアリー、ぼーっとしてどうしたの?」

「いえ! 申し訳ありません、ラミリア様」


 黙って突っ立っている私をラミリア様は首を傾げながら不思議そうに見ている。

 その愛らしさに思わず手を伸ばしそうになるが、私から吸血鬼へ触れることは失礼に等しい。身の回りのお世話以外に許可なく触れることは許されていないのだ。

 私は引き出しから櫛を取り出し、ラミリア様の元へと向かう。


 ラミリア様のお世話役になって、色々と分かったことがある。

 まず1つ目。この『メアリー』という名前はラミリア様に最初にお仕えした少女のものだということ。

「カナリアのような娘だった」といつだったか、ラミリア様は私の金髪を撫でながら教えてくれた。その時の瞳が少し遠くを見ているようだったので、私は会ったことのない『メアリー』に嫉妬したことを覚えている。

 2つ目。ラミリア様は吸血鬼だというのに積極的に血を飲もうとしないということ。

 私のお役目はラミリア様のお世話だ。鏡に映らないラミリア様の髪を梳かし、お顔を整える。もちろん、自分の身だしなみ以上に気を遣った。

 もちろんお食事だって任されている。吸血鬼の食事といえばもちろん『血』だ。けれども、ラミリア様はそこまで血を求めたりはしない。

 箱庭で暮らすようになり、ラミリア様のお身体にも多少なりとも変化があるらしかった。

 週に1度、私の指先からの少量の吸血。たったそれだけの吸血でラミリア様は満足だった。他は薔薇の生気でまかなっている。

 ラミリア様が真っ赤な花弁に小さな唇を寄せるとすぐに薔薇は色を失い、カラカラに乾いて床へと落ちる。だからもっぱら私の食事のお世話は薔薇の剪定と薔薇の始末。

 せっかく吸血鬼様のお世話をするのだから、御伽話のようにその鋭い牙で喉元をガブリ!と貫いて欲しかった。

 けれども、その浅ましい欲望を上回るほどに、薔薇を召し上がられるラミリア様の神秘的な光景を見ることが私は何よりも好きだった。

 花々の生気で命を繋ぐこの生き物はなんて可憐で、儚くて、美しいのだろうと。自分のなかにある僅かな語彙を駆使して、私はラミリア様を崇め続けた。

 私がラミリア様に感謝の言葉を吐く度に、ラミリア様は優しく微笑んでくださるのだ。

 そして、同時に私を憐れむ。私がラミリア様の髪を梳いている時、ほぅ、と気怠げにため息を吐きながら「メアリーは可哀想ね」と思いついたように呟くのだ。


「メアリー、貴方は本当にいい子。それ故にとても可哀想だわ」

「……どうしてそう思われるのですか?」

「だってそうでしょう? うら若き乙女が1番美しく輝く時期をこんな薄暗い場所で過ごすだなんて!! たとえ私のためだとしても気の毒よ」


 くるり、とラミリア様は身体をひねると私の方へと視線を向けた。そして、小さな指で私の頬や唇をくすぐっては慈しむように笑う。


「私は自分からラミリア様にお仕えしたいと思って立候補したのですよ。可哀想だなんて思わないでください」

「ふふふ、ココに来たメアリーはみんなそう言うわ。よっぽどお外が嫌いなのね」


 真紅の瞳を猫のように細めるラミリア様。吸血鬼はその身を多種多様な生物へと変えることができる。

 ラミリア様は猫になるのがお好きな方だ。私も何度かその姿を見たことがある。だから猫のように見えるのかもしれない。気まぐれで可愛い銀の猫。


「私はずっとラミリア様のお側にいたいです。それに……あの、叶うなら……何でもありません」

「そう? 変なメアリー。言いたいことがあるなら言えばいいのに」


 クスクスと今度は愛らしい少女のようにラミリア様は笑う。くるくると表情が変わるのはラミリア様の可愛らしい点のひとつだ。

 大変ありがたい言葉ではあるけれど、ラミリア様にはお伝えできそうにない。私の胸に秘めたる新しい夢。

 それはいつかラミリア様に思いっきり私の血を吸っていただくということ。

 獣のような鋭い牙を思いっきり私の首筋に突き立てられたい。痛くたっていい!!むしろその痛みによって刻まれる、ラミリア様の存在のほうが私からすれば得難いものなのだ。

 じゅるじゅるという、はしたない音を立て私の血液を飲み干し、恍惚の表情を浮かべるラミリア様を見たかった。

 こみ上げる吸血衝動に抗えず、普段は涼やかな瞳を獣のようにギラつかせて見つめて欲しい。

 けれどもこの願いは秘めておかなければならない。

 世話係が吸血鬼に必要以上の血を与えることは厳罰。血の味を覚えてしまった吸血鬼が人間を襲わないための配慮だそうだ。

 だから言えない。もし誰かに聞かれでもしたら、私は今の立場を奪われてしまう。私以外の人間がラミリア様のお世話をするなんて想像するだけで気が狂いそうになる。

 だから私はこの欲望を隠す。穏やかで、清らかで、美しい日々を永遠に続かせるために。

 けれども、そんな私のささやかな幸福は突然終わりを告げる。


「アリア・ステイシー。貴方の勤めも来月でおしまいです」

「え……?」


 まるで死刑宣告のようだった。

 何十年ぶりに呼ばれたその名に反応できないほど、私は『メアリー』として生きていた。

 思い出したくなかったが、この仕事は期限付きだ。ラミリア様が時折口にする『花盛り』。私にとっての花盛りが過ぎたのだろう。

 たしかに、ラミリア様にお仕えし始めた頃に比べれば、肌にハリがなくなってきている。

 けれども、それが何だというのだ。私はまだ咲ける。この花弁の最後の一枚が床へと落ちるまで、私はラミリア様のそばにいたかった。

 それなのにコイツはラミリア様から私を引き離そうとする。私以上にラミリア様をお世話をできる者などいないというのに!!

 刻一刻と時間は過ぎていく。気がつけばあっという間に日は移ろい、一ヶ月が経った。明日で私の幸福は終わる。

 今さら外に戻って何になるというのだ。この仕事に就いた人間には、箱庭から追い出されたあとでも死ぬまで日常生活を送れる程度には手当がつく。

 が、そんなもの貰ったところで何になるというのだろう。花盛りを箱庭で過ごし、他者は愚か、家族とも接していなかった人間が今さら戻ったところで誰が愛してくれるのか。

 それならば、私という花はここで枯れたほうが幸せに違いない。

 壁にかかっている時計が夜明けを告げる。私が箱庭で過ごす時が終わる。ふらふらと、まるで光を求める蛾のように私の足は1人の元へと向かった。そう、私の全て。

 美しき吸血鬼様の元へ。


「あら、どうしたの? 帰る支度はできたのかしら」


 私室からラミリア様の部屋へと続くドアを開けると、そこにはいつもと変わらずラミリア様が窓辺に佇んでいた。そのお姿を見るのが今夜で最後かと思うと、やはり胸が苦しくてたまらない。

 私はよたよたとラミリア様の元へ近づき、床へと膝をつけた。そしてみっともなくラミリア様の足元へと縋りつく。

 許可なくラミリア様に触れてしまった。けれども、もうどうでもいい。もう私はメアリーではないのだ。

 目頭が熱くなる。喉元から嗚咽が溢れてそうなのを必死に堪えた。醜く縋りつく私を、ラミリア様は見下ろしている気がした。


「メアリー?」


 粉砂糖のように柔らかで甘みを含んだ声が私の名前を呼ぶ。まだ私をメアリーと呼んでくれるだなんて、身に余る幸福。

 細く息を吐いて、気持ちを落ち着ける。ラミリア様に涙を見せないよう、ゆっくりと顔をあげた。


「飲んでください、ラミリア様。一滴も残さず、私という花を枯らしてください……!!」


 一世一代の告白だった。

 もう2度とラミリア様に会うことができないのなら、生きていても意味がない。

 それなのに、ラミリア様は悲しそうに眉を寄せると静かに首を左右に振った。


「それは無理よ、メアリー。人間の生命活動を奪う量の吸血はしないと、貴方たちと契約しているもの」

「それでも召し上がっていただきたいのです。ラミリア様にお会いできなくなるなら、私は最早、人間ではなく呼吸をするだけの人形に成り下がってしまいます!!」


 最後だから気が緩んだのだろう。私はついにここまで秘めていた欲望を口にした。だって我慢する必要なんてない。もう私はお世話係ではなくなるのだから。だったら最後に全てをさらけ出してもかまわないだろう。

 今の私なら、ラミリア様が満足するまで、全てを捧げることができる!!

「お願いします」「血を吸ってください」と壊れた玩具のようにラミリア様に繰り返し懇願する。

 どれほど気持ちを伝えただろう。ふと、冷たい手が私の髪に触れた。


「そこまでいうのならトクベツよ、メアリー」


 その言葉を耳にした途端、全身の血が沸騰するかのように熱くなった。

 返事を待つ必要などないと言わんばかりに、ラミリア様のほっそりとした指先が私の着ているシャツのボタンへと伸びる。

 ぷつり、ぷつり。

 たった数個。たった数個だけボタンが外されるだけなのに心臓がバクバクと聞いたことがないくらい激しい音を立てる。

 はぁはぁ、と呼吸が荒くなる。


「ふふ、本当はね、ずっと貴方を食べたかったのよ」


 ぺろり、ラミリア様が舌なめずりをする。なんてはしたないのだろう! けれどもそんなラミリア様の姿を見られるだなんて、くらくらした。

 ナイショの話をするように、ラミリア様が私の耳元で甘く囁く言葉に、身体中の力が抜けていく。こんなに幸せでいいのだろうか。

 私という花は最愛の人によって散らされるのだ!!

これが私の幸福。


「いただきます、メアリー」


 ラミリア様の牙が私の喉元へと深く突き刺さった。

 ぶちり、と皮膚を牙が突き破る音が脳内に響く。全身を痛みが駆け抜けるが、不思議と悲鳴は出なかった。

 じゅるり、じゅるり。

 ゆっくりと血が吸われる音がする。私がずっと聞きたかった音。

 さっきまで熱かった身体が、少しずつ冷えていく。震え始めた身体に力を込め、私は最後の力を振り絞って血を啜るラミリア様の身体を抱きしめた。

 じゅるり、じゅるり。

 意識が遠のいていく。視界が端からどんどん白くなっていき、ラミリア様の姿を見れなくなっていく。

 けれども恐怖などはない。あるのは満たされたという気持ちだけ。


「ありがとうございます、ラミリア様……」


 それが私の最後の言葉だった。


◇◆


「いかがでしたか、今回の『メアリー』は」

「悪くなかったわ。やっぱり私は狩りよりも飼育のほうが好みね」


 月光が差し込む部屋で、吸血鬼は案内人に言う。

 血に濡れた口元をレースのハンカチで満足そうに拭っている吸血鬼の足元には人間が転がっていた。

 死体だ。干からびた悲惨な見た目に反して、微かに満ち足りた表情を浮かべている。

 案内人はソレを一瞥しただけで、すぐに吸血鬼へと視線を戻した。


「アナタ様の世話役は幸せでしょうね。なんせ、最後の最後までアナタ様に愛されていると錯覚して死ねるのですから」

「でしょ? 私ってとっても『餌』思いなの。それに、十分に育ててからじゃないと人間って美味しくないわ。やっぱり恋のひとつでもしてもらわなきゃ。知ってる? 恋を知った人間の血って、喉から手が出るほど啜りたいご馳走なのよ」


 ケラケラと吸血鬼は口を大きく口を開けて笑う。つい先程、仕えていた人間の喉元を噛みちぎった牙が覗いていた。

 吸血鬼はひとしきり愉快そうに話すと、軽やかな足取りで案内人へと近寄る。そしてスンっと鼻を鳴らすと「貴方はいつも不味そう」と言って意地悪く笑ってみせた。


「とっても美味しかったわ、今回のメアリー」


 吸血鬼が近くで話す度、ぷぅん、と鉄のような臭いが案内人の鼻腔を刺した。

 しかし、案内人は顔色ひとつ変えず立っている。この臭いに鼻がもう慣れてしまっているのだ。


「ココはとってもいいところね。途切れることなく人間が現れて、私たちのために世話をやき、そして食べられてくれる。暇つぶしに契約して正解だったわ」


 そう、ココは吸血鬼を閉じ込めておくために作られた箱庭。

 人々を食い荒らそうとする吸血鬼から国民を守るために、先祖は生贄を差し出すことを約束した。

 箱庭で大人しくしている限り、食事と世話を約束すると。ただ人間を襲うだけに飽きてきた吸血鬼たちはこの契約を受け入れた。

 箱庭の中でなら好きにしていい。飽きればまた外へ出ればいいだけ。飽きるまではココで遊んでやる。

 ラミリアのように、投げ込まれた人間を自分好みに育て食べるのもよし。死ぬまでそばにおいて観察するのもよし。とにかく自由だった。

 こうして箱庭は吸血鬼たちの住処となり、国は生贄を生み出すために嘘を掲げた。

 吸血鬼を『愛玩生物』として、姿を公開し、世話役を募ったのだ。

 この真実を知る人間側は数少ない。案内人は、そんな数少ない人間の1人だった。


「ねぇ、次のメアリーはいつ来るの? やっぱり女の子がいいわ。女の子って甘くて柔らかくていい匂いがするもの!!」


 吸血鬼が無邪気に尋ねる。

 その姿はまだ見ぬ恋人を思う、少女の可憐さがあった。


「あぁ! 早く会いたいわ。私の愚かで可愛いメアリー」


 吸血鬼はうっとりと瞳を細めながら窓の外を眺めた。

 その瞳にはもう、先程食べた人間のことなど映っていない。

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箱庭のなかの夢 名束やおね @yaohne80

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