三 鬼音ヶ浜

 三、鬼音ヶ浜


 頭陀袋に入れられた首を首実検のために、首桶に移し替えようとしていた時だ。

「塩、持ってきてくれや!」

 飯盛り女にそう言って、塩を持ってこさせる。首桶に使うとなれば、大量の塩がいる。待機所のあたりがバタバタとし始めた。

 バタバタし始めたのは久々津衆だけではない。城内のいたるところが軽い騒ぎとなっていた。

「久々津の衆が何者かを討ってきたらしい」

 と言う報が、おそらく飯盛り女の口から洩れたのだろう。

 誰もが天ケ瀬播磨守とは思ってもいない。

「まさか?」

 と、天ケ瀬播磨守かもしれないと考えているのはごくごく一握りしかない。

 久々津衆のもとに、いち早く駆け付けたのはお方様だった。

 侍女も置き去りにして待機所に姿を現す。英造老人のみがかしこまるが、若者たちは首桶の用意に忙しい。その手を止められて不機嫌な久々津衆の鋭い視線を一斉に受けても身じろぎもしない。逆に彼らを睨みつける。

「見せよ」

「御屋形様のご検分が先では?」

 英造老人が澄まして言う。

「良いのじゃ」

「なにぶん、ひどいご面相にて、いくらかは拭わねば見れたものではありませぬ」

「あのような者にそのような気遣いなど無用です!」

 雷のような怒声。いつの間に来ていたのか姫様が立ちすくんでいる。今まで母の怒声など聞いたことがなかったのだろう。今にも泣き出しそうな顔でお方様を見ている。

「みせよ」

 もう一度、お方様が言う。断固とした口調。こうまで強情に言われては、見せぬわけにはいかない。英造老人はタキに目配せして、頭陀袋を持ってこさせる。

 受け取った頭陀袋に入ったままの首をお方様の足元に差し出す。

 お方様は侍女はおろか誰にも指図せずに自らかがみこんで袋の中に両手を突っ込んだ。

 何かを探るような動作。やがて、ぐっと力を入れる。

 頭陀袋から一気に首を引き抜く。両の手に抱え上げられ、天ケ瀬播磨守の首が露わになった。

 血まみれで苦悶に歪んでいたが、その顔はお方様にそっくりだった。

 その顔を文字通り眼前にして、お方様の張り詰めた顔に笑みが浮かんだ。

 哄笑が口からほとばしり出るのを必死に押さえ込んでいる顔。

 手段を択ばず復讐を遂げた者の顔。己で遂げようが、他の者が遂げようが関係ない。

 ただ、結果としてその手に憎き者の亡骸があればよい。

「忘恩の徒よ。思い知ったか!」

 哄笑を怒声に変えて、物言わぬ首に。

「首になろうと決して許さぬ。己が卑怯にも掠め取った伝来の領地を再び奪われるを見ておるがよい」

 誰に憚ることのない罵声。

 その背後で、しゃくり上げる少女の声。

 姫様が目に涙をいっぱいにためて泣いている。

 声をあげないのは恐怖からだ。母親の見たことのない激しい面に戸惑っているのだ。

 姫様の方を振り返ったお方様がはっとする。若干の後悔がうかがえる。

 首を頭陀袋の上に放り出す。

 血まみれの手を小袖の裾で拭う。もう首を一顧だにしない。

 素早く、姫様のもとに駆け寄り、抱き上げる。その母親らしい所作に安堵したのか、ようやく姫様が声をあげて泣く。

 首だけを久々津衆の方に向けてお方様が言う。

「よくやりました。褒美は思いのままです。決して約は違えませぬ」

 それだけを言って、お方様は姫様を連れて再び奥に下がっていった。

 お方様が下がって間もなく、遠くで家臣の参集を命じる法螺貝の音が聞こえてきた。

 久々津衆は淡々と首桶の準備に戻る。


 もとより、真実などは人の数だけある。

 ただ、夏のある日、天ケ瀬播磨守が馬場で悍馬の調教をしていたところ、一陣の黒い風が播磨守の首を引きちぎった。首は隣国の館にまで吹き飛ばされたと言う。

 隣国は播磨守の双子の妹の嫁いだ国であり、妹が嫁いだのちに家中の係累を、皆殺しにした。己の父母、兄弟、姉妹は言うに及ばず、敵対する家臣もすべて。

 家中に強権的な体制を敷いた播磨守の国は躍進する。隣国の妹の嫁いだ国さえ早晩、併呑する勢いだった。

 没義道の果ての呪いの様な死だ。

 その死を見越していたかのように、間を置かず今度は唯一生き残った妹の嫁いだ国が、どの周辺国よりも早く反撃を開始する。その死のタイミングを知り尽くしていたかのように。

 国主が急死した混乱の中、あっさりと領地を奪い取った。

 そこに黒い風の一団はなかった。

 御屋形様は約定の通り、久々津衆を日向仕事に用いることはなかった。

 

 久々津衆は、その論功行賞さえ夜の灯の下で行われた。

 御屋形様が平伏する英造老人の横にはもう一人、久々津衆のタキがいる。

 御屋形様の隣にはお方様、さらに御屋形様の腹心が控えている。

「領地が欲しいとのことであったな」

 平伏したまま英造老人は答えない。

「どこを望む?」

「こちらの南西にあります岩山に囲まれた海岸がございます。そこを我々の終の棲家とさせていただければ幸甚にございます」

 御屋形様もそこは知らなかったのだろう。腹心をそばに引き寄せて場所を確認する。

 確かに南西五里ほど行った場所にそういう土地はある。だが、英造老人が言った通り、峻険な岩山に囲まれており、仮に敵が上陸してもそこを足掛かりに攻め込むこともできない。開発しようにも硬い岩盤が隧道を通すにも適さない。海岸も少なくとも強いて開発せねばならないような広さがあるわけではない。岩山に沿って百戸、二百戸程度民家が建てられれば良い方だろう。 領地の中ではあるが、米作など望むべくもなく、故に名がつけられているわけでもない。いわば、捨て置かれたような土地だった。

 そこを望むという。いくばくかの捨扶持の支給と沖合までの漁業権、材木を切り出したいので岩山も含めたという条件付きではあったが。

「本当にそこでよいのか?」

 もっと近くの広大な土地を所望されると思っていただけに、かえって御屋形様が確認せねばならないような始末だった。

「我らのような者はそれほどお近くに置かれぬ方がよろしいでしょう」

 殊勝な物言いだった。

 お方様も拍子抜けしたような顔をする。できる限りの力添えをしてやろうと意気込んでいただけに、久々津衆の望みはあまりにもささやかと言えた。

 やったこととその望みが見合わないことに戸惑う。却って裏があると勘繰りたくなる。

「良いであろう」

 しばしの沈黙ののち、御屋形様が裁可した。英造老人もタキもより一層平伏する。

「だが、どうするのだ」

「日々の糧が得られれば、我らはなにも言うことはございません」

 ただ、と英造老人が言う。

「おそばにタキを仕えさせていただきたいのです」

 影働きをするときのつなぎ役として、英造老人はタキを推薦するという。

「何かと気働きのできる者です。行儀見習いとは申しませぬ、何かと追い使ってやっていただきたく。何かご相談事があれば、タキに申し付け下されば、その日のうちに馳せ参じましょう」

 屋形からそれほど離れていないとはいえ、獣しか通わぬような岩山を行き来するのは骨が折れる。

 久々津衆の身体能力ならば、急な招集にも迅速に対処できるだろう。そのあたりは問題がない。また、こちらの事情に通じた者がいるのは何かと都合がよい。

 御屋形様は英造老人の進言を許可した。

「タキに口上を述べさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 英造老人の言葉。

「申せ」

 御屋形様が短く言う。

「この屋形に出仕できますこと、この上なく、幸せに存じます。誠心誠意、ご奉公させていただきます」

 タキが平伏したまま、口上を述べる。

「励め」

 それで話は終わりとばかりに御屋形様をはじめ、お方様も腹心も席を立つ。

 後には英造老人とタキが残る。

 二人の表情はあくまでも固い。

 この国の滅びの始まりはここから始まった。

 

「よぉいっしょ!」

 男たちの掛け声が響く。皆が皆下帯一枚。全身に幾何学的な刺青が施されている。久々津衆だった。

 十人、二十人の掛け声だから相当なものだが、その掛け声がもたらす音はもっと大きい。

 一トンはあろうかという巨大な槌。先端だけは金属で覆われている。それを左右から軽々と抱えて、岩盤に向かって走っていく。速度は折り紙付きだ。

 膨大な質量が一気に岩盤に突き立てられる。

 岩盤が砕け散る音。その時の音と言えば轟音と言ってよかった。

 その音は風に乗り、城下にまで聞こえてきたという。

 時に昼夜を問わず聞こえ、人も住まぬ浜に鬼が住み着いたと噂された。

 鬼の出す音が響く浜。

 鬼音の浜はやがて鬼の音が転じて杵ヶ浜と呼ばれるようになった。

 浜側から岩山を貫こうとすれば約二百メートル。

 時に時代に似つかわしくない大規模工事を鬼の仕業とすることがある。一夜のうちに長大な堀を掘って見せたとか、戦に当たり数千本の矢を用意して見せたとか。

 御屋形様によりこの杵ヶ浜に久々津衆が封ぜられてから、わずか十日。

 不足がないかと御屋形様がお忍びで自ら浜に赴いた時だ。輿に乗ってお方様さえも同行した。そこにすでに城中に出仕しているタキもいる。すでに肩衣袴姿でまだ髷を結うほどではない長さの髪を頭巾で隠している。

 一行が訪れたのは、槌音が城下にまで響きはじめていた時だ。

 すでに岩山には直径にして三メートルほど、距離にして十メートルほどの隧道ができていた。

「お前ら! 殺しても死ねへんねんから、死ぬ気でやれ!」

 めちゃくちゃな叱咤で英造老人が刺青も露わに久々津衆を指揮している。叱咤の声が隧道の中にこだまする。

「えげつないこと言いやがって、オイボレやから、せんでええと思っとるやろ」

「だれがオイボレじゃ! 言うたやつ出て来い!」

 そうは言いつつも英造老人が杖を振り上げれば、それを合図に槌を持ち上げる。振り下ろせば、岩盤に向かって突進する。

 岩盤に槌が突き立てられる。突き立てた瞬間、槌を持つ久々津衆たちにも相当な振動があるはずだが、その振動を完全に押さえ込む。

 総身に感じるほどの轟音が周囲に響き渡る。御屋形様の乗馬は制御が困難なほど暴れ、お方様の乗る輿を持つ下士たちはその場にへたり込むほどだった。

 さすがにタキが英造老人のもとに駆け寄り、耳打ちする。

「やめじゃ! 飯にせえ!」

 久々津衆に怒鳴り声をあげて作業をやめさせる。

「お偉い方が来たら穴掘りやめさせるんかい! ええ身分やのお!」

 タケの声がひときわ大きく響く。ほかの久々津衆もどっと笑う。

 いちいち、返答するのが煩わしいのか、茶化すタケの声に答えずに御屋形様のもとに駆け寄りひざまずく。

「一言タキに申し付けてくだされば、歓待の用意をしておりましたのに。失礼いたしました」

「いや、我らが瀧之進に口止めしておったのだ。鬼達がどんなことをしておるのかこの目で見たかったのでな」

 タキは城中に出仕するにあたり久々津瀧之進輝信と名乗るようになっている。

「戯れを申されては困ります」

「すまぬ、が、すさまじいな。あの岩山をもうあれほど掘ったのか……」

「皆が皆、定住の地を得ることの喜びに満ちております。一刻も早くこの地を住みよい場所にせねばと逸っておるのです」

「掘りぬくまでどれほどかかりそうか」

「掘りぬくだけならば、二十日のうちには。使用に耐えるよう加工するのに、さらに二十日かと」

 年単位の歳月がかかってもおかしくない事業をこともなげに一月余りで完遂させるという。

「久々津衆はここにおる者だけか」

 三々五々、食事を摂っている三十人ばかりの久々津衆は男ばかりで全員が総身に刺青が施されている

「浜に女、子供衆がおりまして、小屋を作っております」

「どうやって?」

「男衆が海岸沿いを伝って女子供も家財も一切合切を運び入れました」

 久々津衆の膂力を考えれば十分に可能と思わせる。

「久々津衆のものはすべて刺青を入れておるのか?」

「入れておる者もおりますが、我らの『もの』とは似て非なる物でございます」

 御屋形様も要領を得ない顔をする。

「いずれ、鬼音の浜までこの隧道が貫通いたしましたら、ぜひおいでくださいませ。心づくしに歓待いたしとうございます」

「うむ」

 と、御屋形様が鷹揚に頷いた時、周囲の剣呑な雰囲気に気づいた。

 人だかりができている。その中心にタケとタキがいた。

 下帯姿のタケと曲がりなりにもそれなりの装束をまとっているタキが、一触即発の雰囲気でにらみ合っている。

 よく見ればタキのかぶっていた頭巾がない。

 頭巾は笑みを浮かべたタケの手に握られている。タキが何かに気を取られている隙にはぎ取ったものらしい。

「返せ」

 怒気を声に込めてタキが言う。

「穴掘りもせんと、ええベベ着てええ身分やのう、タキ」

「英造さんの推薦や。ワシはワシでやることはやっとる。なんか文句あんのか」

「いや、まあ俺はな、タキが慣れへんお仕えで体もなまっとるんとちゃうかなぁと思ってな」

「お前と顔を合わさんでええだけで清々しとるわ」

「言うやんけ、タキ君」

 額と額が突き合わすほどの距離にまで二人は近づいている。

「止めぬのか」

「二人は幼き頃からの馴染故、久々に会えてうれしいのでしょう」

「そうは見えんが……」

 挑発に挑発を重ねてうれしそうに笑うタケに対して、静かな怒りがいつ爆発してもおかしくないタキ。

「おっと」

 わざと、頭巾を落とす。地面に落ちる寸前でタキが頭巾をつかむ。

「何すんじゃ、コラ!」

 怒声とともに爆発した。

 同時に、カァンとかキィンと言う金属同士を打ち合わすような音がした。

 それはタケの胸にタキの左拳が叩き込まれた音だった。

 人の胸を叩いて出る音ではない。

 渾身の力で叩き込まれたタキの拳をタケは一歩も下がらず受け止めて見せた。

「やっぱりなまっとるんちゃうか。タキよ」

「ボケが」

 タキの目の色が変わった。

「その顔や」

 タケがニカッと笑う。実に良い笑顔だった。

 その笑顔のままタキの左頬を殴りつける。ゴオンという、これも人を殴打しているとは思えない音が響く。

 そしてタキもタケの拳を受けても、こともなげに憤然と立つ。

 タケとタキの一撃はどちらも久々津衆以外の者が受ければ貫通するか、えぐり取られて即死は免れない。だが、久々津衆同士であれば、互いに痣さえつけられない。

 ゴォン、ガァンと、人体を叩いているとは思えない音が響き渡る。互いの体に一撃を加えたからだ。

 周囲の久々津衆も昼飯の良い余興とばかりに囃し立てる。

「久しぶりやんけ、もっとやれや。殺したれ!」

 握り飯を頬張りながら、そんな風に煽る者もいる。

「うるさいんじゃ! おっさん、お前から殺すぞ!」

「ションベンたれが、いうやんけ」

 タケの怒声にも動じず久々津衆の男も笑って応じる。どっと笑いが起きる。

 その間にも、二人の拳の応酬は止まらない。そのたびに人間の発するとは思えない金属音が響き渡る。

 らちが明かないと見たのか、タケが後ろに跳躍して距離を取る。そのまま、岩山に駆け上がる。険しい傾斜をものともしない。

 そのあたりにあった西瓜ほどの自然石をこともなげに持ち上げ、ポンポンと手の中でもてあそぶ。

「避けんなよ」

「お前のヘナチョコ石なんぞ、誰が避けるか」

 何をするか、されるかわかっているにもかかわらず、タケの顔、タキの顔にも笑みが浮かぶ。

 うろたえているのは久々津衆である二人を知らない御屋形様、お方様ばかりだ。

 振りかぶる。ぎゅう、とタケの体がねじられる。タケの全身にたわめられたバネのごとく、力が蓄えられる。

 溜めた力をもったいぶることはなかった。

 力が十分に蓄えられた瞬間、爆ぜるような勢いで自然石を放った。

 重量物を放るときに描くような放物線の軌道ではない。タキに向かって一直線に。発射と言っていい勢いだった。

 タキも避けるまでもない、と言わんばかりに仁王立ちで自然石を受ける。

 タキは自然石が胸に激突しても、身じろぎもせず傷さえ負わなかった。表情も変えない。ただ、身に着けている肩衣は自然石が激突した衝撃で、胸の刺青が露になるほどボロボロになっている。

 今度はタキが足元の石を拾い上げた。手のひらに収まるほどの大きさ。

 興味なさげに石を見ていたが、そのままタケの方も見ずに投射した。その動作は石を持った右手を左わき腹のあたりに持っていくや、すかさず投射する最小限の動作。

 石は空気を切り裂き、タケの額に。タケの石の発射は視認できたが、タキの投射は恐ろしく早く、視認できたのは驚異の動体視力を持つ久々津衆の中でも数人だっただろう。

 そしてその動きを見切っていた一人は当のタケだった。

 笑みさえ浮かべて石を目を見開いたまま額で受けた。石は額に当たるや爆ぜて粉々になる。タケの視界が石粉で一瞬曇る。

 その隙でタキはタケとの距離を一気に詰めた。

 脱いだ自分の肩衣をタケの顔にかぶせるや、そのまま左頬に右拳を叩きこんだ。

 肩衣をかぶせられたままだが、タケは正確にタキの胸に一撃を見舞う。

 そのまま崖の上で無言のまま蹴りを突きを応酬しあう。

 見る見るうちに肩衣は引きちぎられ、ただの糸くずになる。

「御屋形様から見れば、タケはただ粗暴でいたずらに騒動を起こす者に思われるでしょう」

 二人のケンカを見ながら英造老人が御屋形様に語りかける。穏やかな顔だ。

 黙って御屋形様はうなずく。

「意外に思われるかもしれませんが、我らはめったに争ったりは致しません」

 ほう、という顔を御屋形様はした。

「争っても仕方がないからです」

 それは二人のケンカを見ていてもわかる。当たれば跡形もなく砕けるような攻撃をどれほど受けても傷さえついていない。息を切らす様子もない。

「我ら久々津衆の中では、あのような者は珍しいのです。それをわたくしは珍重しております。禍福は別にして、あの野生が何事かを我らにもたらすことを期待しておるのです」

 感傷めいた口調で英造老人が語る。


 もとよりこの時代にケブラーのような耐衝撃繊維などない。

 常識外のケンカの最中でタキの袴も端切れになり、二人は下帯だけになる。その下帯さえもケンカの余波でなくなり、二人は丸裸になる。

 それでもまるで頓着なく、二人は取っ組み合いになる。崖を転げ落ちても、どちらもいかほどもダメージを受けている様子もない。

 ひたすらに相手に突き、蹴りを見舞う。

「そろそろ昼飯も終わろか」

「なんでやねん! ワシ昼飯食うてへんぞ!」

 英造老人が何の気なく発した言葉を聞きつけて、タケが素早くツッコむ。その間も突き蹴りの応酬はやめない。

「知るか。お前が勝手にじゃれとったんやろが」

「じゃれとるんとちゃうわ。殺し合いじゃ」

 タケの言葉を英造老人は鼻で笑った。

「さあ、昼からも気張って働いてくれよ!」

 その声に久々津衆は三々五々応じる。

 遊びに夢中になって、置いてけぼりを食らった子供のように全裸のタケとタキが立ち尽くす。

「瀧之進」

 お屋形様がタキに呼び掛ける。

 すかさず、駆け寄りひざまずく。本人は真面目くさっているが、丸裸ではその姿はいささか滑稽だった。声を出さずに笑うタケの気配も感じ取っているはずだが、御屋形様の前でひたすらタキはかしこまる。

「御見苦しいところをお見せいたし、なおかつ拝領いたしました肩衣袴さえ失い、申し開きもできぬ失態でございます」

「良いのだ。たとえお前に切腹を申し付けたところで刀が刃こぼれするだけであろう」

 ますます、ひざまずく体が縮こまる。

「今は励め、それが何よりの奉公となろう」

「は!」

「今日はこちらに泊まれ。装束一式は届けさせよう。明日、朝一番に出仕すればよい」

「ありがたきことでございます」

 ただただ、かしこまるタキの後ろでひたすらに声を殺しながらタケが腹を抱えている。

 本来ならタケも一緒にかしこまらなければならないはずだが、御屋形様もお忍びの体だから、あえてとがめない。

 後ろから杖でタケを殴りつけようとする英造老人を御屋形様は目で制する。

「仲良くやれ」

 それだけを言って、御屋形様は踵を返し、繋がせていた馬に跨り、お方様を乗せた輿を促して去ろうとする。

 そのまま後に続くかと思われたが、輿はタケとタキの二人の前に来た。

 輿の隙間から二人をうかがう気配がする。

「なんや、俺らのチンチン見たいんかいな」

 さすがに輿の中のお方様にまで聞こえるほどの声ではないはすだが、タキにははっきりと聞こえていた。

 タキが黙ってタケを振り返る。

 その顔を見てタケは顔を青ざめさせ、

「すまん」

 とだけ言った。

「何かありましたか?」

 輿の中からお方様が声を掛ける。

「いえ」

 ますます、かしこまってタキが答える。

「そなたたち二人の働き決して忘れてはおりません。何かあれば申しなさい」

「たまたま命じられたんが俺らや、ちゅうだけの話や。久々津もんやったら誰でもできんねん。俺らだけに感謝されても困る」

 さすがの無礼な振舞にタキが立ち上がる。

「その通りです。久々津の者に礼を失しました。タケよ。謝ります」

「ええん……」

「もったいないことにございます」

 礼を弁えない応答をしかけるタケの言葉をタキが遮る。

 輿の中で笑い声が聞こえた。

「これからもお家のために良き働きを期待しています」

 それだけを言うとお方様を乗せた輿は去っていった。

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