残酷な神

 其れは体の奥底から湧く衝撃。

 衝動を凌駕して、懺悔を酷使して、投影を昇華して、他者を抑圧して、恐怖を制圧して、猜疑を淘汰して、自分勝手に我が儘に利己を中心として光臨し、散々凄惨な所業として、蹂躙すべき小さな少女を魔王の様に連れ去った。

「…へ?」

 双樹は何が起きたのか全く理解出来ず、されるがままになっていた。

 肉を地面に擦る嫌な音が内側から聞こえた。地面には掘られた筋と血、擦り剥けた肌が痛ましい道を作る。それは覚悟した事だ。けれど覚悟した物と痛みが違う。

「痛い痛い!なんで!?痛い痛い痛いぃ!!!ズドンって言ったよ?てか痛い痛いって!」

 自身の体の痛みの不自然さに気付き、双樹は泣き喚いた。

「待って、うぷ…痛い…痛いよ!」

 体が土に塗れ、泥が口に入ってくる。何より痛い。勿論、痛みの苦しみも後悔も覚悟していた。死ぬと腹を括ったのだから、死ぬ程の痛みは当然だと心を構えた。

 けれども、これほど辛い事なのだと思い知らされれば、否が応にも震えさせられる。思う以上の灼熱に、いっそ終わらせてくれと叫びたくなる。気でも狂ってくれと願いたくもなる。

「痛い…痛いよ――」

 ましてやその惨劇を成しているのが、

「奏くん!ちょっと待って!」

 大自然の猛威でも、摩訶不思議な妖でもなく、人だと言うのだから遣る方ない。

 もうどうにでもなれって位、引き摺られていた。

「奏くん!何でよ!逃げてって言ったのに!!」

 双樹は怒った。引き摺られ傷だらけにされている事にではなく、行けと言ったのに行かない奏に。

 二人だと死ぬから自分は残ったのだ。それを助けに戻るとは侮辱ではないか?

「知った事かよ!」

 けれど奏は、双樹の様子などお構い無し。むしろ、途轍もなく怒っていた。

「いい加減にしろ!どんな時でも、トライ&エラーだろ?失敗しそうなだけで諦めるな!」

「奏…く……でも!」

 奏には双樹が諦めかけた事が不満らしい。が、このままではどうやったって逃げ切れない。不可能なのだ。絶対に無理なのだ。

「でも奏くん!これが私なりの答えなんだもん!」

 双樹は諦めるのを諦めて、引き摺られながらも立ち上がり走り出した。

 だが擦り剥いた脚が熱を持ち、感覚を喰っていく。先程より状況は悪化しているといえよう。

「く…分かってるよ。でもその答えは…止めてくれ」

「奏くん…」

 奏の泣きそうな声に、双樹も目を伏せる。奏の頬に涙を見た気がした。奏だって双樹の覚束ない走りは、知っているし、二人はもう完全に風の中だ。助かる事ない位理解しているのだ。

 それでも奏は戻ってきた。それが同情とか正義感なんかじゃないのは双樹も分かっている。それは愛。とても未熟で幼くて、誰かが見たら笑ってしまう程に真っ直ぐな愛。

「ごめんね…ごめんね、奏くん。一緒に……最期の瞬間まで一緒に生きよう」

 気が付いたら双樹は泣いていた。

 嬉しいのか、怖いのか分からない。ただただ感情が溢れて来て、止める事が出来なかった。

「ああ。俺達は生きている諦めない。でも、一緒じゃないと生きていけない」

 ヒュウヒュウと風が五月蠅い。耳に障る。背中を押す圧力にさえ気が触れそうだ。

「現状は最悪だ。でも双樹、諦めるのは生きるのが終わってからにしよう」

「……うん」

 でも足はまだ砕けていない。腕はまだ千切れていない。心臓はまだ爆発していない。頭は付いてる。肺は存命。血管はまだ息してる。肉は全滅まで遠い。眼球は飛び出しそうな程痛い。喉はひり付いて熱い。手足の爪は今にも剥がれてしまいいそうだった。

 痛い。身が痛い。

 だから……まだ走れるのだ。

「行くぞ!双樹!風を追い抜くぞ!」

「きゃっ!?奏くん何を!?」

 奏は何を思ったか急に立ち止まる。驚いた双樹は止まる余裕がなく、そのまま奏の背中に負ぶさった。

「よっし!しっかり捕まってろ」

「奏くん!こんなんじゃ走れない!」

 奏は双樹をおんぶして走る気らしい。

「無理よ!降ろして!自分で走るから…うわ!」

 双樹は抗議した。けれども奏はこうなったら聞かない。双樹の意見は無視で走り出す。

「だから離れ離れは嫌って言っただろ!二人で走る!元気になったら降りてくれ!」

「う…うん。分かった」

 奏は反論する隙もない位早口で捲くし立てた。

 その勢いに流石の双樹も何も言えず、つい頷くしかなかった。

(ずるいよ…ずるいよ、奏くんは)

 奏の背中は大きくて温かった。だから顔を埋め、ずるいと心の中で文句を言った。

 もちろん……こんな無茶が続くわけもない事は、双樹だって理解している。

 もちろん、双樹以上に奏は分かり切っていた。

「しっかり捕まってろよ、双樹!」

「うん……捕まってるよ……」

「人を背負ってても、意外と走れるもんだな。問題なさそうだ!」

「うん……うん……」

「いける!いける……いける!風を追い抜いて、森を抜けて、俺達は生き残れる」

「そう……だね……」

「大丈夫だ、俺達は大丈夫だ!」

「うん……」

「早く帰って、勉強しないと!模擬試験だもんな、明日!いい点数とって、かあさんを説得するんだ!そしたらさ、ちゃんと一緒に夏季講習に通える!一緒に受験できるんだ……やっと、一緒に並べる……がんばらないと……」

 グラリ

「あ…!!」

 奏が体勢を崩す。泥に取られたとか、雨に掬われたとかではない。

 もう、足に力が入らなかったのだ。

「奏くんっ!!」

 双樹は叫ぶ。世界の全てがスローモーションに見えた。奏は体勢を崩し、転び掛ける。

「くっそ!ここまで来て下手踏めるかよ!」

 奏は必死に立て直す。

 しかし奏だって分かる。これでは無理だ。出口まで辿り着けない。

 このままでは転がり、そして止まる。泊まれば、動けなくなる。きっと、もう止まったら二度と立ち上がれない。

「くそ!くそ!」

 膝に力が入らない。脚が意思を反映しない。ぐじゅぐじゅに地面に突き刺さってしまったかのように、重い体を引き抜くことができなかった。

 背中では双樹が必死に叫んでいた。

 降ろして!私が引っ張るから。そんな悲痛な決意が紡がれる。嘘を吐けと笑いそう。双樹はもう動けない。背中でどんどん冷たく、どんどん重く成っていく。

 もうしがみ付いてる力すらない癖に、泣かせてくれる。

「双樹……双樹、俺達は生き残るんだ!」

 奏は力の振り絞って叫ぶ。しかし裏腹に、地面に膝をつく。必死に必死に必死に抵抗したものの、そのままゆっくりと体は地面に吸い寄せられていく。

「っ!!!!!」

 歯を食いしばって、体を持ち上げる。ほんの数ミリ、体が持ち上がる。だから何だと笑わないで欲しい。数ミリ持ち上がったら、数センチ、数センチ持ち上がったら十数センチ、ちょっとずつ立ち上がる。

 心臓の血流が全て逆流し、筋肉の悉くを引き裂いているよう。胃が握り潰され、血のような熱さが口の中に広がる。自分で自分を握り潰しているようで、頭の中が真っ白になっていく。目の奥が真っ赤に明滅して、存在が張り裂けてしまいそうだった。

「そう…じゅ?」

 双樹に抱きしめられている事に気付いた途端、ハッとした。

 奏は地面に倒れ、泥だらけになっていた。双樹は守るように奏を抱きしめていた。双樹は泣きそうだった。この顔は、昔一度見た事がある。二度とさせるかと、決意したあの日。奏はその瞬間、覚悟が消えた。

「双樹…ごめんっ!」

 覚悟が消え、決心が揺らぎ、緊張の糸が切れた。張り詰めていた物、抑え込んでいた物が溢れ出し、弱い自分がどうしても止められなくなった。

「そうじゅ…ソウちゃん!俺…俺ぇ!」

 自分でも何が言いたかったのか分からない。何も意味のある答えを纏められず、しかし双樹を抱き締めた。

「奏くん…謝らないで」

 そんな奏を双樹は笑い、抱き返した。双樹のそんな顔を見たのは、十年前以来だった。

 泣かさないと決めた、遅すぎるあの時から。

 二人は泥の中にまみれたまま。もう……体は前に進まない。

「泣いてないよ、私。奏くんが心配するから…もう泣かないよ」

 昔から泣き虫だった双樹は、最後のこの時に笑った。

 冷たい雨が降る、暗い森の中。冷たく成っていく体で、二人は幼く抱き締め合った。

「ごめんよ」

 奏は双樹の頭に顔を埋めた。もう、体は動かない。

 酷使し過ぎた筋肉は全て切れ、伸び切り、業務を放棄した。さっきまでは双樹だけが冷たかったのに、エンジンを止めた奏の体も競う様に冷却されて行く。

「ごめんじゃないよ。奏くんは、約束を果たしてくれたの」

「え?」

「一生一緒に居てくれる。こんなに幸せなこと、ないよ」

「ああ……ああ……あれもありがとう。ちょっと短くて、ごめんな」

「ごめん、じゃないよ。私達には『おやすみ』と『おはよう』しかないんだよ」

 風が、森が、二人を包み始めていた。

 けれども笑い合う。二人で残りの生涯を笑い合う。

「この場合…どっちだ?」

「おやすみ、でいいんじゃない?二人で良い夢見ましょうよ」

 笑い合い、最後を噛み締めた。こんな終わりならいい気もする。二人一緒なら。

「短い間だったけど…とても楽しい夢を見た」

「うん。私もだよ、奏くん。一緒に居てくれて、ありがとうございます」

 どうせ長い人生、二人ずっと一緒に要られるか分からないのだ。

 ならば、ここで時を止め、永遠になる。そんな終わりも、良いんじゃないだろうか?

『短い人生だったけど、とても楽しかったです』

 本気で思った。本気で胸を張れる気がした。心の底から想い合えた人と出会えたから。人生に意味なんて考える暇ない程楽しかったから。変わった恋だったけど、ハッピーエンドだと思えたのだ。幸せな人生だったと。倒れる二人は、永遠にこの森で惑う。

 夏啼きが過ぎ去り、風を千沢町に逃がせる頃には、冷たい死体となっている事だろう。何人が悲しむかも分からない。抱き合う死体を見て良かったねと言ってくれるかも知れない。それはもう二人には関係ない世界の出来事だ。二人の体力ではこの夜を越えられない。ならば今を永遠にしよう。二人の声は風に消え、森に惑う。

 そんな永遠の物語。そんな二人の物語。

 そんな―――
















 

 ――たった一秒だけの永遠の物語。

 まぁ、どんな決意も、純粋さも、無邪気な圧倒的な悪意の前には踏みにじられる訳だ。人間なんて大自然の前には脆い物。

『反省した?もう懲りた?十年分の悲しみ位は理解して貰えたかな~』

「へ?」

「は?」

 二人が残りの生を生き切ると覚悟した瞬間、緊張感のない声が降ってきた。それは狐娘の声だった。緊張感も、切迫感も一切ない。位相がズレテいるみたい。

『君たち二人は全く成長しないね。ほら、歯を食い縛って。痛いよ。吹き飛ばすから』

 そして雨娘の声であった。口の無い女の子は安っぽい録音みたいな狐娘の声で喋る。

 で、妖し二人の声と同時に、奏と双樹はドドドドと言う実に嫌な音と振動を感じた。

「な、何だ?何だ?」

「あ~……そう言う事?最高の気分ね」

 慌てる奏とは対照的に、双樹はこれが何の音か理解していた。本当もう、さっきまでとは違う絶望みたいな呆れを感じていた。

「この音……土石流よ」

「あ~……」

(ああ、ぶっ飛ばされる……きっと死ぬ程痛い)

 体の下が動き出したのを感じた瞬間、奏と双樹は遠い目をしてしまった。

 土石流。地滑りみたいな物で、車さえも押し流すエネルギーを持つ。最高時速は四、五十キロくらい。つまりは風より速い。

 きっと森を管理する狐娘と雨を降らせる雨娘が居ればいつでも発生させれたし、奏と双樹を死からは程遠いレベルの安全性で送り届けられると思う。

「……すっごく反省したので、あんまり痛くしないで下さい」

『い~や♪十年動けないって長いよ~♪』

 楽しそうな狐娘の言葉から察するに、きっと無傷からも程遠いのだが。

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド

 という、地面の直ぐ下を水が流れるいよいよの音を聞いて、奏は顔を引き攣らせる。

「駄目。もうきゃ~、とかいう元気ない」

「アホか!もうちょっと……さぁ!!備えろよ」

 が、双樹は無気力というか、もう幸せだからいいや、助かるならいいやと投げ槍。多分『あれ』を誰かに見られたかと思ったり、奏の気持ちを確かめられたり、まだ生きていけるのだと分かると、恥ずかしいやら嬉しいやら、やたらめったらに心が揺れ動き、感情がオーバーヒートしてしまったのだろう。

 ドドドドドドドドドドドドドオドドドドオドドドドドオドドドドオドオドド

 そして音は一気に加速し、

「っ!!!!!!!!!」「――――――――――――――!?」

 瞬間、地面がなくなった。

「来るぞ……うわあああああああああああああああああああ、滅茶苦茶すんなああああ」

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 茶色い大災害は、倒れ伏す奏と双樹を飲み込み、押し流し、文字通り吹き飛ばしたのだった。暴風を閉じ込める迷い茨の森の外まで。

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