しょうがないけっきょく

無川石

しょうがないけっきょく

 生姜は嫌いだけど生姜焼きは好きだった。

 甘辛いたれが白いごはんにぴったりだから。別に理由なんてそのくらいで、グルメレポーターでもない私はただ「おいしいから」「ごはんにあうから」好き。特別グルメな舌でもないから、五百円一枚でお腹いっぱいになる生姜焼き定食が好きだった。深夜零時あがりのバイトのあと、みんなが寝静まった夜の隅で、安っぽい白をこれでもかと煌々とさせていた定食屋。チェーン店だったと思うけれど、そこの生姜焼き定食が好きだった。味噌汁、白ごはん、お新香、千切りキャベツが付いて五百円。それが私のごちそうだった。身の丈に合ったごちそうだった。


 人は、ゆっくり、ゆっくりと、何者でもなくなるのだと痛感したのは多分大学三年生の頃だったか。正確に言えば、「何者にもなれない」と気付いた。もう少し私の心が未熟で繊細で、体もずっと小さくて、ろくに長い距離を歩いていない元気な細い足の頃。私の自我がまだ柔く、不定形だったときは「何者かになれるんだ」と思い込んでいた。きっとそう思っていたのは私だけではない。小学校の卒業文集を読み返せば、誰もが「サッカー選手」だの「歌手」だの「小説家」だの。眩い文字列が原稿用紙の上を踊ったものだった。でも少しずつ不定形だった「私」がある程度一定の型にはめられていくと、そんな眩い文字列になれるのはほんの一握りだと知る。才能の有無ではない。環境の善し悪しではない。努力の量ではない。諦めの量だ。


「さらちゃん、もうあれはやめちゃったの?」

「ああー……」

 久しぶりに会った春香は思い出したようにそう言った。春香は大学生の頃一番仲の良かった友人だ。社会人になった今も、予定が合えばこうして会って他愛のない話を交わす。一杯七百円近くする、生クリームやチョコレートソースのかかった飲み物を飲みながら。……生姜焼き定食と同じくらいのカロリーなのに、生姜焼き定食よりも高い。

「あたし今でも持ってるよー、さらちゃんの文芸サークルの部誌」

「うそ、まじで。捨ててよー」

 くつくつ、と笑い声を漏らしながら渇いていく喉を自覚していた。甘ったるいそれを飲んでも、結局喉が潤うことはない。

「捨てないよ、さらちゃんが将来有名になったらお宝だもん」

 春香はきっと、まだ諦めの量が少ないんだ。だから私が捨てたものをずっと持っているし、大学生の頃から表情も言葉も態度も、何も変わらない。確かまだバイオリンを弾いていると言っていた。けれど、出会ったときには既に「趣味だよ」と言い切れるくらいに、彼女も一定の諦めを持っていた。もっと早く春香に会っていたら、もっと違った輝きを放つ彼女を見ることができたのだろうか。

「ないない、ないから。恥ずかしいから、もう」

 またストローを噛んだ。紙ストローはすぐにボロボロになる。ただでさえ紙ストローはボロボロになりやすいのに、ストローを噛む癖のある私は誰よりも早く紙ストローをボロボロにする。たまに千切れた埃の様な紙が、舌に貼り付くこともある。溶けきった生クリームで喉に蓋をした。そうでないと否定の言葉が溢れて止まらない気がした。言葉で否定するのは簡単だった。嘘だろうと真実だろうと、口で言うのは簡単だった。

「そうかなあ、あたし、さらちゃんの詩好きだったんだけど」


 詩が好きだった。短いから小説ほど集中力がいらない。だけど、私と同じ言語を使っているはずなのに、私の知らない言葉がたくさんあった。私の知らない景色があった。海外に行けないけど、海外の写真を見て行った気になれる。おいしそうな料理を食べる人の動画を見て、自分も食べた気になれる。それに近い感覚だったのかもしれない。詩評を書いたり読んで理解できるような、そんな高尚な感性はなかった。それでも好きだった。「なんかいいな」って思った。そういう言葉をたくさん本棚に集めていた。

 けれど人間は貪欲だから、見ているだけでは満足できずに手を伸ばす。実際に海外へ行ってみるし、動画で見た店に行ったりする。詩を読みながら、今にも駆け出したくなる衝動をずっと抑えていた。そんなときだった。「中原中也賞」を知ったのは。

 中原中也賞。詩界の芥川賞と呼ばれているらしい。芥川賞くらいはニュースで毎年聞くから知っていた。詩にもそんな賞があるのか、と思った。特に詩壇にも文壇にも興味のなかった私がそれを知ったのは、ちょうど私と同い年くらいの少女が受賞した、というニュースを見たからだった。まだ未熟で、不定形で、柔く、脆い。そんな少女の言葉が大人たちから称賛される。なんだか不思議な感覚だった。だが彼女の身近さに、私も勘違いしてしまった。

 私も、詩を書けるんじゃないか?

 最初は見様見真似だ。今思い出すだけでも恥ずかしいくらい未熟で、ぎこちない。それでも自分にとっては――自分だけにとっては特別だった。キャンバスの青色の小さいノートに書き貯めた言葉たちは、私にとって聖句のように思えた。それは自分が好きだった詩人の二番煎じで、劣化版で、浅く、夜明けの色をしていた。それでも嬉しかった。私の言葉がそこにあった。高校生の私はそれで「詩を書いて生活ができたらな」と、思ってしまった。何者かになれると希望を抱いてしまった。


 もう飲み切ったプラスチックカップに生クリームの残骸が、みっともなくくっついている。未練がましいそれを洗い流してしまいたかった。見ていられない。喉を塞ぐそれが胃に落ちてしまい、ぽつりと言葉が零れてしまう。

「もう楽しくなくなっちゃったから」

 飲み終わったし、帰ろ。そのまま鞄を持って立ち上がる。春香のドリンクももう空っぽだった。春香は私を止めることなく、ただ「うん」と頷いて、それ以上詩の話はしなかった。春香といて居心地がいいのは、春香のこういうところなんだな、と自分に都合よく解釈した。


 詩がうまい人なんてたくさんいる。才能がある人間も、努力を積み重ねた人間もたくさんいる。そもそも詩を書いてる人間なんて珍しくはない。目に見えないだけで、すれ違う誰もが何者かになろうとしている。私は特別ではない。私は何者かになれるわけではない。結局私は私にしかなれない。

「しょうがない」

 言い訳が口をついて出た。しょうがない。だって私は誰にも詩を読ませたことがないじゃないか。誰かの感想がもらえるわけではない。しょうがない。何かの公募に送る勇気もなかった。しょうがない。自分には才能がない。いやそれは言い訳で、いやでもだって。事実でしょう? 詩がうまい人なんて、素敵な人間なんて、吐いて捨てるほどいる。しょうがない。でも何もしてないのは私でしょう? しょうがない、しょうがない、しょうがない。結局。しょうがない、結局。


 しょうがないから歩いた。終電逃すまで残業したのは久々だった。別にブラック企業でもないし、上司も何度も帰っていいよって言ってた。でもなんだかだらだらと、会社で仕事をしていた。別に今日やらなければいけない仕事ではなかった。ただ、なんとなく今日は隙間が大きかった。その隙間に偶然春風が吹いて、偶然部屋に置きっぱなしのノートのページを捲った、そういう気味の悪い吐き気がしていた。だから誤魔化そうと必死に脳を稼働し続けたかった。

 しょうがないから歩いて帰ろう。疲れたら途中でタクシーを捕まえればいい。時折トラックとタクシーが通り過ぎる大通りを、だらだらと歩いた。等間隔に置かれた電灯がちかちかと明滅する。雨が降ったのだろうか、少しアスファルトが濡れている。わずかに信号の光を受けて青く光る。

「おなか、すいたな」

 胃の底から、ぐるる、と何かが唸った。そういえば結局コーヒーくらいしか口にしていない。何も食べていないのに、いつの間にか最寄り駅まで歩いていた。空腹を通り越して気持ち悪かった。

 ――ふと、生姜焼きが食べたくなった。そう思ったときにはもう足があのチェーン店に向かっていた。

 だが時刻はとうに三時を過ぎている。安っぽい白い光は今はなく、店内も暗闇に包まれていた。今はあの白い安い光ですら欲していたのに、そこにないことにひどい焦りが身体を震わせた。またお腹からぐるる、と唸り声が聞こえて、思わずしゃがみこんでしまった。はあ、と吐いた溜息が白い。春は遠い。

「高良?」

 頭上から声が落ちた。驚いて顔を見上げる。短い黒髪と浅黒い肌の男がいた。一瞬誰かわからなかったが、犬の様にくるっとした丸い目を見てすぐに思い出した。確か大学のとき同じゼミだった内田裕樹だ。なんでこんなところに、なんでこんな時間に。言いたいことが浮かんで、しかし言葉にならずにすぐ消えた。彼が腰を曲げていることに気付いて、そういえば自分がしゃがみこんでいることを思い出した。急に恥ずかしくなって立ち上がる。

「あ、う、内田裕樹」

「なんでフルネーム? どうしたん、ここでなにしとん」

「いや、あのお腹空いて」

「店しまっとるよ」

「いやわかってるし……てか内田だってなにしてんの」

「俺? 俺そこの居酒屋でバイトしとんのよ。買い出し行っとった」

 内田は右手に持っていた大きなビニール袋をぐい、と掲げた。たくさん買ったのか、その動作はサーベルをあげるみたいだった。

「お腹空いとん」

「いや」

「いやって、お前さっき自分で空いとる言うたやん」

「言ったけど……」

 お腹空いて、店の前でしゃがみこんだところを見られたのが恥ずかしくて急に視線が泳ぐ。まさか知り合いに会うなんて思っていなかった。無視してくれればよかったのにとか、なんで私って気付いたんだとか、今人と話したい気分じゃないとか、そういうことを言いたかったのに、結局「お腹空いて」としか言えなかった。しょうがない。だってお腹が空いているのは事実なのだから。

「生姜焼き定食、食べたくて」

 それだけ零すと黙り込んでしまった。そのまま置いて行けばいいのに、内田は少し考えた素振りをしたあと、急にスーパーのビニール袋を地面に置いてがさごそと漁り始めた。そしてまた立ち上がり、「ちょっとここで待ってて」と来た道を引き返した。いやちょっと待っててって、何? 帰ってしまおう。今日はもう生姜焼きは諦めよう。人生ってそううまくいくもんじゃないでしょ。小説やドラマや映画じゃあるまいし。漫画でもアニメでもない。もちろん詩でもない。しょうがない。ああ、こんなときまで結局言えるのは「しょうがない」なのか。諦めよう。生姜焼き定食も、あれも、それも。

 ――動けない。

 その場から動けない。もうエネルギーがすっぽりなくなってしまったのだろうか。動けない。いや動かないのか? この期に及んで? 内田が戻ってきた時、かわいそうだから? 声をかけてくれたのに申し訳ないから? 私はそんなに、誰かに優しい人間だっただろうか。私はそんなに、他人を優先できる人間だっただろうか。でもここで動いてしまったら、私は、私の形でなくなってしまうような気がする。決まった形ではない、それでも私の形が、完全に誰かの形になってしまうのではないか。それって、生きてる意味あるのか? 私である必要、あるのか?

「おまたせ」

 思考がぐるぐると、ゆっくり渦を巻き始めたそのとき、内田の声が聞こえた。息を切らし、左手にもスーパーの袋を持っていた。

「時間ある? 居酒屋ここから歩いてすぐなんやけどさ、俺キッチンやけん、生姜焼き作ったるけ」

 唖然とした。だが言葉が出てこなかった。もう否定するエネルギーもない。力なく頷き、とぼとぼと内田の後ろを歩いた。ヒールで窮屈な足はもう限界に近かった。ああ、だから帰る気にもなれなかったんだ。そう言い訳することにした。だからこの状況もしょうがないんだ。だってお腹が空いていて、生姜焼き定食が食べたくて、足が痛くて。

「店長いいよって言ってくれたからちょっと待ってて。そこのカウンター席座っとって」

 深夜三時、アルコールでできあがったサラリーマンが何人か、騒ぎ立てる大学生が何人か。そんな居酒屋の隅っこの席をあてがってくれた。大人しく座る。ようやく足を休めることができた。その安堵から急に泣きそうになった。でもギリギリのところで耐えた。

「はい、生姜焼き定食」

 少しすると、私の目の前に生姜焼き定食が置かれた。白ごはんに、味噌汁、キャベツの千切りに漬物。そして生姜焼き。

「本当はメニューにないからなあ、味わって食えよー」

「……いただきます」

 豚肉と、玉ねぎに甘辛いたれをたっぷり絡めて、口に入れた。その生姜焼きが口の中からなくなる前に白ごはんも詰め込む。一緒に咀嚼して、ろくに噛まずに飲み込んだ。そのまま味噌汁で流し込む。食道を通り、ゆっくりと胃へ落ちていく。ほ、と息が出た。おいしい。そのまままた豚肉を千切りキャベツと一緒に詰め込んで、飲み込む。漬物を一口、そして白ごはん。

「うまい?」

 カウンターに面したキッチンから内田が顔を出す。口の中に生姜焼きがいっぱい詰め込まれた私は、必死にこくこくと頷いた。そっか、と言って内田が笑った。この人、笑うと犬みたいだなあ。はじめて内田に会ったときにも思った。

 それから内田と思い出話をした。内田は高校からずっとバンドをしていて、今もここでバイトをしながら音楽で生活しようとしていた。そういえばゼミの時、ギターケースを担いで来ることがあった。軽音サークルってチャラいイメージが勝手にあったけど、内田はそんな派手な人ではなく、どちらかと言えば暗い印象があった。話すと気さくなんだけどね、と零せば「言うなや」と照れくさそうに笑った。

「あ、高良って文芸サークルやったっけ」

「……そうだけど」

 最近やけにその話をしている気がする。捨てたそれが一斉に私に復讐しているみたいだ。切りすぎた爪を見た。

「俺そういうんわからんけどさ……あ、なあ、これ知っとる?」

 そう言って内田はポケットからスマートフォンを取り出した。

「ちょっと、バイト中に触っていいの」

「ええの、ええの。こうやってお客さんと喋ったりすんのも仕事のうちやから」

 すいすい、とスマートフォンの画面を固くなった人差し指の腹が撫でていく。しばらくして、これこれ、と私にスマートフォンを差し出した。見れば、ユーチューブの画面だった。

「ポエトリーリーディング、って知っとる?」

「知らない」

「音楽にのせて、詩を読むんよ。これ、俺の好きなポエトリーリーディング曲」

 そう言って彼は再生ボタンを押した。確かに、音楽に合わせて男性がつらつらと話している。詩の朗読、というよりは少しラップぽい。画面の中の彼は、ピアノの音を背に将来のことを歌っている。大人になればみんなが得るような、ありきたりなノルスタジーだった。

「この人さあ、若くして亡くなっちゃったんよな」

「そう、なんだ」

 一曲終われば、同じアーティストの他の曲をまた再生してくれた。私が読んでいた詩とはまた雰囲気が違った。穏やかに歌う曲もあれば、ただ叫んでいるような曲もあった。まるでノートにただただ殴り書いているような。

 共感はできない。良さが理解できるわけでもない。ただ、この人の言葉はこの人のためだけにしかない、と感じた。

「なんか、私にもよくわかんないよ」

「まあ、押し付けるわけじゃないから」

 内田はスマートフォンを、ポケットに入れた。いつの間にか箸は止まっていた。


 ごちそうさま、と一緒に渡した千円は結局内田に受け取ってもらえなかった。その代わりまた来てよ、とだけ言われた。店を出ると空は明るくなり始めていた。腕時計をみればもう五時だった。明日が休みでよかった。

 なにかが、腑に落ちた。詩を書くのが楽しくなくなったのは、誰かに認められようと書いていたからだ。誰が見てもわかるような指標で評価されたかったからだ。詩を書いてもいい、という免罪符が欲しかったのだ。でもそれは誰かと比べられることも伴う。世の中の詩人や、眩しい「文字列」はそれを背負っている。だからといって、私がそうなる必要はあるのだろうか? それは、私を誰かの型にはめているのと一緒なのではないか。

 私に必要なのは、私のための詩だ。私のための言葉だ。誰かにみにくいと、下手だと、みっともないと言われようと、どんな言葉も私にとって必要な言葉だった。そうではないか?

 そしてそれは、私がこれまで散々吐いた「しょうがない」「結局」という言い訳も、やっぱり私に必要な言葉だった。ならば、「しょうがない結局」も詩たりえたのだろうか。私が今まで頭の中で呪詛のように吐き続けた言葉さえも、私の詩だった?


 玄関でヒールを脱ぎ捨て、化粧もスーツも髪もそのままにノートを引っ張り出した。最近ぱったり使われなくなったページに、まっさらなそこに文字を書いてみた。頭の中にあった呪詛を、頭の中にあった景色と、欲しかった言葉と、でもそれら全て私が言葉にしなければ私自身が満足できない、言葉の羅列を。ただの「生姜焼き定食」も、私の言葉の中では私の形を持ち、「しょうがない結局」という言い訳でさえ私の形をしていた。

 いいんだ、これで。私が書いて、私が読んで、それでそこに私に必要な言葉があるなら。何者かにはなれないが、私にとっては私なのだ。私が私の言葉を以て私を私にするのだ。だったらもう、それでいいんじゃないか。それがいいんじゃないか。

 窓の外から柔い太陽の光が差し込む。青白い部屋の中で、ただただ私の為だけの時間が、言葉が溢れていた。


「春香、文芸サークルの部誌、私がもらっていい?」

「え、いいけど……さらちゃん捨てちゃったの?」

「うん。でも、ちょっと読みたくなっちゃって」

 五百円の生姜焼き定食を春香にごちそうしながら、「しょうがない結局、私そういう人間なんだ」なんて言い訳した。


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