五の六 茂治 九月二十四日

 大草原、という物を茂治は初めて見た。

 三百六十度、人工の建築物がまったくなく、地平線まで続く丈の低い草と、遥か遠くに霞んで見える波のようなわずかな丘陵と、後は押しつぶさんばかりに広がる雲ひとつない大空が視界の上半分を覆って、その中に孤独そうに昼前の太陽がぎらぎら輝いている。

 空気も胸いっぱいに吸うと心地よいほど澄んでいて、いつも呼吸している日本の空気がどれほど不純物が混じっているかあきらかなほどであった。

「私、地平線って初めてだよ」

 ふと、数歩離れた所にいたヨンジャが言った。車中でエメリヒ氏に指摘されたから仕方なく茂治に話しかけた、というわけではなさそうで、何の気なしに、ぽつりと言葉が出てしまった、といった風に聞こえた。

「俺たちの住んでいる町だって、濃尾平野の端っこにあるんだから、本来なら、ちょっと小高い丘に登ればこれくらい真っ平な景色が広がって見えるはずなんだけどね」

 茂治は答えた。今まで何となく声がつまって彼女とは話しができなかったが、一度声に出してしまえば、流れるように喋ることができた。

「そうね、少しだけ高いところからでも十五キロ向こうの高層ビルとか、はっきり見えるもんね」ヨンジャが遠くを見つめながら言った。

「戦国時代とかなら美しい景色だったろうね」

「ごめん、私日本の歴史にうとくって」

「ああ、ほら、秀吉が朝鮮に攻め込んだ頃。韓国だと光海君クァンヘグンの頃かな?ちょっとずれてるかな」茂治は、ヨンジャが韓国育ちで、いささか複雑な生い立ちだということを時詠の巫女から聞かされていた。

「あら、茂治君も韓流時代劇観るの?」

「西さんも?」

「私じゃなくって、友達が大好きなのよ」

「そう」

 そうして、ふたりは黙り込んだ。ぷつりと話の接ぎ穂が千切れたような感じだった。

 やがて、思いついたように、

「なんか、これまで、色々、ごめんなさい」

 茂治が謝ると、

「べつに」とヨンジャが照れ臭そうに答えた。

 そうしてしばらく黙って、ふたりは地平線を眺めた。

「そういえば聞いていなかったけど、茂治君て何年生?」

「高三」

「えっ、ひとつ上?ごめんなさい、私ずっと同じ歳だと思い込んでました」

 突然ヨンジャは敬語を使い始めたのに、

「いや、やめて、本当、なんかくすぐったいから、やめてね」

 茂治がそう慌てて返すと目が合って、ふたりは声を出して笑ったのだった。

「そういえば、巫女さんはまだ来ないの?」

「俺もおかしいなと思ってたんだ。先に到着して待ってるって話だったんだけど」

 茂治は待ち遠しく、時詠の巫女の顔を思い浮かべるのだった。

 彼女がいなければ、茂治は間違いなく、いまだに無益な不良狩りなどをやり続けていたであろう。そうして今頃は、影の魔物に心を侵蝕されて廃人と化していただろう。彼女の存在はやはり特別であった。言葉を介さなければ意思疎通もお互いを理解することもできない低俗な人間達(と茂治は周囲を見ている)の中で、彼女だけは違っていた。茂治が何も語らずとも巫女は茂治を理解してくれていた。

 巫女はかつて言った。

 ――友達として、私を助けてくれないかしら。

 組織に属する必要はない、私と、何よりあなた自身のために、と言われ、このひと月あまり彼女の頼み事に応じてきた。

 彼女への憧憬は恋とは違っていた。恋などとは比べ物にならないほどの、何かもっと高尚で純粋で、言葉では表現できない気持ちに動かされて、巫女と行動を共にしていた。大仰に言えば、巫女のためなら命をなげうってもかまわないとさえ思えるのだった。

 そよ風が吹き抜けていった。草草の頭を撫でるように渡ってきて、茂治の体を通り抜けるように去って行った。それは体を中から浄化してくれるような心地よい感触であった。まるで、時詠の巫女に話しかけられた時のような心持ちだ、と茂治には思えたのだった。

 とヨンジャが、

「あれ?」と何かを見つけた。「あの車、巫女さんじゃないかしら」

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