四の二 ブライアン 八月十七日
北海道H市内にあるホテルのレストランでの朝食は、ビュッフェスタイルで、パンやスープをとって座席に戻ってきたブライアン・ステイシーは、ほどなくして同様に戻ってきたトバイアス・ケリーとともに食事をとり始めた。
「おい、トバイアス、それは朝食とは言わん」
トバイアスの手元に置かれたトレーの上の、パンケーキに生クリームが山盛りに盛られて、その生クリームの姿が見えなくなるほどチョコチップがふりかけられ、さらにその頂上にちょこんと缶詰のサクランボの乗った、胸やけのするような「朝食」を見ながら言った。
「耳に
「なんだと、病院に連れて行ってやろうか」
「違いますよ、日本では口うるさく言われて聞き飽きたことを、耳に胼胝ができるというんですって」
「じゃあ、アメリカ人にはできないな。たっぷり小言を聞いてもらうぞ」
「そういう意味じゃないけど」
「わかって言ってるんだ。いいか、トバイアス、よく聞けよ。人の体という物は摂取する栄養によって強くもなれば弱くもなる。ともすると今の食生活が十年後に影響をおよぼすことだってあるんだ。特に、お前は成長期だ。成長期に適切な栄養をまんべんなく摂取しないと、丈夫な肉体が形成されない。それをお前は俺の言うことを聞かず、ハンバーガーやフライドチキンや高カロリーで味付けが濃いだけの食べ物ばかりを食べたがる、それじゃあ健康な肉体はできないんだ。お前のご両親だって、そういうことまで考えて、日日の献立を考えてくれているんだ。それを俺と過ごしたひと月の間で台無しにするわけにはいかない。俺にはご両親に対する責任があるんだ。いいか、トバイアス……」
そこへ、ふいに見知らぬ女性がトバイアスの横の席に座り、
「朝から、うるさ」
などと気安く声をかけてきた。
他に席はいくらでもあいているのに、不躾な日本人だ、と思っていると、女は逆に怪訝な顔でブライアンの見つめてきた。
女は黒い髪を後ろで束ねて、グレーのノースリーブニットにタイトなスカートを履いて、薄い化粧をしていた。しかし化粧が薄いせいで、かえって二十歳くらいの若若しい健康的な美しさが際立っているようであった。
しばらくその女とブライアンはじっと見つめ合った。
「わかった、お姉ちゃんだ」トバイアスがはっとしたように言った。
「やっとわかったか、ガキンチョ」女がにっと笑う。
「なに、タマキか!?」ブライアンはうっかり大きな声をあげて驚愕してしまった。
あの、素肌も見えないほどの厚化粧とパンク系のスタイルを、朝から晩まで貫き通してきた
「驚いた、お前、そんなに可愛かったんだな」
不純さの抜けた彼女の姿に、人間ひとりよくここまで変身できるものだと啞然としつつ、ブライアンがつぶやいた。
「僕は前の方が好きだけど」
「いったいどういう風の吹き回しだ」
「いやさあ、私の格好って目立つじゃん。追手にすぐに見つかるのって、私に原因があるんじゃないかと思ってさ」
ブライアン、トバイアス、環の三人は、目標の人物を探して、東京からじょじょに北へ北へと移動していた。移動は鉄道やバスや、時にヒッチハイクもあったが、しかし、必ずと言っていいほど、東京でブライアンを捕まえようとした
「まあ、しかしあの刑事の目はそう簡単にくらませられないと思うけどね。なんだろあのしつこさは」トバイアスがパンケーキにたっぷりと生クリームをつけたのをを頬張りながら言った。
「ジャン・ヴァルジャンを追うジャヴェール警部もかくとかや、といったところだな」溜め息と共にブライアンが言った。
「じゃあ、私はファンティーヌで、ガキンチョがコゼット?」
「僕は健気な女の子じゃないけどね」
「なんだ、お前らレ・ミゼラブルなんてよく知ってたな」
「アニメで」「映画で」と環とトバイアスが同時に答えるのだった。
「ちゃんと小説を読まんか」
呆れながら、ブライアンはパンをちぎって口に放り込んだ。
「しかし、日本の警視庁というのは、アメリカのFBIに相当するのか?なんであの刑事は俺たちをどこまでもつけ回せるんだ」
「さあ」と環が化粧をしていた時よりも一回り小さくなった目をぱちくりさせた。「刑事ドラマじゃ、日本全国けっこう自由に捜査しているけどね」
トバイアスにすでに実家へ連絡をとらせて、捜索願の取り消しをたのんであった。トバイアスの両親が届出を取り下げてくれているのなら、執拗に刑事に追われる理由はもうないはずだった。
「ところで、もっと北へ行けばいいんだなトバイアス」
「うん先生。だいぶん近づいてきているよ。目的の人は近い」
ブライアンはスマートフォンを取り出して、地図アプリを起動させて、現在位置をチェックした。ここから北というと、ひとまずS市まで行けば良さそうだ。
ホテルのチェックアウトの時に、フロントで環がS市までの道案内を聞いてきた。それによると、
「特急電車で、四時間近く。距離からすれば、東京、名古屋間に匹敵するわね」
「どんだけ広いんだ、北海道って」
「まあ、アメリカで言うと……、わかんない。国土の広いアメリカに住んでるふたりの方が、長距離移動には慣れてるんじゃないの?」
「いや、俺はほとんどカリフォルニアから出たことないからな」
「当然、僕もね」
そう話しながらホテルを出た。
ギラギラとした太陽が三人の頭に照りつけ、夏の終わりがまだ彼方にあることを感じさせた。
その駅へと向かう三人の後を、じっとりと生臭いような目つきで油断なく見つめながら、五十半ばの刑事がひたひたと後を追っていった。
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