三の十三 時詠の巫女 八月十五日

 先ほどから玉のような大粒の雨が、ひきっりなしにビルの窓ガラスに打ちつけ、不調和なメロディーを鳴らしていた。

 時詠ときよみ巫女みこはオフィスビルの十階の一室から雨に濡れ沈むN市の景色を見て、美しい景色だと思った。

 オフィス街のコンクリートのビルが立ち並ぶ一画で、けっして美しいと言えない風景ではあったが、雨に洗われる姿は汚れを祓い清らかに生まれ変わっていくようで、巫女の目に心地よい景色として映るのであった。

 巫女が振り返ると、机の向こう側に座ったルーファス・ウォンが脚を組んでコーヒーを優雅に飲んでいる姿が目にはいった。この男が飲むと、たいして高価でものないコーヒーが、なにかハイレベルの飲み物に見えるから不思議なものだ。

 そこは、どこか一流の会社の会議室といったしつらえの部屋で、巫女の前には二十人ほどが席につけるガラス製のテーブルが置かれ、たくさんの椅子が添えられていた。細長い部屋の向こうはガラス張りになっていて廊下が見通せた。巫女の立つ、外に向かうこちら側は二メートルの高さのガラスが嵌められて、コンクリートビルの森林を眺められたのだった。

 巫女は椅子に深く腰をおろすと、ゆったりとした姿勢で、ルーファスを見つめた。

 田舎の小さな神社のいち巫女にすぎなかった自分が、ルーファスに見いだされ、時詠の巫女と呼ばれるようになって、もう三年が経った。

 それにしても得体の知れない男であった。

 虫も殺せないような優男然とした風貌をしていながら、田村茂治という無垢な少年を平然と操って人を襲わせたりする。出身が香港系イギリス人という以外に過去の来歴はまるで不明だし、見た目は二十代後半に見えるが、はっきりとした年齢さえわからない。

 しょせん自分もこの男の駒のひとつにすぎないのだろう、とふとした瞬間に巫女はいつも思うのだ。

「探知の少年の行方はまだつかめないのですか」

 そう訊いた巫女を、ルーファスは背筋が寒くなるような鋭利な横目で見た。あの時あなたが邪魔をしなければとうに捕まえていたのだ、と言っているようであった。

「トバイアス・ケリーですね。東京にいたことまではわかっております。その後北に向かったようですが、正確な居場所は捕捉できておりません」

「北というと、ドイツのかた――エメリヒ・クルツさんが北海道にいますね。彼を追っているという可能性は?」

「おおいにあります」そう抑揚なく言って、ルーファスはコーヒーを口に運んだ。

「世の中、思い通りにはいかないものです」

「こう申してはなんですが、巫女様がもうすこしお心を厳しくお持ちになられれば、すべて我らの望みどおりになっておりました」

「強引に事をするめるのは、私は好きません。ましてや、先日のように、茂治君を蛮行に走らせるなど」

「そのお気持ちが甘い、と申し上げております。それでは我ら組織の頂点に立たれるにはいささか心もとない」

「そう叱らないでください、ウォンさん」

「まあ、クルツ氏は今しばらく放ってもよいでしょう。放っておいても、もう少しで、我らの知るべき情報を手に入れてくれるはずです」

「どうも、人を操っているようで気持ちよくありませんね」

「巫女様、どのような者にもに情けをかける優愛ふかいお心には感服いたしますが、約束の時までもう時日がないのです」

 巫女は苦い思いを沈めるように、ぎゅっと目を閉じた。彼女には未来予知の能力があったが、予知した事象の起きる場所までは特定できないのが欠点であった。

「約束の場所へと至る鍵を握っているのがクルツさん」

「そういうことです」

「そして声を聞きし者達と我らをつなぐのがトバイアス君」

「さよう」

「ソ・ヨンジャさんという少女は?」

「彼女はどうもダークホースと言うべきか、いまいち動向の予測がつきません。様子をみるよりほか打つ手がないのがもどかしいところですな」

「約束の時までは、もうふた月を切っています。ですが、ここは焦らず慎重にお願いします」

「かしこまりました」

「たよりにしていますよ」

 再び目をつぶって、巫女は大きく吐息をついた。

 約束の時が訪れさえすれば、そうしてその瞬間に我らがその場所に立っていさえすれば、人知を超えた力によって、この乱れた世に安寧をもたらせるはずだ。彼女はそう信じ、そのために生きてきたのだ。かならず成し遂げねばならぬ。

 雨はまだやまない。

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