三の十二 ヨンジャ 八月十五日

 台風の暴風域にT市が入って、先ほどから波が寄せては引くように、風が強く弱く交互に押し寄せて、ヨンジャの祖母の家が軋むような音を立てて、雨戸はひっきりなしにガタガタと耳障りな音を立てていた。

 ちょうど昼時なのだけれど、雨戸が立ててあるので部屋の中は真夜中のようであった。小さく太鼓を叩くような遠雷が聞こえてくるし、怖いくらいに激しい雨が屋根を叩くし、鼓膜を揺さぶるような低い風音が時折聞こえるし、ヨンジャは部屋でひとりでいるのもなんだか不安になってきて、階下へ降りて、ビーズの暖簾をわけながら居間へ顔をのぞかせた。と、

「ちょうどよかった、ご飯ができたわよ。今呼びに行くところやったわ」

 祖母がそう言って、茶碗や皿をテーブルの上に並べているところだった。つけっぱなしのテレビの画面には、台風の情報を伝えるアナウンサーの姿が映っていて、お盆休みの最終盤に近畿地方を直撃した台風によって、実家へ帰省していた人たちのUターンに影響を与えているという話を深刻そうな表情で伝えていた。

「困ったわ。こんなことなら、ちゃんと材料買い込んでおけばよかったわ」

 ご飯とお味噌汁と、ソーセージに目玉焼きにきざんだキャベツが皿に盛りつけてあった。

 ヨンジャは、ほかほかのご飯を韓国海苔を巻いて、はふはふしながら食べた。

「台風は今夜には通り過ぎるんでしょ」

 楽観的なヨンジャの問いに、

「今夜のおかずがないんよ。豚肉とキムチだけじゃお腹もたないやろ」

「充分だよ」

「台風が近づく前に買いに行こうかしら」

「やめときなよ。そうやって災害時に安易に外に出るから、いつも犠牲になるのはお年寄りでしょ」

「んま、年寄りを馬鹿にして」

「してないって」

「でも、ヨンちゃんがいてくれてよかったわ。おばあちゃんひとりだと不安でしょうがなかったわ」

 ヨンジャはお盆休みの混雑を避けるという名分のもと、韓国への帰国を伸ばし伸ばしにしていたのであるが、こうなってみれば、それが幸いであったろう。

「もう、一週間ばかり家に帰るのも面倒くさくなってきたよ」

「おばあちゃんは、ヨンちゃんがいてくれた方がうれしいけどね。お父さんやお母さんが寂しがるでしょ」

「うん、どうしようかなあ」

 夏休みの直前までは、あんなにこの国を離れたくてしかたがなかったのに、由里と出会って、ほんの三週間ばかりいっしょに過ごしただけで、今度は韓国に帰るのが煩わしくさえ思えてきたのだった。

 この夏休みの間だけのことではなかった。今後も、もし由里と仲良くやっていけるのならば、留学ではなく正式に編入して高校に通い、大学もこちらの学校に通えば……、などという夢想を抱いたりするのだ。

 そうして胸の内に由里のイメージが現れると、ヨンジャの胸はなぜか鼓動がどきどきと早鐘を打つように高鳴り、耳に痛いほど大きく打ちつけるのだった。

 この心が温かくなるような、同時に締めつけられるような感情はいったいなんなのだろうとヨンジャは思うのだが、その正体は霧の中で落とし物を探すように、模糊として皆目見当がつかないのだった。

「ねえ、おばあちゃん、もしもの話なんだけどさ」

「なんやの」

「来年になっても私が向こうに帰らずにこっちに残って、高校卒業したらここから大学とか通うことになったら、迷惑かな」

「まさか」と祖母の顔がぱっと明るくなった。「そうしてくれたら、お祖母ちゃんは願ったり叶ったりやわ。でも、突然どないしたの」

「あのさ、こないだ連れてきた、由里ちゃんっているでしょ。あの子が言うんだ、鈴ちゃんは日本語と韓国語のバイリンガルなんだから、せっかくの特技を伸ばさなきゃもったいないって。で、考えたの。通訳や翻訳家になるにしても、もうちょっと日本語の勉強をしないといけないでしょ。それには向こうの大学よりも、こっちの大学の方が何かと都合がいいのよ」

「受験競争も韓国は大変よねえ。こっちも楽ではないけど、向こうに比べたら良い方だもんね」

「まあ、あくまでアイデアのひとつなんだけど」

「ヨンちゃんの好きなようにしなさい。学費とかも心配しなくていいから」

「いや、そこまでは甘えるつもりはないよ」

「でもここで暮らすと在日だって周りに知れてしまうよ」

「そんなこと気にしてないよ。今だってもうみんな知ってるし」

 祖母は差別と偏見の中で生きてきた人らしく、他人との相違を過度に気にするところがあった。日本で生きていく中で、道ですれ違う人から罵られたり、子供から石を投げられたりしたこともあったらしい。高校の制服にしろ自転車にしろ、ヨンジャがいったん断ったのにほとんど強引に買いそろえてくれたのは、祖母のそういう生い立ちに原因があるのだろう。

 その時、頭の上で雷の音が鳴った。ずっと前から遠くで鳴り続けていた雷が、急に距離をちぢめてきたような具合だった。

「あら、雷だわ。懐中電灯出しとかなきゃ」

 祖母はそう言って立ちあがって、納戸へと入っていった。

 将来の構想を祖母に語ったことで、急に現実味を帯びてきたように、ヨンジャは感じた。

 ――こっちにずっと住むって由里に話したら、あの子、どんな顔をするのかしら。

 また由里の顔を思い描いて、心臓がひとつ大きく跳ねたようだった。

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