三の七 エメリヒ 八月四日

 山と田園が交互に流れる車窓の風景にもいささかの無聊を感じつつ、ふと気がつけばうとうととまどろみに落ちていて、そうした短いまどろみを幾たび重ね、やっとのことで、電車は北海道のほぼ中心にあるF市の駅に車輪をとめた。

 エメリヒは駅のホームに立って、はてこんな風景だったかな、と思った。二十年も経つと、ずいぶん記憶が曖昧になっているものだ。

 駅舎を出ての喫茶店でしばらく疲れた体を休めて、タクシーを拾って市の東の隅にある祖母の家に向かった。

 市街を出たところで、ふと歩いてみようと思いついたのは、この土地の空気を吸いたいという気になったからだった。短距離乗車でちょっとふくれっつらを見せる運転手も、チップを渡すとにっと笑って、またどうぞ、などとお愛想を言う。

 さらに東へ向かって一キロも歩くと、気まぐれにタクシーを降りた自分を後悔した。

「北海道は涼しいと聞いていたのに、ずいぶん暑いな」

 溜め息まじりにつぶやいて、エメリヒはハンカチで額の汗をぬぐった。

 水田の広がりは遠く周囲の山の麓までずっと続いていて、濃い緑の木々に覆われた山々が青い空の下に肩を並べて、そんな景色を眺めながら大きく息を吸うと、澄んだ空気が胸を満たし、清廉さを取り込んで生き返ったような心持ちになったのだった。

 こうしてこの風景を眺めていると、祖父が満州から移り住んだ時に、この地を選んだ理由がわかる気がした。

 町が小ぢんまりとしているところも、町から一歩出れば田畑が広がっている景色も、どことなく祖父の出身地であり今エメリヒが住んでいるドイツのR市に似ているようでもあった。

 祖父ハインリヒは、第二次世界大戦直前に満州へと移住して、日本敗戦間際に日本本土へとうまい具合に逃れていた。どうせ軍の情報をつかんで一般市民を見捨てて逃れたのだという陰性な見方を、エメリヒはしていたが、祖父はエメリヒが生まれる直前に亡くなっていたので、真偽のほどは定かではなかった。

 さらに二キロばかり、東の山に向かってエメリヒは歩いた。

 じゃがいも畑で腰を曲げて何か作業をしている数人の農夫達を眺めながら、さて、この辺りだったはずだが、とスマートフォンを取り出して地図アプリを開いて、自分の位置を確認していた。

 すると、農夫のひとりが足早にこちらに近づいてくる。

 ちょうどいい、祖母の家の場所を尋ねてみよう、とエメリヒはその小柄な人物に向けて、日本風に軽く会釈をした。

「エメリヒ?」

 トーンの高い声調で農夫が言った。

 遠目で見たらわからなかったが、声を聞き、近くで見ると女性である。

「エメリヒ、よね」

 女性はにっこりと微笑んで、エメリヒの顔を無遠慮に凝視するのだった。

「サトミ?」

 エメリヒは呆けたようにその名前をつぶやいた。

 陽に焼けてすっかり肌の色は黒くなって、目じりに皺が寄っていたが、確かに従姉の郷美に違いない。

 郷美はエメリヒより三つ年上で、母の姉の子供で、二十年前にここを訪れた時には、(おせっかいにも)ずいぶん世話を焼いてくれたものだった。

「いやあ、久しぶり。来るんなら電話くらいしてくれればよかったのに」

「ははは、みんなを驚かせようと思ってね」

 郷美は振り返って、不安と好奇心をないまぜにこちらを見ているふたりに手を振った。

「エメリヒよ、お父さん、お母さん」

 ふたりは雄大な空の下で、ぽかんと口を開けて顔を見合わせている。


 母の実家である山本家は、近年建て替えられたらしく、以前来た時とはうってかわって近代的な造りになっていて、昔の黒ずんだ木造家屋の面影はまるでなくなっていた。

 郷美に連れられて居間に入ると、ソファーに座ってテレビを見ていた祖母が目を丸くしてエメリヒをみつめてきた。

 郷美もそうであったが、日本人は歳をとっても若く見えるとエメリヒは思った。

 もう九十近いはずなのに、まさに矍鑠かくしゃくとしていて、背が軽く丸まっているところに年齢がでていはいたが、祖母は立ち上がってエメリヒの傍まで来ると、涙を浮かべて手を握るのだった。

「ゴメンね、おばあちゃん。母さんがいっしょじゃなくて」

「いいのよ、エメ君が来てくれただけで、おばあちゃんはいいのよ」

 握る皺の寄った手に、きゅっと力がこめられらた。

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