二の十一 ブライアン 七月十三日

 いやはやまったくの失敗であった、とブライアンはいまだにうなだれていた。

 先月末の学校での大騒動で、警察に通報を入れたのは、いかにも短絡的な行動であった。直後に学校へと向かった警察官は、ごく自然に補習授業を行う先生達と受ける生徒達を目の当たりにし、自分達がいたずらに引っかかったのだと理解した。

 当然、ブライアンは校長に呼び出されて大目玉を喰らったのであった。

 大の大人が警察にいたずら電話をかけるなど言語道断、訓告だけでクビにならないだけありがたいと思え、などと散散説教をくらってあげくの果てには普段のブライアンの素行についても嫌味を言われ、減給に謹慎(といっても夏休みのことで実質的な処罰とはいえなかったが)を命じられて、落着となった。

 しかしあの騒ぎはなんだったのだろう、といまだにブライアンには不思議でならない。

 学校でブライアンとトバイアスが、教師と生徒達に襲われたのは事実であるのに、誰もそのことを覚えていないと言うし、監視カメラは不調だったようでその時の様子だけすっぽりと録画されていなかったし、まったく、学校全体からかつがれたとしか思えないのであった。

 そうして今日はいつもの味気ない夜食を終え、夫婦別別の部屋にひきこもってラップトップパソコンで小説を書いていた。が、思考が散逸しているような具合で、どうにも筆が進まない。

 すると、突然けたたましく玄関のドアを叩く音がして、ブライアンは立ち上がって階下に降りた。部屋のドアから顔をだしている妻のアビゲイルに部屋に入っているように命じて、ブライアンはそっと玄関ドアに近づいた。外にいる人物に存在が気づかれぬように細心の注意をはらって、ゆっくりと近づいていく。ドアからは、まだどんどんと叩かれる音がやまない。

「先生、いますか、先生、助けてください!」

 その聞き覚えのある声に、ブライアンあわててドアに駆け寄った。

「トバイアスか、どうした!?」

 言うとともに開いたドアから、小さな影が飛び込んできた。外を見れば、乗り捨てられた自転車が庭の隅に転がって、街道には、いまちょうど車が止まって、トバイアスの両親が飛びおりて駆け寄ってくるのだった。

 ブライアンはあわててドアを閉めて振り返った。

「どうしたトバイアス、何があった。お前、自転車でここまで走ってきたのか?」

 中学生が夜道を、十五キロばかりも自転車で走り抜けてきたことになる。

「見ての通り、お父さんとお母さんが、あの調子でしてね」

 トバイアスは平然とした声で言うのだ。

 ブライアンの後ろのドアはどんどんと叩かれている。

「落ち着いてください、ケリーさん」

 呼びかけてみたものの、しかし、ふたりにはその声は耳に届いていないようで、ドアを叩いたり蹴ったり、しまいには肩でタックルして打ち破ろうとしてくる始末であった。

 そこへ、奥からアビゲイルがそっと近寄ってきた。

「アビゲイル、ちょうどいい、お前、二階にその子を連れて行って、隠れていてくれ」

 妻はそっとうなずいたようだった。

 が、次の瞬間、連れていくというよりは、連れ去ると形容しするのが適当なほど、アビゲイルは乱暴にトバイアスにしがみついた。

「先生、ダメだ、奥さんもおかしくなってる!」

 はっとして、ブライアンはふたりの間を引き裂くように割って入って、強引にアビゲイルを引き離した。

「トバイアス、上に逃げろ!」

 うなずいてトバイアスは階段を駆けのぼっていく。

 そうこうしている間に、ついに玄関ドアが破られ、ケリー夫妻が即座にブライアンに掴みかかってくる。

 ブライアンはふたりをつきとばして、トバイアスの後を追った。

 階段を駆けあがり、部屋に飛び込んでドアを閉めるのと、三人が到着するのがほぼ同時であった。

 トバイアスとふたりで本棚をずらしてドアをふさいで、肩で息をしながら、

「いったいどういうことだ、トバイアス」

「ご覧になった通りですよ」

 ドアからは三人のタックルする音と振動が響いてきて、恐怖心をあおってくる。

 しかしどうする、と背中で本棚を押さえながらブライアンは困惑の極みであった。このまま立てこもっていても、三人がいつ正気に戻るかわからないし、警察に電話をかけてみたところで、先日の一件で、ブライアンとトバイアスは信頼を失っているから、信じてもらえるとは思えない。願わくば、騒ぎを聞きつけた近隣住民の誰かが警察に通報してくれることを祈るばかりであった。

 ふと気がつけば、トバイアスは大きなリュックサックを背負っている。それをじっと見つめる視線に気がついたのだろう、トバイアスが、

「ああ、これですか、いつこういう事態に陥ってもいいように、最低限の荷物をまとめてあったんですよ」

「それは用意周到で」

 まったく感心なことだ、とあきれたように溜め息をついた。

「おい、一応警察に電話をかけろ」

「信じてもらえないと思いますけど」

「一応だ、トバイアス」

 トバイアスが電話をかけている間中、ずっと本棚を押さえ続けた。ドアを破ろうとする振動が伝わってきて、棚の本がぐらぐら揺れる。

「どうだ、トバイアス」

「来てくれるとは言っていたけど」

 警察が到着するのが先か、バリケードが破られるのが先か……。

 と、ついにドアが破られ本棚が押し倒された。

 どっと雪崩れ込んでくる三人を、ブライアンが受けとめる形になった。

 だが、三人がかりの体当たりを、ブライアンは受けとめきれず、押し倒され、三人の体重が一気にのしかかってきた。

「トバイアス、逃げろ!」

 トバイアスが、もつれあって団子のようになった四人を飛び越えてドアを飛び出していく。

 三人はブライアンには目もくれずに彼を追って走っていく。

 ブライアンは立ち上がると、窓を開けて、そこから出てぶら下がり、慎重に地面に飛び降りた。足がじんとしびれるのをかまわず、道路へ向けて走り出す。

 道に到達するのと、トバイアスが玄関から走り出てくるのが同時だった。

「こっちだ、トバイアス!」

 ブライアンとトバイアスはもう後ろを振り返りもせずひたすら走った。

 あてどなく、夜の街をさまようように、走り続けた。

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